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―脱線のすすめ― その1 脱線の定義ver.191229

 「脱線のすすめ」

 …というフレーズを思いつきました。これでnoteのマガジン機能を試してみるのもよいだろうとも。タイトルにver(年度・月・日)を記すことで,途中からの方針転換も可能にしています。
 さて,早速今の私の頭の中にあることを整理しつつ,「脱線」なるものの背景と定義と今後の方針を考えてみたいと思います。

1. 現象が先,理論が後

 生物は理科の一分野です。「理科とは何か」という問いには多くの解答が考えられそうですが,ここでは「身の回りのことに説明を与える教科」とします。大事なのは「身の回りのこと」という部分であり,理科という教科で学ぶことは決しておとぎ話やSFの中の出来事ではないのです。
 生物はよく暗記科目と言われてしまいます。でも,仮に目の前に知らない生き物が現れたら,「何だコイツ」と思って,内骨格はあるか,表皮はどのようかなどと,それが哺乳類や爬虫類,昆虫や軟体動物といったどの分類群に当てはめられそうか考えるわけですよね。知らないもの,見たことのないものに対して説明を与えることは,それ自体がちゃんと思考であるはずなんですけど,やたらと暗記暗記言われる気がします。ぷんすこ。

 「現象が先,理論が後」という言葉があります。すでに身の回りに存在しているモノに,人間が後から理論を与え,人間がそれを理解する営みのことを端的に表現しています。しかし,理論というのは面白いもので,まだ人間がその目で認識していないモノの存在や,その性質を予見することができます。例えば,1869年,ロシアの化学者メンデレーエフが発表した元素の周期表。「すいへーりーべーぼくのふね…」と,その序盤を覚えた方も少なくないと思います。周期表は元素を,① 軽いものから順に,② 性質の似ている元素が近くなるよう並べるという考え方で作られています。元素の質量は,炭素を12とすると,最も軽いものから順に水素が1,ヘリウムが4,リチウムが7,ベリリウムが9,ホウ素が11,そして炭素が12…と,概ね1〜3ずつ大きくなります。ここでメンデレーエフは,こうして当時発見されていた63種類の元素を並べた時,亜鉛とヒ素の間の質量の差が10近くもあることに気付きます。元素の質量が1〜3ずつ大きくなるのであれば,亜鉛とヒ素の間に2つくらい,まだ人間が見つけていない元素があるのではないか―メンデレーエフはそう予見し,仮の名称と,その質量等を予測しました。今ではその2つはガリウムとゲルマニウムとして発見され,メンデレーエフの予見が正しかったことが分かっています。
 このように,身の回りにある現象を深く観察して理論を与えることで,未だ見ぬ現象を予測するという営みが可能になります。人はこれを「科学」と呼び,身の回りのモノに説明を与える方法として広く受け入れられています。現象は理論に帰納され,理論は新たな現象に演繹されますよね。現象が先,理論が後,されどよくできた理論から予測されることは現象の発見に先んじうる―これも,科学の醍醐味の一つだと思います。

2. 理科の問題を解くこと

 私は,この「現象が先,理論が後,されどよくできた理論から予測されることは現象の発見に先んじうる」という考え方を,理科の問題演習に使えないかと考えています。いわゆる「初見の問題」ってあるでしょう?「見たことないから解けない」「知らないから解けない」などと言われることもある問題です。そこに,本当にそうですか?と水を差したいのです。よくできた理論が現象の発見に先んじるのであれば,「初見の問題」の解答だって,ちゃんと現象と理論を勉強していたら,ある程度の確からしさを以て予測ができるのではありませんか?ということです。貴方の理科の勉強は,「現象が先,理論が後」で終わっていませんか?
 もちろん,初見の問題の中には,知らないから解けない問題も含まれます。例えば,細胞の模式図があって,ミトコンドリアに矢印が引かれ,「これは何ですか?」と聞かれたとしましょう。もしも貴方が生物初学者で,ミトコンドリアというものを知らなければ,模式図をいくら眺めたって「ミトコンドリア」という文字列を思いつくことはありません。これは単純明快に知識を問う問題で,これはもう覚えなければ仕方ありません。
 それでは,「サクラの根端分裂組織には葉緑体がある ○か×か」これはいかがでしょうか。これが単なる知識問題ではなく,扱い方次第で「思考力」とやらを問えうる問題であることは,過去にこちらのnoteにまとめました。詳しくはそのnoteをご参照いただきたいのですが,この問題に答えることは,「植物細胞には葉緑体がある」という現象(あるいはその知識)から演繹されること(=根端分裂組織にも葉緑体があることを支持する)と,「タマネギの根端分裂組織には葉緑体がない」という現象から類推されること(=サクラの根端分裂組織にも葉緑体がないことを支持する)と,どちらが「サクラの根端分裂組織」に当てはまりがよさそうかを吟味するということではないのかと,私は考えています。

 もう一つ具体例を挙げましょう。私が受験生だったころ,実際に入試の本番で解いた生物の問題で,次のようなものがありました。体の大きなトンボと,体の小さなトンボの2種を用意し,翅の運動を妨げないように胸部を温度計に固定します。両種の羽ばたき方(大型のトンボは羽ばたく前に,翅を小刻みに動かす「ウォームアップ」という行動を採ることなど)を説明した文章と,翅の運動による胸部温度の経時変化を表したグラフが与えられ,「この2種のこのような違いがなぜ生じるか,考えられることを述べよ」というものでした。初見の感想は「知らんがな」でした。まぁ,解いたんですけど。
 さて,この問題のミソは何でしょうか。教科書や資料集には,トンボの胸部温度に関する単元はありません。しかし,教科書や資料集の中に書いてあるものを使って解くことは自明ですから,何かは使えるはずなのです。
 ここで,「現象は理論に帰納され,理論は新たな現象に演繹される」ことを思い出しましょう。現象は具体理論は抽象に相当します。したがって,帰納の際には抽象度を上げ,演繹の際には少しベクトルを変えて抽象度を下げることになります。ですから,「大小2種のトンボの胸部温度」を考えるときは,まずはその抽象度を上げることからスタートするのが妥当でしょう。考えるためには,スタート地点が大事ですからね。
 結論から言いますと,「動物の大小と体温」まで抽象度を上げると,該当する理論が資料集に見つかります。「ベルクマンの法則」といい,「哺乳類において,近縁な動物を比較すると,高緯度に生息する種の方が体が大きい傾向にある」というもの。体温についてはその理屈の方に説明があります。体長が2倍になると,単純計算で表面積は2^2=4倍,体積は2^3=8倍になりますから,体長が伸びると表面積よりも体積の方が大きく伸びます。そうすると,体積あたりの表面積の大きさは,体長が伸びるほど小さくなります。体積あたりの表面積が小さいほど,体の表面から熱が奪われることを防ぐことに繋がりますから,高緯度に生息する動物の方が体が大きい傾向にある―というものです。
 しかし,ベルクマンの法則はその定義上,そのままでは哺乳類にしか使えません。トンボにそのままベルクマンの定義を演繹することはできないのです。しかし,体長が伸びると体積あたりの表面積が小さくなることは,哺乳類だろうと昆虫だろうと,立体であれば同じことです。昆虫が変温動物であり,体温を太陽光に大きく依存することにも注意すると,大型のトンボは小型のトンボに比べて体積あたりの表面積が小さく,太陽光によって体が温まるのに時間がかかると予想されます。大型のトンボに「ウォームアップ」が見られることも,その予想を支持するものでしょう。

 で,ここでちょっと聞きたいんですけど,生物って暗記科目なんでしたっけ?ここまで読んで,皆さん本当にそう思います?

 ああ,ちなみに。さっきしれっと流しましたけど,「変温動物であるとはどういうことか」という問いの答えの1つは,「体温を太陽光に大きく依存するということ」です。化学反応は一般に温かいほど早く進行します。筋肉の収縮は体内で起こる化学反応の結果ですから,筋肉は体温が高いほど活発に動きます。だからトカゲは,日中よりも早朝のほうが捕まえやすいんですよ。トカゲが日当たりの良いところで日光浴をするという行動は,実は「代謝」の単元や高校化学で学習する反応速度論でも説明することができ,…

3. というわけで「脱線」とは

 受験生物で要求される力には,単純な知識の多寡と,上記のような名状しがたきものとがあります(「名状しがたきもの」はもう少し細かく分類すべきかもしれません)。後者の力をどうやって養おうかと考えたときに,1つの提案として,ある1つの単元で以て説明されがちなある現象を,別の単元を切り口に見つめる経験を積む,というのはいかがでしょうか。
 教科書は1度書いたことを2度書きません。それをするととんでもない分厚さになるので,それは仕方のないことです。しかし,高校生物の「単元」とはそもそも,すでに存在していた生命現象を,人間が後から勝手に分割し,典型的な現象・理論を恣意的に並べたものです。そう考えると,元来,ある生命現象が,ある1つの切り口でしか語り得ないということはないのです。

 というわけで,いつものような長い前置きの果てに,「脱線」を次のように定義します。

 検定教科書に於いて,ある生命現象Pの一側面P’と,それを説明する単元Aがあるとき,Pの別の側面P’’を,A以外の単元を切り口に説明しようとする試み・態度

 …どういうこと?と言われそうなので,その一例を挙げて本稿の締めくくりとしようと思います。そういえば最近,友人と視力の話になったんですよね。
 視力。つまりそれは眼球に関することなので,生物の「動物の反応と行動」という単元で説明されるわけです。眼球の構造はこうなってますよ,眼球が光を感知するしくみはこういうものですよ―といった具合です。私は小学校1年生の時分から眼鏡とお付き合いしている近眼で,恐らくは遺伝によるものなのですが,よくよく考えると近眼になる遺伝子なんて,サバンナでは割と致命的だと思うんですよ。生物の形は往々にしてその合理性に着目され,無駄がないものとして語られがちですが,近眼という形はむしろ不合理に思えます。もしこの世界に眼鏡というものがなければ,私は重度の身体障害者でしょう(裸眼では,PC画面と10cmほどの距離まで近づかなければ,このnoteも執筆できません)。でも,私のように小さい頃から近眼のヒトは少なくない。これはいったいどういうことなのか。

 これは前述の「動物の反応と行動」という単元からは説明ができません。「生物の進化」の単元の出番です。他の動物の視力がいかほどなのかは私は知りませんが,少なくとも眼鏡の存在するヒトの社会では,近視であることに自然選択がはたらかないのでしょう。
 ある形に自然選択がはたらくと,特定の形をもつ個体が生き残って子孫を残し,それ以外の形をもつ個体が死亡します。その結果,形は収束します。キリンの首が長くなったのは,キリンの先祖のうち,高いところの葉を食べることのできた個体が,他の動物と食物を奪い合わずともよくなり,より多くの子孫を残すことができたためです。そうして,キリンの首は今ある形に収束しました。逆に言えば,自然選択がはたらかなければ形は収束せず,そこには多様性が生じる「余裕」のようなものが生まれます。多かれ少なかれ,何かにつけ個体差があるということは,その個体差の範囲内であれば子孫を残すことにさほど差し支えがないということです。ヒトの視力に多様性があることは,眼鏡という科学技術の結晶のおかげで,視力に自然選択がさほどはたらいていないということの証左と言えるのではないでしょうか(注:何かしらの文献を元にして言っているわけではありません。「こういうことも言えそうだよね」というノリで話しています。その点ご容赦下さい)。
 ちなみに,上記のような生物学的な理屈から,多様な人間が暮らす社会ほど「余裕」があるのだろうと考えます。たまたま眼鏡がある時代に生まれたという理由で健常者の顔をして生きていられる我が身にとって,「余裕」のない社会とは眼鏡を外せばすぐに眼前に現れるものであり,さまざまな「不寛容」に息苦しさのようなものを考えずにはおれません。

 視力を進化の切り口から考えてみる―こうした営みを私は「(教科書による学習の典型的な流れからの)脱線」と呼ぶことにし,このような事例を意識的にちゃんと集めておきたいと,年の瀬に何となく思ったのです。備忘録として,頭の中の整理整頓として,この場を借りてだらだらと書き連ねてみました。ご意見・ご感想,こういう事例はどう?といったご提案など,いつでもお待ちしております。(結)

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