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武士道(Chivalry)は桜の花 【新渡戸稲造著「武士道」】

武士道Chivalryはその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。
それは古代の徳がからびた標本となって、我が国の歴史の腊葉さくよう集中に保存せられているのではない。
それは今なお我々の間におけるちからと美とのける対象である。
それは今なんら手に触れうるべき形態を取らないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。

新渡戸稲造著『武士道』矢内原忠雄訳(岩波文庫)第一章 道徳体系としての武士道よりP.25

「武士道」とは何か。
端的に言えば「卑劣ひれつな事はするな、弱い者いじめをするな。」という一言に尽きます。(新渡戸稲造著『武士道』矢内原忠雄訳(岩波文庫)第三章 義)

東京大学出身で、お茶の水女子大学で長きに渡って数学の教授をされていた作家の藤原正彦さんも、自身のエッセイの中で、同じく作家である父親の新田次郎さんから、このことを厳しく躾けられたと述べています。

私にとって幸運だったのは、ことあるごとに、この『武士道精神』をたたき込んでくれた父がいたことでした。父からはいつも、「弱い者いじめの現場を見たら、自分の身を挺してでも、弱い者を助けろ」と言われていました。
父は「弱い者がいじめられているのを見て見ぬふりをするのは卑怯ひきょう(おくびょう)だ」と言うのです。
私にとって「卑怯ひきょうだ」と言われることは「お前は生きている価値がない」というのと同じです。だから、弱い者いじめを見つけたら、当然身を躍らせて助けに行きました。

藤原正彦著『国家の品格』(新潮新書)第五章「武士道精神の復活を」P.126

翻って、現代の日本ではどうでしょうか。
社会を見渡した時、弱者へのいじめや暴力は全く無くなっていません。
卑劣な犯罪なども、厳然として存在しています。
これは、明らかに戦後の民主化教育が破綻していることを示していると言えるでしょう。特に公教育で、それは顕著です。
言葉だけの「自由と平等」が流行はやり言葉のように横行し、「自由」に伴う「義務と責任」を教育してこなかったツケが回ってきているのです。
社会人としての義務と責任を教えるのは、教育の大きな役目です。
自由には「行動に対する責任がつきものである」という厳しい一面を教えることなく、ないがしろにしてきたことが、「自由」という名の「利己主義エゴイズム」が社会にはびこることを許してしまったのです。
子供に教育する時に、まず教えなければいけないことは、「犯罪者にならないようにすること」です。
二つ目は、「働かない怠け者にならないようにすること」です。
この二点さえ教えることができれば、あとは何をしても自由にさせて構いません。ただし、その「自由」には、必ず「自己責任が伴う」ことを徹底して教える必要があります。
現代のように女性を尊重するように教育されていなかった時代では、男性が粗野で暴力的な態度をとることも多かったと言われています。
武士道として、「弱い者いじめをするな」「卑怯なことはするな」と言うことを教えなければならなかった背景には、そのような時代の風潮も関係していたことは間違いないでしょう。
この「武士道精神」は、今でも十分に通用する「立派な社会人の心得」です。
国が子供たちに教育すべきは、「犯罪者にならない」「怠け者にならない」ということと共に、この「武士道精神」と言えるのではないでしょうか。
教育は、「百年の計」です。
将来どんな国となるかは、今の子供たちにかかっています。
「人作り」こそ、国作りの第一歩だからです。
そんな大切なことを官僚や政治家だけに任せていたのでは、日本の明るい未来は望めないでしょう。
公立の学校ではなかなか教えられることのない部分は、高い志を掲げて日々独自の教育を実践している「私学」に期待していくしかないのかもしれません。




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