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コロナ禍に問う差別問題と私たちのあり方とは

今回アメリカで起きたミネアポリス事件。改めて事件の一部始終の映像を見ながら、現在のアメリカ国内の暴発の原点にしっかり寄り添おうと思いました。

コロナによって、この社会の様々なことが炙り出されるといわれていますが、この人種のみならず"差別"と言う問題は、まさにその一つなのだろうと痛感させられます。それはアメリカだけではなく、人類全体の闇であり、超えていくべく残課題なのだとも思います。多様性を本当の意味で受け入れ合い、協調と調和できる世界にシフトできるのか。あえてコロナによって国の交流が制限されたからこそこのタイミングで突きつけられている全世界共通の課題なのかもしれません。

そんな中、SNSのタイムラインで見かけたこの映像。1968年にキング牧師が暗殺された後の米国のある授業だそうです。この授業の中で浮かび上がる社会の「差別」という関係性の現象。子供たちの表情の変化や言葉の変化にその縮図を見ることができます。途中から自分の内側に、表現できないどうしようもない悲しさが溢れて止まりませんでした。

この問題は日本人にとって、決して対岸の火事ではなく、昨今の自粛警察や誹謗中傷問題にも通じることから、この期により多くの方々がこの機会に見てそれぞれに気が付いたり学ぶことが多いのではないかと思い、シェアしています。

「たった15分で子供たちが変わってしまった。」と映像の中で語っている通り、この現象にはある強力な原理が働いているはず。組織や人、関係性の心理を構造化したり状態をコンセプト化している仕事もしている身として、一歩踏み込んでこの映像から差別が生まれ、浸透していく構造。そして、何が変化の鍵なのか、そして私たちは何から脱却する必要があるのかについて書いてみました。よろしければ映像をご覧いただいた後にご覧ください。

1.権力構造による区別と意味付け

映像から読み解く差別の構造

まず、映像の中では先生と生徒と言う権力関係の構造的特徴があります。先生の立場が優位で、生徒側には「従う立場」であり、かつ「先生は正しい知識を持っている」という「前提」が存在しています。そのうえで無条件で区別を行いました。「青い目が優位で茶色い目が劣位である」。構造的特徴の関係で単に色の違いだけで何の今根拠もない断定的な情報を、従う側である立場の正とはそれを無意識に受け入れようとする態度が現れます。そのうえで、先生は青い目もつ人と茶色い目をもつ人との違いを明白にするための”意味づけ”を行っていました。個々の特徴は負の経験を劣位の立場に紐づけ、その反対を優位の立場に紐づけるということです。これによって無根拠な色の違いという情報の中に経験に基づく優位性と劣位性が意味づけられていきます。つまり、この段階で起きていることは「認識に変化がもたらされる」ということです。それは権力構造が明確なほど有効に機能してしまうのです

映像から読み解く差別の構造②

次に先生は、青い目の子に「5分余計に遊んでいい」とし、茶色い目の子には「水飲み場は使ってはいけない」「青い目の子とは遊んではいけない」という制限を与えました。さらに茶色い目の子とはダメな子だから襟を付けるというルールを一方的に決定しています。まず、ここで行われていることは「関係性と行動の方向付け」です。優位の方に「~してよい」、劣位は「~してはいけない」と行動範囲に差を設けています。そして次に「関係性の見える化」です。つまり襟を付けている人は劣位である。周囲からは瞳を見る前に一目瞭然でわかる。さらに襟を付けるという行為そのものに「自分は劣位である」という意味が設けられ象徴となる。結果として、それを身に着けるたびに「自分は劣位である」と思い込まされていく自己否定の原理が働き始めるのです。このようにして権力上位者から区分けられ、意味づけられたように行動と関係性がつくられることはすなわち、違いとして意味づけられた通りに社会が構成されていくことを可能にしてしまいます。つまり、話を聞いて頭の中で理解していただけのの違いが、行動を通じて目に見えるものとして現実化してくるわけです。これをここでは「新しい認識に沿った社会構造化」と呼ぶことにしておきます。

映像から読み解く差別の構造③

さらにその環境下で翌日を迎えてみると、子供たちの表情や言葉にも変化が現れてきました。校庭でうつむき加減の子供や、言葉の中に差別的な表現も現れてきています。殴り合いもあったということでした。この環境に臨場感が生まれてきたことでその格差を身体知として実感し始めたことから起こってきた変化と言えるでしょう。この状況は優位である実感、そして劣位である実感というものが青い目の子供たちと茶色い目をした子供たちの間にはっきりと生まれてきたといえます。では、優位の実感とはどのようなものでしょう。ここでは映像の様子から「優越感」やのびのびとした「自由」の実感が見えてきます。一方、劣位であるの実感とは、からかわれ、まともに扱われないことによる「劣等感」や行動の制約による「閉塞感」かもしれません。映像には現れていませんが、私にはここにさらに加えたい要素があります。それは、この状態が長期化した場合に生まれうる優位と劣位にまつわる2種類の心理状態です。1つ目は優位である方に生まれる「保守的な心理」そして2つ目は劣位の方に生まれる「破壊的な心理」です。1つ目の心理状態は優位である状況がコンフォートゾーン(心地よい状態)にあることで、この環境に変化が加わることに抵抗を示すようになることから生まれてくると考えられます。2つ目の心理状態はその環境に不満が蓄積することで打破したいという欲求から生まれてくるはずです。このような環境下における感情の現れこそが、差別によって生まれる対立構造のきっかけであり、きっと人類の歴史において継続して起こり続けてきた本質なのだろうと思います。

映像から読み解く差別の構造④

また、映像の授業では再現されていませんが、社会ではこのような対立構造がおこることで、マスメディアがこの状況をその対立構造を経験していない層を含めた全体にフィードバックしていくわけです。それによって何が起こるでしょうか。映像の授業の中であれば「やはり青い目の子は〇〇だ」「やはり茶色い目の子は〇〇だ」という区分けをさらに明確にしていくわけです。当然ながら優位の方に好意的解釈が進み、劣位の方にその反対の解釈が生まれ得るでしょう。そして、次にその対立構造を生まないために関係性や行動のルールに新たな項目が加わっていく。もちろん、優位な方に有利に働くように。そのようにして、格差の実感はますます明確になり、社会構造の歪みはもっと大きくなっていく。悲しいことに格差の生まれた社会におけるマスメディアのフィードバックというのは、その社会構造の前提に立って伝える限りにおいてどうしても歪んで伝えてしまうことになってしまいます。伝える側がそのいずれかの立場にあるからです。この点においては、実態をつかむ媒体が単一的でいくらでも操作が可能だった過去と比べ、インターネット社会が進み、メディアが多様化しコモディティ化しつつある現代においてはその影響力が比較的弱体化してきていることは明らかですが、まだまだその存在感は大きなものと言えます。

このように見ていくと、この映像からも想像がつくようにこうした強化ループを通じて差別というものが社会の中で強化され、根深いものへと進化してしまう。歴史の時間だけ人類の暮らしに根付いているため、差別をやめましょうというだけでは十分でないことは明らかです。

では、その根底にある本質とは何でしょう。

映像から読み解く差別の構造⑤

それはきっと、我々人類の集団的意識の奥に潜んでいる「支配欲」なのではないでしょうか。私には人が人を支配統制していきたいという人間の本能的ともいえる欲求こそがこの差別というものの根っこにあるように思えます。ただ、支配欲とは通常目に見えるように現れてきません。これまでの歴史を振り返ると「正義」という仮面をかぶって登場しているように思えます。ヒトラーの登場の時もそうでした。ユダヤの迫害も上記のようなプロセスをたどっていたようにも見えます。彼はマスメディアを上手く使ってその差別意識を増大させていたように思います。「人を支配したい」と表立って語る人はいないでしょうし、そんな人は目立ってわからないかもしれません。また、そうした思いは特別な誰かしか持たないわけでもありません。例えば、思い通りに今生きている社会を動かしたい、思い通りに人生を歩みたい、思い通りに人と関わりたい、思い通りに仕事を進めたいとは誰もが思う時がある/あったはず。そんな小さな「思い通りに...」という意識こそ小さな支配欲の萌芽であり、誰もが本能的に兼ね備えているものではないでしょうか。しかし、ある部分でそれは当然なのかもしれません。なぜなら、みんな生まれて数年の間は誰もがその権化だったはずですから。

ここからいかに脱却できるのか。そのためには、こうした集団意識を深く見つめながら、自己との対話を行ったり、他者と対話を行うことも一つの方法かもしれませんね。結局のところ、こうした差別のある社会からの脱却とは、何はともあれまず私たち一人一人の意識の変化にあると思っています。

その意識の変化に加え、現実問題として何を変える必要があるのでしょうか。私は3つの要素を挙げてみました。

①権力構造とリーダー
②社会の制度と仕組み
③マスメディアの影響力

①は言うまでもなく、その力を行使する源です。支配欲の高いリーダーの下ではこうしたことはいつでも起こりえます。そしてその権力の質と範囲によっていつでも起こすことが可能になります。改めて、今私たちはどういう人をリーダーに選んでいるでしょうか、そしてこれからリーダーになってもらいたいと思う人とはどのような人ですか。それを改めて見つめ直す必要があるかもしれません。そして、2つ目は社会の制度と仕組みの中にこうした差別的構造が強化されてしまいかねないものがないか改めて見直していくことです。居住区や仕事の種類、一目で「自分は劣位である」と自覚してしまう構造があればそれを見直すことも必要でしょう。そして最後に3つ目、マスメディアはどんな社会であることを前提にして起こっている出来事を伝えていくと良いでしょうか。また、分散した個人メディアはどのような理想社会を夢に描きながら世の中の姿を伝えていくとよいでしょうか。それぞれがそれぞれの立場で影響力を持ち始めていくからこそ、伝えていくコンテンツの精査が、これまでとは異なった次元で必要になっていく必要があるのだろう思います。

こうしたことがこのコロナという存在を通して見直され、人類が次の時代へと変容を遂げていくためのアラートとして、今回のミネアポリス事件がこれだけ大きな問題へと発展しているのかもしれません。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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