民話前九年の役【岩手の伝説⑧】
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館
※前九年の役・・・平安時代後期の、陸奥国(東北地方)で起こった戦い。永承六年から康平五年まで。源頼義らの軍が、陸奥国の豪族安倍氏を滅ぼした。名称や期間は諸説あり、奥州十二年合戦とも呼ばれる。様々な伝承が残る有名な戦い。
安倍の貞任をして落城などありえないと、豪語せしめた衣川の館は、なるほど堅固なものでありました。
※安倍の貞任・・・あべのさだとう。安倍氏の棟梁。
天険に恵まれた土地に、人波をつぎこんだ二の要塞も、新しい兵器と、訓練された八幡太郎義家の軍勢の、数年間にわたる攻撃の前に、めちゃめちゃになってしまいました。
※天険・・・てんけん。山地などの非常にけわしい所。
※人を大勢注ぎ込んだ要塞も
※八幡太郎義家・・・源義家の通称。源頼義の長男。
安倍の貞任は、「衣の館はほころびにけり」の歌を残して、胆沢の平原を、予め第二の防塞と定めておいた胆沢川北岸を目指して、敗走するのでありました。
短い秋の日は、色づいたみちのくの山野に柔らかい光を落としていました。
尾花のそよぐ野を、土煙を上げて逃げくる貞任の軍勢には、みちのくに豪族の名をほしいままにした、昔日の俤(おもかげ)を見出すことのできない憐れさがありました。
※昔の面影
貞任は一応、兎口館にこもって防戦を試みようと思いましたが、兎口の地形は北方からの攻撃には防禦に適するだけで、南方から急追の義家軍には防ぎようがありませんでした。
※防禦・・・ぼうぎょ。防御と同じ。
※急追・・・きゅうつい。逃げるものを急いで追撃すること。
貞任は兎口を諦めて、胆沢川を渡って北岸に達しました。
そして防禦の適地を探しました。
義家軍の見えないうちに、という焦りもあって、貞任の歩幅は勢い大きくなりました。
その後この土地の名は、大歩と称されるようになりました。
尖兵によって適地とされたのが今の永徳寺山でありました。
※尖兵・・・せんぺい。軍隊の行動中、本隊の前方にあって警戒・偵察の任に当たる小部隊。
貞任は幾分安堵もあったのか、歩幅は小さくなりました。
小歩の地名はこれによって生まれました。
永徳寺にたてこもって南方を眺めると、義家軍は兎口館に迫っていました。
貞任軍はようやく兎口館にたてこもったばかりであったので、兵は未だ整ってはいませんでした。
兵糧は山麓あたりでもたもたしていました。
※山麓・・・さんろく。山のすそ。
貞任軍は少しでも義家軍をくじいて、進撃を抑えなければなりませんでした。
未だ山麓でもたもたしている兵糧を待っていられないので、その辺の民家を探して、石矢じりの矢を集めて、兎口館に迫った義家軍と対峙しなければなりませんでした。
※石矢じりの矢・・・石で作った矢の先。
しかし貧弱な石矢じりの矢は、兎口館まで届きませんでした。
それにかわって新鋭の義家軍の矢は、プスップスッと永徳寺山に陣取る貞任軍を悩まし続けました。
貞任軍は永徳寺山を捨てて門城館に寄ります。
しかしこつも(これも?)優勢な義家軍の敵ではありませんでした。
それから鹿合のホウガン館へ、栄の花館へと逃れねばなりませんでした。
その頃、栄の花館には、貞任を崇拝する或る長者が住んでおりました。
その生活は栄華を極め、財宝も沢山ありました。
貞任もそれには一目を置いたともいわれております。
そんなことから館そのものも堅固なものでありました。
貞任はその堅固な館と、財宝の援護を受けて、一ヶ年余りも義家軍を迎い撃っております。
義家は栄の花館の堅固にしっかり手を焼くようになりました。
※堅固さにすっかり?手こずる
尋常ではこの栄の花館の攻撃ができないと、ジョウノクラの山からの攻撃を思い立ちました。
しかしこのジョウノクラ山は非常に峻険で、普通では登れる山ではありませんでした。
※峻険・・・しゅんけん。山などが高くけわしいこと。
それにその山麓に達するには、胆沢川の激流も渡らなければなりません。
月光に照らされる栄の花館は、美しく静まり返っていました。
こんもりと繁った一つ一つの木の根方に、軍兵が潜んでいるなど、とても想像できないほどの絶景でありました。
月が雲に隠れた瞬間を選んで、夕刻から叢(くさむら)に待機していた義家の軍勢が、それっと川を渡りました。
ジョウノクラ山の据(裾、すそ?)に急ぎへばりつくと、その辺の民家を叩き起こして、カンジキ作りをさせました。
※カンジキ・・・泥上や雪上など不安定な地面を歩くために、わらじや靴の下に着用する民具。
その頃その辺の人々は、カンジキなどを作ることは勿論、名前も知りませんでした。
義家軍の中からカンジキ作りの心得のある者を探し出して、方法を教え、急ぎ作ることにしました。
今ではこの地方は、この辺のカンジキの発祥地だといわれるようになりました。
できあがったカンジキを足に着けた義家軍は、絶壁のジョウノクラ山頂を楽々と占め、栄の花館の貞任軍に向って火矢を打ち込みました。
貞任軍は、まさか北側のジョウノクラの堅壁が義家軍の手中に占められるなど、絶対にありえない、と高をくくっていたのですから、慌て方も大変なものでした。
栄の花館の南側を固めていた大軍を、急遽北側に移動させねばなりませんでした。
その狼狽ぶりを見て取った義家は、胆沢川北岸の叢に潜ませておいた軍兵に、采配を高々と振りました。
※采配・・・さいはい。戦場で大将が手に持ち、指揮するために振った道具。
満を持していた軍兵は、怒濤の如く川を渡りました。
川幅の広い所へは、板を運んできて渡しました。
今でも残っている板渡しの地名は即ちそれです。
貞任は軍をまとめて矢尽山に退きました。
栄の花館の長者も貞任軍と共に館を退きますが、退くとき数多の財宝を近くの山に埋め、その跡へ後日の目標として茗荷(みょうが)を沢山植えたといいます。
現世になって黄金に魅入られた一獲千金を夢見る亡者どもが、その茗荷を尋ね回っているといいますが、件の財宝を発見したという話は聞いておりません。
矢尽山に退いた貞任軍を追って、義家軍は馬留まで進みました。
そこは西岸が壁のようにそそり立ち、川が流れていました。
馬をそれ以上進めることができなくなりました。
馬留はそれからできた名といわれます。
貞任軍は馬留の義家軍に向って、盛んに矢を射ってきました。
しかし山中のこととて、矢は続きませんでした。
いつしか矢も尽きてしまう日がきました。
矢がなくては抵抗することもできません。
それ以来山は、矢尽山と呼ばれるようになりました。
矢のなくなった貞任軍は、義家軍の陣へ流れる川の上流に毒汁を流しました。
そのために、知らずにその流水を飲んだ多くの軍馬はバタバタ倒れてしまいました。
以来その川を毒水沢と呼び、誰も飲むものがなくなりました。
軍の立て直しを考えた貞任は、この地を大きく退くことになります。
義家の軍もこれを急追することになりますが、これは胆沢町地域を越えますので、この物語はこれで終りとします。