5 by 5+α〜私が影響を受けた本(中村篇)
僕はいま、東京から離れた(と言ってもさほど離れてはいない)とある海沿いの街でこの文章を書いています。僕はなぜ、この街に降りたのでしょうか。なぜこの街は、僕を磁石のように引き寄せたのでしょうか。この旅には、目的も、責任もありません。
旅の中で自分の文化的なアイデンティティを確立するとかそういう話をしているわけではありません。僕は自意識を探しているのです。それは、凍える夜にコートのポケットの中で手を握りしめて、自らの温もりを再確認するという行為によく似ています。
この自らの温もりを僕は東京ではいつも見失ってしまいます。(都会の夜ほど、エゴが溢れている場所はありません)僕はいつも、生きていくうえで役割などはなくて、意味のない、意志のない使命だけが僕を引き寄せるということを忘れてしまいます。
でも実のところ、僕は雑木林に生える雑多な木々のように、意味のない世界を漂いならが生き延びてきたのです。
思えば僕はそのような姿勢をいくつかの歌詞から学びました。
いきなり小説でなくてごめんなさい。でも、これがぼくの正直な現在地です。できれば嘘なんてつきたくないでしょ?
high and dry Radiohead
作詞トムヨーク、訳はぼく
歌詞は歌詞であるだけで、巨大な希望の言葉であると言ったのはトムヨークでした。歌詞はそこにかつて実在した人間が、声を上げるということ自体に希望があるのです。(乾くて高い場所って何のことでしょう?それは僕にもわかりません。)僕にわかるのは、トムヨークがロンドンのスタジオで(おそらくお馴染みの悲壮な顔のまま)これを歌い上げた、ということだけです。でも、それだけで十分なのです。手紙なんかとよく似ていますね(よくよく考えれば、手紙だって返す必要はないのです)
https://open.spotify.com/track/2a1iMaoWQ5MnvLFBDv4qkf?si=-XulnKqQTyqi5d1xBLahHg
スローターハウス5 カート・ヴォネガット・ジュニア
手紙、というのは言い得て妙です。僕に取って文学というものは発送元のわからない手紙であると言えます。僕は作家の住所も知らなければ、親の顔も、下手したら本人の顔もみたことがありません。僕たちのために書いてくれた小説に対して、僕たちは返信をすることさえ許されていません。それでも、小説は僕たちの結び目を解いてくれます。十六歳のころ、僕の結び目を解いてくれたのはこの小説でした。傷を負った人間たちは、どこへ向かえば良いのか。退屈で飽和した僕たちはその問いに対して、プラグマティックに向き合わなければいけません。もちろんヴォネガット自身だって、晩年の私生活を見る限り、徹底できていたのか怪しいものです。それでもでもこの小説は、夜の海にただ光る灯台のようにその姿勢を見せてくれます。
さらに、ヴォネガットは村上春樹という素晴らしい作家のことを教えてくれました。
風の歌を聴け 村上春樹
なぜ僕たちはこの街を抜けて、次の街へいくのか。僕の部屋のなかを抜けていく人々は、二度と帰ってこないのか、そんな世界で小説はどう在ればいいのか。そのような問いが無限に散りばめられています。この物語の素晴らしいところは、登場人物が単なるキーパーソンとして行動しないことです。僕たちは春樹の視点を通して、寓話を読む、というよりも物語を”視る”ことができます。
また、僕は翻訳された外国文学をメインに読んできたこともあり、村上春樹の文章は自然に僕の中に入り込んできました。(全段落のダブルクオンテーションなど、それらしいですね)彼は非常に文章が上手い作家だと思っています。
それでは、僕が文章の多くを学んだもう一人の作家、ケルアックの話をしましょう。
オン・ザ・ロード ジャック・ケルアック
ケルアックの文章
彼は映画のような文章を書きます。それはライブ感にすぐれている文章だと言ってもいいでしょう。僕の考えでは、ライブ感と物語世界との距離は近いところにあるようで、全く別の場所にあります。ですから共鳴、とは全く違うものです。
ライブ感とは再現性の低さ、そして(感情ではなくて)感覚へ向かう強い呼びかけをベースにしています。彼の文章は読者に語りかけるわけではありませんが、強い力で僕のことを揺さぶっていきます。ボディブローはじわじわと効くからこそ、カタルシスがあるのです。それはポピュラーミュージックのサビや、映画の大団円とも違う、固く縛られた結び目を解くことができる魔法の力です。
それはどのような魔法でしょうか?。それは小説とは何か、という問いでもあります。
カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー
僕は世界最高の小説とも言われるこれを、極めて個人的なアイテムとして扱ってきました。実家の部屋のベッドの上で、授業中の教室の隅で、はたまた大学の喫煙所なんかで僕はこの小説を開き、まるで煙草を吸うようにその一部を摂取し続けてきました。
僕はよく煙草を吸いながら文章を書きます。今も、凍えるような潮風に震えながら、必死に文字を刻みつけています(実際にはマックブックのキーボードを押しているわけですが)。
意味のなさの中で生まれる、切実さのようなものが僕にとっては重要です。
僕はあえて、この小説への所感を述べないで終わろうと思います。できれば読んでくださいとしか僕は言うことができません。
さらに僕は、小説がどのようなものか、という問いの答えは分かりません(わかるようでわからないことばかりです)。
でもこれを読む方だって、同じようなものだと勝手に思い込んでいます。それでも僕たちはその外側を僕たちはなぞることができます。これを読む方の外型と僕のそれが共鳴できれば、それほど嬉しいことはありません
好きな音楽、中村一義『キャノンボール』
そんなに喋んなくても、伝わるだろ!と言う自戒
好きな映画 『ケイコ 目を澄ませて』
映画とは、という問いへの僕なりの答え。
(文責:中村)
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