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子離れは、自分育て:というお題で始まるオープンダイアローグ夫婦のダイアローグ

こんにちは!オープンダイアローグ夫婦の夫のほうです。今日は妻のほう・けいこさんと対話形式で、「子離れ」をテーマに考えてみたいと思います。

語り始めは23時30分ごろ、互いに相手の言葉を一字一句タイプしながらのダイアローグです。

関係は、ある。同時に「境界もある」

(細字:ふゆひこ)ということで、けいこさん、よろしくお願いします。

(太字:けいこ)―はい!どうぞよろしくお願いいたしまーす!ぱちぱちぱちぱち。

今日はこんなテーマなんですけど、いま思い浮かんでいることを教えていただけますか?

―なんでこのテーマが選ばれたんだろうって思ってます(笑)。まあダーツで決まったんだけど…。
「子離れがつらいときは、自分育てを始めよう。」っていうタイトルですけど、そもそも「子離れ」って何でしょう。

私に…おたずねですか……?

―うん。

「子離れ」ですか…。ちょうど今、中野信子さんの『毒親』という本を読んでいまして。

これがおもしろくて分かりやすくて、私の個人的な生い立ちから見ても「そうそう!」と思いながら読んでいるんですけど。それで「子離れ」みたいなことも書いてあったと思うんですが、あのー、なんて言うんでしょうか、「別の個体」だって思うんですね、親と子どもって。

―「別の個体」?

そうですね。「他人」と言ってもいいかも知れない。「他人」っていうと「関係がない」みたいなニュアンスに聞こえるかも知れないんですけど、
関係がないんではなくて、関係は、ある。同時に「境界もある」っていう感じじゃないかなあと思うんです。
おととし買ったマンガに『妻は他人』ってあったと思うんですけど。

言ったら「子も他人」なんですよね。でも、「親と子」っていう関係は、ある。
関係っていうのは、融合して一個になっていたりするのではなくて、どっちもちゃんと表面に膜があって、独立した個体が2つあるってことだと思うんですね。

―ふんふん。

それが・・・うん、スライム(ドラクエの)に例えると分かりやすいかなと思うんですけど、スライムって、何体かくっつくとキングスライムになるんですけど、親と子はキングスライムにはなってはいけないんじゃないかなと思うんです。

でも、一部の親御さんは子どもと合体してキングスライムになりたいというか、子どもの存在によって自分が…なんて言うんでしょう、自分を形成するパーツとして子どもが必要で、手放しちゃうと自分が揺らいじゃうっていう状況が、あるのではないかと思います。
一旦お返ししたいなと思います。けいこさんは今なにか思い浮かぶことはありますか。

葛藤が生まれることで膜が作られる

―なんか今のを聴いていて、興味深いなと思ったのは、「親のパーツとしての子ども」っていうこと?

はい。

―そのときの子どもの側って、どんな感じなのかな―って。

うん。

―何て言うか、関心があるっていうかね。あ、そうそうそう、もう一つ思ったのが、「膜」があって、「それぞれの個体である」「境界がある」っていうことだ思うんですけど、その膜とか境界とかいうのって、何だろうな、どうやって作れていけるのかな―とかって想像してみると、自分のパーツじゃない、違う違う違うえーと、その、融合してるけど意思もあるわけじゃないですか、そのなんかこう、その、何が言いたいかわかんなくなっちゃった。

「意思がある」というのは、子どもにということ?

―そう。子どもにもあるし、親にもある。親の意志だけで子どもが違和感なく動けてるときって、別にモンダイにならないんじゃないかと思うんですね。でも、子どもにも意思が出てきて、親と子どもの意志が違うものになったときに、そこに生まれるのって「葛藤」なのかな、って。それが膜を作ったりするきっかけになったりするのかな、って。
何かさっき話してたことと違うことになってきたような気がします。葛藤が生まれることで膜が作られるきっかけになるんじゃないかなーって、思ったの。しんどいけど。

「葛藤が生まれることで膜が作られる」。

―うん。何か自立のチャンスみたいな感じもするよね。チャンスっていうか、きっかけ?

うん。けいこさんのいう「葛藤」って、親と子の葛藤のことだよね。

―うーん、そうだね。きっとそうだと思う。あーでも、もしかすると、なんて言うのかなあ、今いるいちばん身近な人との間かもしれないな、とも思う。それが何か、パートナーとかだったり、友達とか、身近な存在とか。ほんとは大切にしたいと思っているとか、この人から大切にされたいとか。

もしかしてだけど、いま「子離れ」というテーマを離れてきてる?「〇〇離れ」というもの一般の話になってきてるでしょうか。「〇〇離れ」というか、分離?夫と妻の分離、人と人との分離、みたいな。

―んー、どれも別々のものじゃなくて、影響してるんじゃないのかなって思う、私は。

うん。わしもそう思う。ほいで、わしが思ったのは、その「葛藤」って要るのかな?ってことなんだよね。

―「要る」?「要る」ってどういうこと?

あのー、自分の大切な人が自分と分離しようとしている、と。親子とか夫婦とか。「分離」って、私は健全なことだと思うんだけど。で、そのときに、その相手が自分を成立させる重要なパーツである場合に、葛藤が生じると思うんだけど、その葛藤が起きてる時点でヤバいんだよね、きっと。一体化してたってことだから。

―うんうん、そうそう。

一体化してたから、ぺりって剥がれたときに痛いし、大切なパーツがなくなって困るから、分離を阻もうとして、葛藤が起きるわけだよね。
だから、その「ペリって剥がれたら痛いよな」とか「いま剥がれた!痛い!」とか「大切なパーツがなくなって困った」とか、それって、そっち側の心の中だけで葛藤していたらいいわけだよね。「痛い」とか「困った」とか。分離していく側には関係なくない?って思うんだよね。葛藤するなら、「分離されてつらい」っていう、その人の心の中の葛藤にフォーカスできたらいいと思うんだよね。もちろん、そのつらさとかを誰かに話したり、必要なサポートを使いながら。

―うんうん。なるほど。

だから、なんか、わたし話をまとめるタイプだから、タイトルに戻るんだけど、それが「子離れしたら自分を育てたらいい」ってことなんじゃないかな。「育てる」って、ぺりって剥がれた傷を治したり、子どもで埋めてたスペースを自分で埋めたりすることじゃないかな。

―「自分で埋めたり」?

そうだね。そうしたらいいんじゃないかな。けいこさんの言うとおり、子どもとの関係だけじゃなく、あらゆる関係に言えることなんじゃないかなと思います。

うんうんうんうん・・・。なんか、そうだなぁと思う。自分で傷を治すとか、無くなったパーツを自分で埋めるっていうことが、物理的にとか、目に見える傷ではないから、どうすることが傷を癒やしたり空いた部分を埋めるってなることになるのかな―、「自分を育てる」っていう部分になるのかなー、って思うんだけど。

自分に共感するっていうこと

けいこさんはどうやってるの?

―うーーーーん、わたし??私はね、あのー、なんかそういうシチュエーションをまず思い返す。思い出す。思い出してみる。

「そういうシチュエーション」て、どういう・・・。

―えーとー、んふふ、なんか私、こう、「子離れ・親離れ」って、あんまり分かんないんだよね。

「夫離れ」でもええよ。

―ああっは。まーでも、自分が母親が亡くなってるから、そのときにしたこと?そのときじゃなくても、ずいぶん時間が経ってからでも時々するけど、なんかその、要は今まで居て当たり前だった、在って当たり前だった存在が、ま、無くなるとか、いなくなるとか、いうことだなーって、思うのね、私は。
で、そのときにしたことは、対象の相手がいなくなったそのときに、自分がどんな感情があるかとか、どんな感覚がしているか、っていうことを、自分に向けた。

「自分に向けた」。

―うん、なんか私はお母さんがいなくなって悲しい、っていう「悲しんでいる私」「悲しい気持ちを持っている私」「心臓がバクバクして、張り裂けそうな気持ちがあって、お腹の底から震えてきて、何かが出てしまいそうな感覚がある」っていうことを、うーん、味わうっていうとちょっと伝わりにくい気がするけど、「そういう感じを持っている私」っていうこと、そっちに目を向けたっていうか。お母さんを追いかけるっていうとかじゃなくて。
「何か私、悲しいな―」とか・・・。「胸が張り裂けるほどつらい」とか「認めたくない」とか、そういうことを、して、その気持ちを、自分で「うん、悲しいね」とか「つらいよね」とか、自分に共感するっていうことを、私はした。出てくる度(たんび)にやった。何度も何度もそういう気持ちがでてくるたんびに、「悲しかったね」とか「私にとってはつらい体験だったね」とかって、やっていった。うん。

はーーーーーーーー、お母さんのお話が、聴かれたねぇ・・・。

―うん。

それが意外に感じられたんだよね…。何でかっていうと、今日のテーマでいう「子離れ」って、私、少し共依存的というか、そういうのをイメージしていたからだと思うんだよね。
でも、私から見たときに、けいこさんとお母さんの関係性って全然そんな感じじゃなかったから、今日の話の中でけいこさんがお母さんの話を出したことが意外に感じられたんだと思うんだよね。
でも「大切な存在と離れる」っていうところでは一緒なのかなっていう気がして、なるほどなと思ったんだけど、あの、けいこさんが自分にしたことって、「悲しいよね」って、「そうなんだね」ってやってあげたことって、ダイアローグ的には、「聴く」と「応答」にあたると思うんだけど、それって,子どものときに私が親からしてほしかったことなんだよね。まあ、私はしてもらえなかったわけじゃなくて、私がおしゃべりな子やったで、ぜんぶの話にそうしきらんかったってことなんじゃないかなって。うちの親が。
それはおいといて、要するに、子育てというか、子どもの心を育てるみたいなのって、「聴く」と「応答」だと思うんだよね、基本は。だから、自分を育てることも、そういう自分の気持ちを聴いて、応答してあげることなんだよなぁって。
だから、子どもを育てて、子どもと分離しなきゃいけない場面を迎えた親御さんて、何か、聴かれてほしいし、ねぎらわれてほしいし、応答されてほしなぁって思うね。・・・うん。なんか毎回「セルフコンパッション」の話になるなぁと思って…(笑)、うん。

当たり前のことをねぎらわれる。

―どうですか、ここまで話してみて。

初めての企画だったから、どうなるか、どう読まれるかと気になっているんだけど・・・ちょっと前にこのタイトルだけ出したときは、ハウツーみたいなことを書くのかなと思っていたけど、こう対話形式にしたら、当初の予想とは違う進展をしていって、それが対話っぽいなあと思いました。
けいこさんはいかがですか。

―さっきの話の中で、こう、子育てを終えて子どもと分離をする親の話が「聴かれてほしいなあ」とか「ねぎらわれてほしいなあ」とか「応答されてほしいなあ」って、ほんとそのとおりだなあと思っていて。当たり前のこととして流されていく、流されてしまうって、悲しいなあって思って。
ていうのと、「セルフコンパッション」って言われて、何かそのことを、何だろ、共有したい人っているかなとか、ねぎらわれるとしたら誰にもねぎらってもらいたいかな、とか、ちょっとそんなことを思ってみたりもした。
そういう時間ってゼイタクと思われがちだけど、当たり前になってほしいわって思うわ。当たり前じゃないんて。子どもを育てるとか。当たり前のことをねぎらわれる。ねぎらうことの当たり前さ。はは言葉って難しい。

ありがとう。最後に、今日のうちに言葉にしておきたいことはありますか。

―なんか、「パーツ」だった子どもの側の気持ちについても、また話してみたいな。別の機会に。
他人になったうえで認め合うとか、愛し合うとか。「他人になって」って、適切な距離感でってことかな。お互いにとって。そんなことができたらいいよね。できるよ。けいこからは以上です。

ありがとうございます。

―ふゆくんからは何かありますか。

そうですね。なんか、それぞれの言葉のイメージで話しているから、あんまり言葉を重ねても仕方ないかと思いながらしゃべるんだけど。
「適切な距離感」っていうのには、いつも寂しさを感じるんだよね、私。それは互いに膜がしっかりできてないから、止むをえず安全な距離をとろうという感じなの、私には。ちゃんとした境界という「膜」ができていれば、近くにいても平気なはずなんだよね。一緒に暮らせたり。だから「適切な距離感」というワードには少し寂しさを感じるんだけど、膜がないまま近くにいるよりはいいかなあって思います。
あくまでこれ、私の個人的な言葉の定義で話しているので。「膜」とか「距離感」とか。「他人とは一緒に暮らせんわ」という人もいると思うし、「膜があっても距離が要るわ」とか、あると思うので、ここあんまり掘り下げんでいいと思います。
今日はこういう形式で note ができて嬉しいです。楽しかったです。早口を一生懸命タイプしてくれてありがとうございます。


オープンダイアローグ 相談室おうち 

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