鯰の恩返し【胆沢の民話㉚】岩手/民俗
『鯰(なまず)の恩返し』
参考文献:「いさわの民話と伝説」 胆沢町教育委員会
昔々その昔、ずっと昔の大昔、トドロイ沼のほとりに若い者があったど。沼さ降りる鴨を網で取って暮らしてだど。
面は見ぐさい、背っこは童のくらいしかないので、いっぱた(一人前)の年になっても、誰も嫁ごになる人なかったど。
朝ま早く鴨が岸の方さ来たどぎ、そばまで行っても体っこちゃっけがら(小さいから)、鴨は逃げないでるどごろを網で取るのだったど。
あるどぎ、鴨取って帰る途中、水がひとったれも無い草っぱの上で、お日様にヂリヂリ照らされで、苦しがってる大っきな鯰がいだので、むぜな(可哀想)ど思って、水の所までたがぐ(移す)べどしたども、しゃなしに(無暗に)大っきもんで、たがぐも何もでぎない。
鴨取る網さ鯰を入れで、ヨッショ、ヨッショど汗くったらして、けっぱって、けっぱって、ようやっと沼まで引っ張ってって水さ入れでがら家さ帰ったど。
十日ばり経ってがら若者の小屋さ、
「入っと。」
ど言って入ってきた人があるがら、出はって見だれば美しい姉様だった。
若者はたまげで、あへんとして、入らっしゃども何とも言わないでいるうぢに、姉様は中さ入って、ちゃんとねまって(座って)、
「沼の主の言いつけ事、申しさ来ました。前の晩に雨が降ったので、沼の周りを見回ってましたが、あんまり離れだ所まで行ったので、帰らないうちに日が照ってきて、今少しで死ぬところでしたが、助けてもらって有難うございました、とのごとです。」
と言ったども若者は面っぱし(恥ずかしい)から、何も言わねで、外さ仕事に出はってしまったど。
晩方になって小屋さ帰ったれば、その姉様はまだ居で、小屋の中も、小屋のぐるげあ(周囲)も、さっぱと片付けで、夕飯もちゃんとでぎでいだ。
姉様はその晩帰らないで泊まったど。その次の日も、その次の次の日も、帰らないで泊まったど。
とごろが、その姉様のこしらえだあえもの(ご馳走)は、何もかにもしゃなしに(無暗に)美味がったど。
若者ははじめは面っぱし(恥ずかしい)ような、薄気味悪いようなので気遣って食わないでいだが、ひして目(一日目)には一椀こ、二日目には二椀こ、三日目には三椀こ、四日目には四椀こ、五日目には五椀こ食ったんだど。
そしたれば、体はぼんぼこぼんぼこ、手はぼんぼこぼんぼこ、足はぼんぼこぼんぼこ、ずんこ(男性の陰部)もぼんぼこぼんぼこ、とってもぼんぼこぼんぼこ、ぼんぼこぼんぼことおがって(大きくなって)、大きな、盤石(ばんじゃく)な若者になったど。
若者は、どっちゃにも(いづれにしても)、何じょな(いかがな)事して、あのような美味いあえものこしらえるのだべど、ある朝そっこど(静かに)隠れで見でいだど。
姉様はいつものように若者寝ているうぢに起きで、火焚きつけでがら、かたかたとこしらえ始まった。
カラゲ鉢(空のはち?)を股こさはさんでケャッコ(女の陰部)おっつけで、あえものこしらえでだど。
若者起きるころには、ちゃんと朝飯の支度でぎで若者起きるの待ってるんだど。
若者はその朝は気持ち悪くて、お湯飲んだばりだったど。
姉様は涙っこぼろぼろと流して、
「見もしたなし。この家さ長ぐ住みだいと思ってましたども、生まれだどごさ戻らねばならねがす。」
って外さ出はって沼の方さ行ぐから、若者は姉様どご押さえだども、とっても力強くて沼のふちまで引っ張らえでしまった。
あとは水だがら手放したれば、ずるずると沼さ入っていったが、水さ入ったれば鯰になったど。
そしても(それでも)振り返って、
「今、おれは腹大きくなってます(妊娠してます)。
来る年の、日照り月のみそが(30日)に、おき島(?)さ生まれだわらし(子供)置ぐがら、連れで帰って人の乳こで育ででくんさい。
必ず行先良がす(先行き良いです)から。」
と言って、水の底さ沈んでってしまったど。
次の年の六月は大日照りで、沼の水はずっとすくに(少なく)なってしまったがら、みそがの晩になるのをま待って、おき島さ渡るべどして沼さ片足入れだら、ぶすぶすどのがって(ぬかって)しまった。
小屋さ戻って、大っきな草履持って来で、履いて入ったら、ふたあご(あご=歩幅)ついだらずぶずぶのがってしまった。
今度は棚板二枚おろして、緒を立てで(鼻緒を付けて?)、履いで入ったれば、何でもなく渡るにえがった。
おき島さ着いたれば暗くて何も見えながった。
しばらぐすると赤子の泣く声がするので、声を頼りに行くど、水際から少し上った所の草のかげに、藁を重ねで、その上に蒲(がま、がんば)敷いで、その上さつばの子の穂(茅花の穂?)敷いで、その上さがんばの穂ふぐして(ほどいて)敷いで、その中で赤子が泣いでいだ。
若者は赤子を懐さ入れだれば泣ぎ止めだ。
「母やー。妻やー。」
って叫んでみだども、何にも出でこながった。
若者は小屋さ帰ってみだれば、女の赤子だったど。
がんばのえじこ(蒲でできた編み袋?)さ、鴨の胸毛の布団を巻いて入れでおぎ、貰い乳こに歩くどぎは、羽の布団さくるんで歩いたど。
乳こ一回貰ったら、鴨一匹やって、そしておがした(育てた)ど。
女ごわらしは、とってもまめにおがって(丈夫に育って)ったども、左の拳は握ったまま開がながった。
二つになっても三つになっても、四つになっても五つになっても、開がながったど。
そのうぢに十六になったど。
何だぁもない(びっくりするほど)美しい娘になって、あっちがらも、こっちがらも、嫁ごに欲しいど言われるども、かぶり(頭)横に振って何所さも行がねがった。
そん時は若者も、つあっつぁ(父親に)なっていた。
「にっしゃ(おまえ)、どっから語られでも(話がきても)、かぶり振って嫁ごになる気ぁないが、何所の誰ど一つになる気だれぁ。」
って言ったれば、娘はその時初めで左手を開いだ。
そしたれば、ちゃっけな(小さな)蓋っこのない、つぶ(つぶ貝)握ってだのだったど。
娘は、
「こっから東の方に、このつぶさ合うつぶの蓋っこ持ってる若え者あるはずだから、その人ど一つになりだい。」
ってったど。
つぁっつぁは、人を頼んで探したど。
そっちがらも、あっちがらも、来る人もあった。
そだども、蓋っこ持って来て合わせでみるずど、合わながった。
そうして、たねる(尋ねる)、たねると東の方さたねでったれば、跡呂井っちどごさ(あどろいという所へ)行ったれば、そごに、ちゃっけ時がら右の拳開いだごどない若え者があって、その話こ聞いだれば、右の拳開いだど。
見だれば、つぶの蓋っこ持ってだった。
その蓋っこ持ってきて合わせでみだれば、びったりど合ったずもな。
そうして、その若者は娘のもご(婿)になったど。
その時、娘はとっつぁさ聞いだど。
「母様使ってだ物、何がありますべ。」
って言った。
とっつぁは、お母ぁ、あえものこしらえる時使ってだカラゲ鉢出したれば、
「これぁええ、これぁええ。」
って喜んだど。
春になって沼の水汲んできて、大事にしてたつぶを蓋っこして、そのカラゲ鉢の水さドペンと入れて、静かに沈んで、仰向けになった年はヒドロ田(湿田)さ田植えし、伏せで沈んだ年はおが田(乾田)さ田植えしたど。
したればヒドロ田さ植えた年は日照りだし、おが田さ植えだ年は雨年で、他では米の実らない年でも、そごの稲ばかりは、ザングザングと大っきな穂がなったんだど。
他で米が実らない年は、北の里がらも、南の里がらも、東の里がらも、西の里がらも、
「どうぞ種籾(たねもみ)貸してくんさい。」
って借りさ来たがら、そごの家では、あるくらい、貸してやったど。
そしたれば次の年は、借りてったひたち(人達)来て田こしらえだの、田植えだの、田の草取りだの稲刈りだの稼いでいった。
そだから、そごの家では米も増える、田も増える、若い物も増えで、そこら辺りの大田主になったど。
そだども娘はさっぱり笑った事なかったずもな。
とっつぁは、
「これほどの大田主になったのに、にしぁ(おまえ)何がげぁねくて(不愉快で)笑わねのや。」
と尋ね、婿も、
「おれはまだ稼ぎ足らないのが。」
って聞いだれば、娘は、
「ははや(母親)に会いだい。」
ってだど。
とっつぁは、
「そだらば(それなら)六月のみそがの夜、おき島さ行くべし。」
って、大工呼んで舟造ったど。
六月三十日の夜、とっつぁ
「おれも行ぐ。」
ってだども、娘は
「おれ一人で行ぐ。」
って、おき島さ行って、
「母やー、母やー。」
って何度も呼んだれば、大っきなつぶ出はって来て、
「ははや、ははや、って呼びさくる人あったら、言ってけろって頼まれでだが、お前様のたずねる母様は、この冬に年取って死んだ。
お前の母様言うには、おれは本当は千年も万年も生きるにえ(よい)のだったども、人間の童なしたはらいで(産んだために)、命は決まった。
今死ぬども何も思い残すこどはない。
ただ、おれの骨を沼の見える所さ埋めで、大っきな墓造ってけろ、って死んだ。」
と聞かせだど。
娘はオイオイ泣いだれば、沼の岸で待ってだとっつぁのどごまで聞けで、とっつぁもオイオイって泣いだど。
骨のある所をつぶに教えられで、舟さつけで帰ったれば、とっつぁまだ岸で待ってだったど。
それがら一年がかりで沼の見える所さ大っきな墓造って、次の年の六月三十日に、みんなして拝んだれば、お墓はユキユキっと動いだど。
その時、娘は初めで笑ったど。
それがら娘は笑うようになったどや。
ドンドハライ。