評論家・小林秀雄の「無常観」とは
評論家・小林秀雄は、最近、入試でよく取り上げられています。
彼は、「無常」と言うものを「一種の動物的状態である。」としています。
この「なま女房」とは、兼好法師も愛読したとされる『一言芳談抄』という作品に出てくる登場人物です。
この一文については、「いい文章だとこころに残った」と述べています。(小林秀雄著『無常という事』より)(角川ソフィア文庫)
本当の「無常」と言うものは、仏教理論や思想の中にあるのではなく、一人の女性が忘我の境地で舞う、ある種の「現世否定」「来世礼讃」の「動物的な無為自然の状態にある」と、小林は言いたいのでしょう。
「理論や理屈の中にあるのではなく、『生きた芸術行為』である『名もなき素人の自然な舞い』という美の中にこそ、自然と『無常』が表出されている。
名もなき女性が、夜中に誰にも見られることもなく、この世の憂さと浮世を忘れたかのごとく舞う姿こそ、計算と打算で生きている現代人にはない、真の『常なるもの』が生きている」と、彼は言いたいのだと思います。
小林秀雄は、独特の美学で生きた人です。
彼は、「詩人の魂」と言うものに生きていました。
それ故、何事も計算と欲得ずくで現世を生きている「俗物根性」と言うものを一番嫌っていたように思います。
そんな彼は、「思想」と言うものを、度々批判の槍玉に挙げています。
仏教理論書や仏典の注釈書にある「無常観」は、「書物という氷か氷柱のようなもの」で、体温のある人間生活に必要な「水の用を成さない」と言っているのです。
そういった意味では、鎌倉時代の「深夜に浮世を忘れて舞うなま女房」の姿にこそ、巫女が舞うかのごとく、人を喜ばせ、楽しませ、生きにくい浮き世を忘れさせる、簡単明瞭な胸中の温気が表れていると言えるでしょう。
「浮世の無常を忘れさせる常なるものこそ、『本当の無常』であり、水のように、生命の存続に不可欠なものである。仏教理論書にある『思想』が、人々の浮世の生きづらさを救う訳ではない」という小林の考え方に、改めて、「大道」の意義に気づくことが出来るでしょう。
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