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左右盲の私たちには、別世界が見えているのかもしれない


「左右盲」という言葉がTwitterのトレンドに上がったあの日、ここに居ていいんだ、と思った。

「左・右」という単語を持たない民族がいることを知ったとき、わたしは空間の見方がみんなと違っただけなんだ、と思った。


右と左がわからない人

わたしは右と左を瞬時に判別することができない。

 スライドの右上を見てくださいと言われて左上を見るから、講義の理解が遅れる。

 教習所で左折しましょうと言われ従うと、教官に急ブレーキを踏まれて「そっちじゃない!!」と怒鳴られる。


中学生の頃までは、「帰国子女だから」ということにして納得していた。

海外に住んでたのはたった3年だったけど、板チョコをチョコ板と言っちゃうくらいには日本語がおかしかったから、右と左とrightとleftが、ごっちゃになっただけだろう、普通に過ごしてたらそのうち定着するだろう、と楽観していた。

でも、帰国してから10年経って、大学生になってからも、
右と言われれば左を見るのだ。

これはちょっとおかしい、と思い始めた。


「お箸を持つ方が右だよ」

小さい頃、誰もがそう教わってきたと思う。
どっちでお箸持つんだっけ?って考えてから正解を出していた。小さい頃はそれでいい。

わたしは23歳になって未だに、お箸持つ感覚、ペンを持つ感覚が、2つある手のどっちに残っているかを考えてからでないと、わからない。


馬鹿だなー、ハハって感じで、深くは考えないようにしていた。

でも、ちょっと間違えるたびに、少しずつ自尊心が削られる感じがした。


文字通り、右も左も分からない人

みんな普通にできるのに私だけできない、ということになんとなく焦りながら、

でもどうすることもできずに、

いずれ医者になったときに間違って患者さんの健康な方を手術しそう、
なんて茶化してやり過ごしていた。

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トレンドに「左右盲」を見つけた日

Twitterは私のオアシスだ。暇があれば開いてしまう。

ある日、いつも通りTLを見終わって、トレンドチェックに移行したとき、

「左右盲」というタグに気づいた。

初めて聞いた単語だったけど、

すぐに「私だ」と思った。


急いでクリックして関連ツイートを漁ると、
確信した。

造語ではあるものの、
左右盲とは、左右の判別が苦手なことを言うらしい。

「わたしも左右盲だ」というツイートがたくさんあった。


心底嬉しかった。
安心した。

自分が馬鹿なだけだと思っていたのに、

それに名前が付いていることが。

たくさんの仲間がいることが。


それで何かが解決するわけじゃないけど、
自分ひとりがおかしいんじゃないんだ、とほっとした。

心強かった。


それぞれの空間把握

そんななかである日、大学の図書館を歩いていると、こんなタイトルの本に出会った。

もし「右」や「左」がなかったら(井上京子著)

そこには、「左右」の語彙を持たない・用いない言語が発見されたことをとっかかりに、空間把握の仕方が民族により異なることが示されていた。

この本曰く、右・左という語彙を持たない民族がいる、ということは、

右・左という空間の把握の仕方は、西洋ではよくみられるが、人類共通ではなく、単に特定の集団内で用いられる空間の切り分け方に過ぎないというのだ。


なんという福音。


右も左もわからない、という表現があるように、左右は誰にでも区別がつくものだと思っていたが、そうでもないらしい。

英語がわからないからと言ってバカなわけではない。ほかにも言語はたくさんあるからだ。
左右がわからないからといって、バカなわけではない。ほかにも空間認識の仕方はあるからだ。


では、左右を持たない民族はどういう空間把握をしているのか。


オーストラリアのグウグ・イミディール語では、「東西南北」を使って、位置を表す。

日本語でも、「東京タワーは皇居の南にある」など、建物などの大きなスケールで位置を示すときに方角を使うが、グウグ・イミディール語では、手の届く範囲のものにも使う。

例えば、下の図を言葉で説明するときに、

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日本語なら
「コップはランプの左にある。」と表現する。

一方、グウグ・イミディール語を話す人なら、
「コップはランプの北側にある。」と方角で表現する。


他にも、メキシコのテネパパ村での母語、ツェルタル語では、左右がない代わりに「上り側・下り側」が用いられる。
テネパパ村が険しい山地の斜面にあり、北へと傾斜しているため、南が「上り側」、北が「下り側」という言葉で表現されるのだ。

つまり下図を表現するとき、

無

テネパパ村の人は「コップはランプの下り側にある。」と言う。


これらの言語のように、位置関係を方角などの絶対的な軸から示すことを、「絶対的指示枠」という。
一方、位置関係を、左・右というように自己中心的に示すことは、「相対的指示枠」という。

相対的指示枠では、視点が動くと簡単に左右が変わってしまうが、
絶対的指示枠では不動の座標軸を用いるので、誰から見ても位置関係がはっきりとわかるという利点がある。

しかし、日常生活で絶対的指示枠を使うには、常に自分が座標軸のどの方角にいるのか把握しておく必要がある。
実際、その話者たちは方向感覚が優れているらしく、見知らぬ土地を連れまわしても自分がどの方角から来たか把握できている、という研究結果がある。


絶対的指示枠を使う言語は意外と多く、全言語の3分の1に上るのではないか、とまで言われているらしい。

日本では、西洋化した今でこそ主に相対的指示枠を使っているが、古来より風水や陰陽道など方角を気にする文化があり、昔は絶対的指示枠を多用していたのかもしれないと推測されている。


わたしたち左右盲に見えているもの

以上をこの本で読んで、もしかしたら私は、他の日本人とは空間認識の仕方が違うだけかもしれない、と希望をもらってホクホクしていた。

そんな折、友達と二人で歩いているときに、右と言われたのに左に曲がってしまいそうになったことがあった。

照れ隠しもあって、左右が苦手なこと、左右でなく東西南北で空間把握をしている民族があること、もしかしたら私もそっちの民族なのかもしれない、と話してみたら、

「絶対そうだよ」

と即答された。

自分でも半信半疑だった仮説なのに断定されて驚いた。

けど、すぐに納得した。


「だって、ヴェネチアで太陽みながら”ホテルこっち‘’って歩きだしたとき、びっくりしたもん。」


そう、わたしは方角で位置を判断して歩く。


太陽はいい目印だ。二人でイタリアにいったときも、そういえばそうやって歩いた。


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わたしには普通のことだったけど、周りの反応を見る限り、そうでもないらしい。


どうやら、わたしは左右が苦手な代わりに、方向感覚がいいらしい。
まさにテネパパ村の人と同じだ。


右も左もわからないバカ、ではなく

グウグ・イミディール語話者のように、テネパパ村の住民のように、


絶対的指示枠で空間を把握するタイプなだけなのだ。



だからって、これからも左右は使っていくわけで、一生困ることには変わりはないんだけど、

それでも、すり減る自尊心の量は減る気がする。



だって、わたしにはオーストラリアやメキシコの先住民が、仲間についているんだから。



もしかしたらこれは、他の左右盲のひとにもあてはめられることかもしれない。

もしあなたが左右盲だったり、身近に左右盲の人がいたら、ちょっと考えてみてほしい。


もしかしたら、空間の見え方が違うだけかもしれないから。


世界のどこかに、仲間がみつかるかもしれないから。



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参考文献:もし「右」や「左」がなかったら/井上京子著(大修館書店)













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