『論語』と禅語は同じき道にある 【『禅林句集』に学ぶ】
『正法眼蔵』を著したことで知られる道元禅師が、『論語』を引用していることは有名です。
日本では、室町時代の頃から、禅の修行僧たちに向けて『禅林句集』という禅語の語彙集が編纂されるようになりました。
岩波文庫の中にも、鎌倉にある円覚寺元管長・足立大進老師が編纂されたものがあります。
そこにも、『論語』にある言葉がたくさん掲載されています。
「無常迅速 生死事大」と言っていた道元禅師からすれば、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という『論語』の言葉は、まさに仏道修行そのものと言えるものだったのでしょう。
『禅林句集』をみると、『論語』の言葉は、次のような七文字で記されています。
禅語録の中からも、七字で表現された沢山の金句が掲載されています。
これらの禅語には、俗なる想念を吹き払ってくれるような清々しさがあり、我が身が正されるような気がします。
寒い冬に独り輝く月は、迷いの雲を払う真実存在そのものと言えるでしょう。
自然界を見渡せば、このような真実存在はいくらでもあるのに、人はそれに気づかないだけである、というのが禅門の立場です。
「孤月」「孤輪」という禅語表現は、「君子は其の独りを慎む」(『中庸』)という儒教精神に通じるものがあります。
この孔子の言葉には、禅の道にいる修行僧たちも非常に共感したものがあったに違いありません。『論語』にある孔子の言葉が、いかに大道(真実の道)に適ったものであるかがわかります。
禅の修行僧たちは、簡素な飲食物のみを口にするような清貧の生活に甘んじていた孔子の弟子・顔回と同じ道を歩んでいたのでしょう。
食品ロスを考えなければいけないような飽食時代を生きている現代人には、到底想像もつかないような過酷なものだったはずです。
肉体的な満足は、精神や魂の満足をもたらすものではありません。
「満足する豚であるより、飢えたソクラテスであれ」といったJ・S・ミルの言葉をみてもわかる通り、道に生きていた人たちは、洋の東西を問わず、同じき大道を歩んでいると言えるでしょう。
自分にとって何か大事なものを捨てなければ、人より抜きんでた大きなものを得ることが出来ないことが、その道を進んでいる者にはわかるからです。
人生は平等です。
呑気に欲望に任せて、満足がいく生活をしていたら、死はあっと言う間に来るぞ。
生活の安定と満足のために生きていたのでは、すぐ背後にいる死神にも気づかず、突然の死に驚くことになるぞ。
といった道元禅師の声が聞こえてきそうです。
「人生に明日は無く、今日しかない」という覚悟の一日があれば、明日を迎えることができなくても後悔することはないでしょう。
「死生一条」「死生一如」という境地でなければ、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という言葉を本当の意味で理解することはできないのかもしれません。
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