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心に残ったというよりは"刺さった"が正しい

#心に残ったゲーム

こんばんは。
今回もお題記事になります。心に残ったゲームとかいうゲーマーの心が疼くタグを見たので、性懲りも無くやってみようと思います。

相も変わらず趣旨を斜め読みしているので、好き勝手に書きました。皆さんが恐らく書かれているだろう感動的なお話みたいなのはたぶん無いです、わたし特筆できるような人生歩んでませんもん…。


で。
心に残ったゲームというよりは心に刺さりきって抜けないゲームの話をさせて頂きます。

画像でお分かりかと思いますが、ペルソナ3です。

大変申し訳ないのですが、完全なネタバレを避けることはどうしても趣旨上できませんでした。詳細に書き過ぎないようにはしたのですが、どうしても最後の結末だけはふわっと書かざるをえない記事となってしまいまして、この先を読むかどうかは自己責任でお願い致します。

また、ペルソナ3は「死」を題材にしたゲームです。記事を書くにあたり、個人の死生観や偏見、おそらく様々な死に対するわたしの考え方がここには散見しています。人によってはセンシティブな話題でもあると思います。ですので、どうか適度な距離を置いて見て頂けましたら幸いです。



ペルソナシリーズ3作目

ペルソナシリーズは現在までにナンバリングタイトルが5作品出ていまして(スピンオフやリメイク等を入れれば数自体はもっとありますが)、ペルソナ3はその名の通り3作目に当たります。

ペルソナと聞いてゲーマーの皆さんが思い浮かべるのは、何と言っても斬新かつスタイリッシュなボーカル有の戦闘曲なのではないかなと思いますが、ペルソナ3は前作のペルソナ2罪罰、女神異聞録ペルソナからはまたがらりとUI的にもシステム的にも趣向を変え、今ではもはやスタイリッシュの渋滞を起こしているピカレスクオシャンティジュブナイルRPGゲーム、ペルソナ5へと続いていく系譜の始まりです。オシャンティ全力でユーザーを殴りに来るゲーム、ペルソナ5もぜひやってみてください。OPからボコボコなのは主人公の方ですが。ペルソナ4もね!是非ね!序盤から卒倒しないよう気を付けて。

ペルソナ3、実はわたし当時から突き刺さっていたわけでは無いのです。鬱展開なストーリー、仲間の死、裏切り者、変えられぬ運命――まあこれは大筋からすれば大したネタバレにもならない程度の話です。

そんなよくあるサスペンス系(?)学園RPGだったわけですから、まあ当時の感想としては「いやあ…流石ペルソナですわ」ぐらいなものでした。いやよくあってたまるかこんな鬱なゲーム!とは思いますけれど、当時は色んな意味でえぐいゲームがそれなりに多かったですし、2や初代ペルソナも相当アレでしたからね。慣れてました、というか。

ペルソナシリーズというのは基本的に主人公は喋りません。ですから主人公が何を考えて行動しているのだとか、どういう意図でそういうストーリーになったのだとか、ユーザーの数だけ考える余白があると言えます。
そういう意味ではペルソナ3の主人公も例に漏れず、何も語らず何も伝えず(勿論選択肢はゲームとしてはありますが)、何もユーザーに語りかけることなく最後にはそっと目を閉じます。

その後唯一語り掛けてくるのは仲間の一人であるアイギスと「キミの記憶」というエンディングテーマのみです。



心に棘が無数に刺さった瞬間

で、このペルソナ3が何がきっかけでわたしの心に突き刺さったのか。
それはPERSONA3 THE MOVIE――劇場版「ペルソナ3」だったんです。
名前の無かった主人公に名前が付き、個性が付き、意思が宿った。ユーザーの手を離れた「結城 理」としての主人公の生き様を見たのがきっかけでした。

そしてその人生は、わたしが知っているペルソナ3の主人公、通称「キタロー」の人生とは似ているようで大いに異なるものだったんです。

わたしは映画は映画で大好きですし、ちゃんとブルーレイも4巻全て時価ネットたなかで買いました。あ、時価ネットたなかというのはペルソナシリーズのANIPLEX+公式通販の名前です。実際にペルソナ3にもテレビ番組としてありまして、通販でアイテムを購入することができるのです。

話を戻しますが、映画版の結城理の生き様を見て、わたしはもう一度何も語らない主人公である「キタロー」の人生を追いたくなったのです。

ちなみに漫画版の主人公は有里湊と言いますが、漫画版はちょっと今回は置かせて頂きまして。舞台版では汐見朔也というのですがそちらもちょっと置いといて。

この2人の違いを知るために、わたしはP3Pをやりました。ペルソナ3 ポータブル、ペルソナ3のPSPリメイク版です。P3でなかった理由は、当時すぐにDL販売で買えたからだったと思います。

P3Pは女性主人公が追加されており、今まで恋愛関係になれなかった男性キャラとの恋愛コミュのようなものが追加されていたりします。正直なところペルソナ3においてはナンバリングタイトルのどれよりも「お前ら恋愛してる場合と違う」という状況が続きますので、まあそれは申し訳ないことにわたしにとっては大変な蛇足だったんですけれど。



棘の正体

ペルソナ3にはコミュニティというものがあります。
これは仲間や他の人々との信頼関係を深めるイベントで、これを進めることで女性キャラクターとは恋愛関係に発展し、男性キャラクターとは親友のような関係に発展します。

このコミュという機能が、実は棘の正体だったんです。

このコミュというのは、親密度の話だけではなく進めなければ解禁されない強いペルソナが多数居るのです。つまり、後半の戦闘を有利に進めるためにはどうしても多くの人とのコミュを進める必要がある。それがたとえ、興味がないキャラクターだとしても。そしてタルタロス散策以外の時間は主にパラメータ上げとこのコミュをいかに効率良くこなすかというのが、このゲームのシステム上の肝でもあります。このシステムはP4、P5にも健在です。

ペルソナ3が発売したのは2006年、PS2での発売でした。当時のわたしはまだまだ精神年齢が幼く、ゲームに傾倒してはいましたが登場人物の心理や関係性までを深く考えられるほどの時間を生きてもいませんし、知見も経験もありませんでした。そんなわたしにとって、P3のコミュというのは人との信頼を築くためのシステムというよりはパーティを強化するためのシステムだったのです。

だから、わたしは最初にP3をプレイした時になぜ彼が、キタローがあそこまで何度も立ち上がりながらも戦い続けたのかがいまいちピンと来なかった。

命を張って自分を犠牲にして、たった一人で死という概念に立ち向かい、仲間たちや有象無象の命を守ろうとした理由が分からなかったんです。頭では勿論分かっています。ストーリーは理解していましたので。

でも、心では納得できていなかった。

いわゆる無言系主人公は、プレイヤーと等しい目線になりがちですよね。重なりがちというか、例に漏れずわたしも初回プレイの時はそうでした。
だから"わたし=キタロー"は仲間との絆なんて、ちゃんと築けていなかった。

仲間はいつだって自分勝手に主人公を振り回して、自由に意思表示ができないプレイヤーに対して怒りや悲しみや喜びをぶつけてくる。ついでに言えば酷評されているシステムの部分ではありますが、やたらと一つのスキルを敵に使ったりターゲットがめちゃくちゃだったり、戦闘指示もざっくりとしかできずフラストレーションが堪り続ける中で、です。仲間に共感できる時もあれば、共感できないことだってあった。仲間じゃないキャラクターとのコミュだって同じです。やらないと強くなれないから、やっていた。そこに居るのはゲームのキャラクターだから、本当の意味での"わたし自身"との絆なんて築けるはずがないじゃないですか。

でも、P3とはそういうゲームじゃなかった。

"わたし≠キタロー"の選択は、彼のいのちの答えはコミュにこそあった。

幼いころに両親を事故で亡くした彼には家族と呼べる存在も友人という存在もなく、各地を転々としながらイヤホンをして音楽でずっと耳を塞ぎ続けていた。彼の心はずっと塞がれていたわけです。流れるままに、運命に導かれるまま――そう書くと聞こえは良いですが、実際は良いように大人に利用される為に何も知らなかった彼は月光館学園へと転入し、仲間と出会い人々を守るための戦いに身を投じることになる。

最初はただの諦観だと思っていたんですよ。わたしにも覚えがあったから。勝手に主人公に自分を重ねて、命を有効利用したい心理があるのかと思っていました。今考えても、キタロー自身に多少はそういう気持ちもあったんじゃないかと思います。ですが、わたしとは決定的に違うことがありました。

これはわたしの解釈の一つでしかありませんと前置きをしておきますが、コミュを通じて主人公は人との繋がりを、他者との絆を得ていたんです。
こんなの、改めて文字にするまでもなく当たり前ですよね。だってコミュニティですよ。コミュランクを上げるんですよ。絆が深まるのは当たり前じゃないですか。笑っちゃうぐらい、本当に当たり前の話なんですよ。コミュだけじゃない。望月綾時が現れてからの本編イベントである、修学旅行だって彼にとっては大きな変化があったイベントの一つです。

でも、ペルソナ3はゲームなんです。コミュもイベントも、紛れもなくゲームシステムの一つなんです。当時のわたしはただゲームをやっていたのであって、主人公の人生を追っていたわけじゃなかった。だから彼のいのちの答えにたどり着けなかった。たどり着けるはずが無かったんです。彼にとっての他者との関わりを、ただのゲームシステムの1つとしてしか捉えられなかったわたしには。

だって。
主人公は絆で繋がった大切な人たちが当たり前に持つ"生きる権利"を守るために、最後一人で"無慈悲に迫りくる死"に立ち向かったんですから。



ゲームと人生

衝撃ですよね。
そこまで没入しなければ、まさか主人公の行動動機が納得できないなんて。
それはもう当たり前のことが分からなかったわたしがただ未熟なだけだったのもあるでしょうし、前置き通りにわたしだけの解釈なのかもしれません。そこはもうわかりません、言い換えればどうでも良い話です。

わたしという人間がペルソナ3から何を感じて、何を受け取ったのかが大事なんだと思うので。

前にもどこかで書きましたが、わたしはP3Pをクリアはしていますが、2周目の今でも9月のタルタロスを永遠に繰り返して進めていません。
これはわたしの好きなキャラクターの1人である「荒垣真次郎」が関係していることですが、彼に関してはもう何を話してもネタバレにしかならないので勘弁してください。ただ、映画版でもゲーム版でも彼の生き様は格好良かった。わたしが生涯、おそらく本当に生涯リスペクトし続けるであろうキャラクターの1人になることと思います。

そして、それはキタローも同じです。
名前もなく意思もなかった主人公を、わたしがわたしなりの目線で彼の人生といのちの答えを知ったから。だから生涯で大切なキャラクターの1人になりました。

実は後にも先にもキタローだけなんですよね。
終始無言であるタイプの主人公をこんなにも大切に思えたのは。

それはやっぱりわたしがキタローを自分と重ねている部分もあるでしょうし、今まで書いた通りに彼の人生を改めてなぞり直して、そしてそれを尊いと思ってしまったから、彼のこたえを大事にしたいと思ってしまったからなんだと思います。

彼が大事にしたいと思った仲間たちだから、ペルソナ3の仲間たちがみんな大切になりました。主人公の目線を通せば、世界はこんなにも違って見えるのだと知った瞬間でした。

ゲームって凄いですよね。
現実じゃ到底味わえない世界を見せてくれる。追体験が出来る。
人間の人生は一度きりだからやり直しなんてできなけりゃ自分が望むことだって満足にできないけれど、ゲームを遊べばその数の分だけわたしはこの短い人生の中で色んな体験が出来る。誰かの目線で物事を見ることが出来る。

もちろん全てのゲームにこれだけの没入感を持って臨むわけではないですし、自分の人生に影響が出たりだとか、意識の変化があったりだとか、推しが出来たりだとか。そのゲームから何かかしら得るものがあったのならば、きっとそれは掛け替えのない素晴らしい縁なのだと思います。

そしてわたしにとっては、ペルソナ3がその縁の1つになったのです。



最後に

また長々と書いてしまったのですけれど、わたしのペルソナ3への思い入れが他のゲームと一線を画しているということだけは自分で改めて再認識できました。丁度大人と子供の狭間みたいな頃にやったゲームでしたから、猶更だったかもしれません。映画を見たのは成人してからの話なので、まさに子供の目線と大人の目線、両方からやったゲームだと言えます。とはいえ、まだまだわたしは人間的には未熟ですし一生熟すことは無いのでしょうが。

主人公が命と引き換えに大いなる封印を施してくれたニュクス――神話ではなく、ゲーム内では死という概念をもたらす存在を指す言葉ですが、それに対する世界の人々の無意識中の意識(ユング思想で言う"集合的無意識"の中で、人は常に死に向かっているために死を無意識に意識するというゲーム内での話)は、わたしにだって覚えのある感情です。あまりに没入してしまったからゲームの中の出来事ではありますけれどラストバトル以降は改めてショックも大きかったし、後日談はちょっとなんていうか辛すぎて触れたくもない。ペルソナ3はそれ単体だけでゲームとしてちゃんと完成されています。

最初にも書きましたが、ペルソナ3は「死」を題材にしたゲームです。
生物は生きている限り、死を免れない。だから死というのは古来より不朽のテーマとして扱われるし、常に隣り合わせであるものです。死は安らぎですか?それとも救い、或いは恐怖、または絶望でしょうか。

恐らくですけど、本来死という概念ってきっとそういう感情が付随する類のものじゃないんですよね。生き物が死ぬのは自然の摂理だから。だから最後にアイギスは「すぐに会えるから」と言ったのでしょうし、主人公もきっと安らかに眠ったのでしょう。

そういう意味では主人公の出したいのちの答えの1つは「死との共存である」と言えるとわたしは思います。けれど、彼がそこに至るまでには確かに絆が存在していて、それこそが彼の行動原理になっていったのだとも思っています。彼の選択の先にただ普遍的な死があって、それが少し早く主人公には訪れただけのこと。それは生き物全てに等しく在る未来です。


画像3

メメント・モリ――死を忘れるな
時は待たない。人間である限り、明日も生きている保証などこの世の誰にもありはしないということだけは不変だと思うから。


だから別に生に感謝しろとか、今を精一杯生きるべきだとか、そういう押し付けがましい話ではなく。わたしはこの言葉は何というか悲しみのベクトルではなく「今を楽しめ」みたいな刹那主義というか快楽主義のような言葉に思えます。実際ラテン語ではそういう意味で使われていたと見た記憶があります。流行らなかったとも見た気がしますが。

わたしは今、そこそこ楽な生き方をしていますので後悔することは多々あったとは言え、自身の人生をトータルで考えれば悔いは無いと思います。それでもやっぱり身近な人の死は考えたくないですし、目は背けたい。最近もそんな記事を書いたばかりです。けど、やっぱり忘れてはならない――常に思うのではなく、ふとした時に思い出すべきことなんだとも思います。それは、避けられない死を嘆くためではなく大切な人と過ごす、限りある時間のためにです。時は待ってなどくれないから。

このご時世にナイーブな死生観をこれ以上披露する気は無いのでこのあたりで終わりにさせて頂きますが。

わたしの心に残ったゲーム、ペルソナ3のお話でした。




おまけ

ここからは本当に読まなくても大丈夫ですよ!!
記事を書いてる間に無性に泣けてきたので、というかわたしは実は人の死という概念が怖くて小学生の時に夜に急に泣き出した子供だったので、やっぱりそれは今でも変わらないのかなあって思っています。いい歳した大人だけど、自分の死はこわくないけど大切な人や他人の死はこわい。もしかしたらそれもまた、主人公の行動の理由だったのかもしれません。

しかしそんな鬱々とした気分で今日を迎えるわけには行かないのです。なぜなら朝だから!そう、いまめっちゃ金曜の朝だから!!
なので、(わたしの)辛気臭い空気を払拭すべく、ここからはおまけというか蛇足というか、わたしがペルソナシリーズで一番愛しているペルソナと例の永遠に彷徨い続けている9/16のタルタロスを公開します。PSPを久しぶりに充電しましたよ!!いらねえとか言わないで!!

ライラックパープルのPSPはお気に入りなんですよー。ちなみにVitaはP4Dの同梱版で、3DSLLはPQの同梱版です。全部お気に入り!
すいっち…?え、いまどこに売ってます…?セブンネット?すぐ売り切れてたわ。

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はい、これがタルタロス。PTは見ての通り、2人だけです。

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見にくくてすみませんが、Lvを見てお分かりいただける通り2人だけで散策をして延々とシャドウを狩りつつ、荒垣先輩には執事服を着せたりしています。改めて正気の沙汰じゃありません。P3Mを見た後なので名前は結城理を借りています。変な名前じゃなくて本当に良かったです。


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そしてわたしの最も好きなペルソナのロキです。
魔王はバージョンが色々ありますが、このバージョンが一番好きでして、でっかいフィギュアも持っています。飾ると部屋が急にテイストが変わるので飾ってはいないのですけれど、大事に大事にとってあります。
P4だとたしか3周目ぐらいでわたし的完全体のロキを作り上げたんですけど、あいにく今P4のソフトが手元にないので載せられないんですよねー。あとぶっちゃけロキの事だけは一生P5には苦言を呈し続けると思います。詳しくはネタバレになるから言えませんけど!!



おまけのおまけ

おまけのおまけってなんでしょう。欲張りかよ。たぶんペルソナ3だけで記事を書くことは今後無いと思いますので、もう心残りのないように書かせてくださいということで何卒ご容赦を。

今回はP3をテーマに書かせて頂きましたけれど、あえてFES後日談やP3D、PQ、PQ2などについては触れませんでした。
その辺に触れると今回書きたかった趣旨とはかけ離れちゃうと思って。特に後日談は少しだけ触れましたけれど、わたしにとっては蛇足でしか無かったんです。ペルソナ3の主人公の出したいのちの答えは、プレイヤーの数だけあると思っています。実際にわたしは先ほど「死との共存」と書きはしましたが「絆」であるとも答えられる。きっと他の答えも探せると思います。

そしてわたしは仲間同士で争う姿なんて見たくなかったし、P3本編の結末の明確な答えなんて知りたくもなかったし、主人公の末路だって見たくなかった。アイギスの出したいのちの答えと主人公のいのちの答えが違っても同じでもどっちでも構わないですし、どっちが正しいとか言うようなことでもないと思っています。なので「本編の後日談」としてエピソードアイギスを実装したことが野暮であり、蛇足だと感じています。

でもHeartful Cryはとても良い曲だしサントラもめちゃくちゃ良いので……。機会があればどうぞ聞いてください……(ジレンマ)

この際スピンオフについてもちょっとだけ書きますが、PQやP3Dが発表された時には本当に号泣したぐらい嬉しかったですよ。またキタローに会えるんだ!って。実際P3Dの時なんて「待たせたね」って声を聴いた瞬間、横アリでどこにそんな水分溜め込んでたん?ってぐらい瞬間的にドバっと涙出ましたからね。抱き合いながら友人と喜んでめっちゃガチ泣きしました。P4Dからの流れでP5Dだけは予想してましたけど、P3もちゃんと忘れないでいてくれたんだってすごくすごく嬉しくて。「また宜しくね」って言ってくれるなんて本当に思わなくて。まあゲームそのものはウン、って感じだったんですけど。多くは望んじゃいけないんだ。出ただけで嬉し――…本当はP4Dみたいなシナリオ付きのを期待してた!!!
とはいえ。

ほんと、言いたいことは全部「キミの記憶」に詰まってるんだよ……。
だからこそ素晴らしい名曲だし、ペルソナ3の物語は本編で完結でいいと思っています。

だけどわたしは絶対に主人公のことを忘れないし、これから先も諦めないです。二律背反ですよね、分かっています。けどエリザベスも居るからつい。死が隣り合わせで共存できるのならば、死の隣に生の可能性を探ったっていいじゃないですか。9/16の永遠のタルタロスは彼の決断を否定するものになってしまっているし、わたしはこの行為が正しいとは決して思っていないですし、むしろめちゃくちゃ正気の沙汰ではないとは思っていますけれど。

ただ、本当に諦めたくないんだっていうわたしの意思表示であり、ただの自己満足っていうか。諦めないでいればまた何度だって帰ってきてくれる気がしていて。名前が結城理だろうと有里湊だろうと、汐見朔也だろうと。意思を持っていようと、喋ろうと。わたしにとってキタローはキタローであることに変わりはないし、その意味を変えたくないんです。

それでも主人公も荒垣先輩も、仲間たちも、わたしですらも。あらゆるメディアやスピンオフで全てが共存する限り、同じ時間を繰り返し続けているということになります。結局のところわたしたちがキタローにまた会うためには、実質時の流れを止めるしか無いんですよね。皮肉めいてるとすら、思います。時は待たないはずなのに。でもそれすらも愛おしい。

本当、心になんてものを残してくれたんだよペルソナ3……。

偏見なども色々あったとは思いますし、全て正しく理解できているとはお世辞にも言えませんけれど。ペルソナ3のことをたくさん書けて幸せでした。お題、ありがとうございました。

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