自分の弱さを認める
役員決めでチクリと痛んだ心
学童保育の保護者会の役員を回避した。
もし、誰もなり手がなければやってもいいですよ、と先生にはお話していたけれど。
結局私が手を挙げることはなかった。
他の人が引き受けてくれることになったから。
とてもありがたくて、安堵の気持ちでいっぱいになったけれど、ちょっとだけ心がチクッとした。
またこの季節が巡ってきた
この時期は、あちこちで行われている役員決め。
PTAとか保護者会とか、名前は違えど、子どもたちのための組織のはずなのに、何だかその組織の役員になるというのは気が重い。
だけど、子どもたちのため、がんばってくれている先生たちのため、お手伝いしますと言えない自分が何となく許せない気持ちもする。
本当の私は弱い
本当に学童保育の先生たちには感謝している。
公設民営だけど、工夫を凝らして、子どもたちが楽しめるよう平日でもプログラムを組んでくれるし、年間ではお出かけも含めた数回の行事も企画してくれている。
おかげで、うちの子は学童が気に入っている。
保護者会の役員だって、形式的なものに過ぎない。
やってもいいと思っているのに、その場では周りの目を気にして言い出せなかった。
要するに私はヘタレなのだ。弱いのだ。
いつの頃からか埋もれてしまいたくなった自分がいる
いつだって私はそうだった。
結局、何だかんだ言って周りの目が気になってしまう。
自分の意見を聞かれても、まずは相手の意見を聞き出そうとしてしまう。
それで相手の反応をできる限り予測したあと、安全牌の意見を言おうとしてしまう。
できるだけはみ出したくないし、目立ちたくない。
その他大勢の中に埋もれていたい。
いつからこうなったのかな。
学校生活でこの思考が生まれた気がする。
元々は自己主張のあるタイプだったのに、出る杭は打たれるという言葉のとおり、打たれたからかな。
でも、本質は変わってないから、変われないから、心が痛むのかもしれない。
今からでも自分と向き合うしかない
大人になって、自分の意見や考えはあるのに、それを出さないで後悔したことは数知れない。
でも、それに見て見ぬふりをしてきた。
じゃあ、今からどうする?
いきなり自己主張はできるように変われるものではない。
(いや、けっこう自己主張してるように見られがちだけど、肝心なところではできてないんだよな。)
もっともっとこのnoteで自分と向き合ってもいいのかもしれない。
この前、読書記録で書いたように。
あの本のとおりに。
痛みを忘れずに進む
今回、心がチクリと痛んだことは忘れるわけにはいかない。
役員に手を挙げてくれた方には最大のリスペクトを持つこと、できることがあるときはお手伝いを進んでやること、何より普段から感謝と協力を態度で表すこと。
まずは、それが当たり前にできるようになりたい。
自分の心も、誰かの善意も見て見ないふりはしないように。
いつからだって変われるはず
大人になったからといって、自分の弱いところ、見たくないところ、認めたくないところと向き合うことはしんどい。
いや、大人になったからこそ見て見ぬふりをするのは容易なってしまっているかもしれない。
でも、いつからだって変わりたいように変わることはできるはず。
今のあなたは、こうありたいと願った自分に近づけましたか?
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