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評論家・小林秀雄の「無常観」とは

評論家・小林秀雄は、最近、入試でよく取り上げられています。

彼は、「無常」と言うものを「一種の動物的状態である。」としています。

現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常と言うことがわかっていない。常なるものを見失ったからである。

小林秀雄著『無常と言うこと』昭和17年6月

この「なま女房」とは、兼好法師も愛読したとされる『一言芳談抄』という作品に出てくる登場人物です。

夜うち深(ふ)け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問われて云(いはく)、生死無常の有様を思ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々

『一言芳談抄』

この一文については、「いい文章だとこころに残った」と述べています。(小林秀雄著『無常という事』より)(角川ソフィア文庫)

本当の「無常」と言うものは、仏教理論や思想の中にあるのではなく、一人の女性が忘我の境地で舞う、ある種の「現世否定」「来世礼讃」の「動物的な無為自然の状態にある」と、小林は言いたいのでしょう。

「理論や理屈の中にあるのではなく、『生きた芸術行為』である『名もなき素人の自然な舞い』という美の中にこそ、自然と『無常』が表出されている。
名もなき女性が、夜中に誰にも見られることもなく、この世の憂さと浮世を忘れたかのごとく舞う姿こそ、計算と打算で生きている現代人にはない、真の『常なるもの』が生きている」と、彼は言いたいのだと思います。

小林秀雄は、独特の美学で生きた人です。
彼は、「詩人の魂」と言うものに生きていました。
それ故、何事も計算と欲得ずくで現世を生きている「俗物根性」と言うものを一番嫌っていたように思います。
そんな彼は、「思想」と言うものを、度々批判の槍玉に挙げています。

現代の知識人には、簡単明瞭なものの道理を侮るふうがあるが、簡単明瞭なもの道理と言うものが、実はほんとに怖いものなので、複雑精緻な理論の厳めしさなど見掛け倒しなのが普通であります。

小林秀雄著『文学と自分』」(昭和十五年十一月)

「何主義であれ、主義というようなものは実をいえば思想でも何でもない、いわば思想の影であります。」二宮尊徳は思想という言葉は使っていない、大道といっておりますが大道はたとえば水のようなもので、世の中を潤沢して、滞るところのないものだが書物になってしまえば水が凍ったようなものだ、その書物の語釈というものに至っては氷に氷がぶら下がってようなものだ。『氷を溶かすべき温気胸中になくして、氷のままにて用いて水の用をなすものと思るは愚の至りなり』と言っています。大切なのは、この胸中の温気なのである。」

小林秀雄著『文学と自分』」(昭和十五年十一月)

仏教理論書や仏典の注釈書にある「無常観」は、「書物という氷か氷柱つららのようなもの」で、体温のある人間生活に必要な「水の用を成さない」と言っているのです。

そういった意味では、鎌倉時代の「深夜に浮世を忘れて舞うなま女房」の姿にこそ、巫女が舞うかのごとく、人を喜ばせ、楽しませ、生きにくい浮き世を忘れさせる、簡単明瞭な胸中の温気が表れていると言えるでしょう。

「浮世の無常を忘れさせる常なるものこそ、『本当の無常』であり、水のように、生命の存続に不可欠なものである。仏教理論書にある『思想』が、人々の浮世の生きづらさを救う訳ではない」という小林の考え方に、改めて、「大道」の意義に気づくことが出来るでしょう。


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