聖徳太子の法治主義 「韓非子」の思想
聖徳太子があらわした「十七条憲法」には、法家思想の影響があると言われています。
十七条憲法の十一条では、「賞罰を明らかにすべし」と記されています。
これは、当時の「この頃、賞は功においてせず、罰は罪においてせず」という状況を踏まえているのでしょう。
功績が無くても賞せられ、悪事が行われていても罰せられることなく、野放しになっていたという信賞必罰が適正に行われていなかった実態が垣間見えます。
聖徳太子が定めたと言われている「冠位十二階」も、身分に関わらず優秀な人材を登用するシステムです。
それまでは、身分によって地位が決められてしまう氏姓制度が行われていたため、特権的地位が世襲されることが当たり前の時代でした。
そのため、貴族であれば悪事をはたらいても罰せられることもなく、目立った功績がなくても賞されることなどは、よくあることだったのでしょう。
聖徳太子が定めた「十七条憲法」や「冠位十二階」は、そのような風潮を断ち切り、法による厳格な国家運用を目指したものです。
中国の法家思想の代表的な文献として、「韓非子」をあげることができます。
この「韓非子」には、「賞罰を明らかにすべき」とする文言が記されています。
聖徳太子は、仏教を広めたことから、慈悲深く穏やかな人というイメージをもたれることが多いかもしれません。
しかし、仏の慈悲だけでは、国を治めることはできません。
一人の為政者として、国の秩序を保つためには、悪事に対して、毅然とした態度で法を執行し、厳罰に処することも厭わない敢断さが要求されることも多いはずです。
政治の世界では、今も昔も変わることなく、その特権的地位を維持することばかりに力を注ぎ、私腹を肥やす者たちが大勢いたことは間違いないでしょう。
だからこそ、「十七条憲法」が定められたのです。
人は常に多面的な要素を持ち合わせています。
そこには、優しさと厳しさ、温情的な態度と厳罰を処す部分が併存していたに違いありません。
人は、人間としての器が大きいほど、その振り幅も大きいものです。
聖徳太子は、若い頃、何度も戦場に赴いていたことが伝説として残っています。
とかく、自分にとって都合の良い面だけを見て、その人物を語ろうとしてしまうのが世の常です。
聖徳太子のことを思い浮かべる時も、穏やかな宗教者のイメージばかりに注目が集まることが多いのですが、腐敗していた当時の豪族政治の世界を厳しく治めていこうとした為政者としての一面にも、もっと目を向けるべきなのかもしれません。
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