見出し画像

碧い瞳は美男の証 3

 敷布を交換し簡単に掃除をして、残りは明日やろうと思ってフィリックスは寝床に入った。その夜、フィリックスは奇妙な夢を見た。何故だか知らないが、フィリックスは今自分が見ているものが現実のものではなく”夢の中のもの”だと気づいた。元来、夢は夢だと認識できないのが常だがフィリックスは気づいたら”いま自分は夢を見ている”のだと気づいたのだった。 

靄がかかったようなぼんやりとした意識の中で最初に現れたのは綾羅錦繍と煌びやかな宝石を全身に纏った王様(ラジャ)だった。密陀僧色の衣裳を身に着けた四人の従僕と輦台の付いた象に乗ってフィリックスのいる方へ前進して来た。フィリックスはこの王様に見覚えがあった。そうだ、彼れは先刻クローゼットで見つけた彫り物と似ているのだとそう思った。姿も象に乗っているところも殆ど彼の彫り物と同じだ。フィリックスは奇妙な感覚に陥りながらも目を白黒させていると王様と従僕たちはフィリックスなど見えていないかのように傍をすり抜けて往った。何が起こっているのかも分からず去って往く背中らを見送ってフィリックスは再び同じ方向から人影がやって来たことに気づいた。現れたのは漢服に身を包んだ男だった。ゆったりと緩慢な動きで歩く様子を見ていると、その後ろから幾つか物影が飛び出してきた。孔雀や丹頂などの動物だ。フィリックスはまたしても見覚えのあるものだと思った。ぼんやりと浮かんだ思考の中で、彼れらはパントリーに在った食器類に描かれていた動物だと分かった。やはり不思議に思いながらもフィリックスの傍を通り抜けていく鳥たちをただ茫然と見ていることしか出来なかった。

鳥たちが完全に消えると今度は向こうから複数の顔がぼおっと浮かんだり消えたりしながら近づいてきていることに気づいた。その顔たちがフィリックスが”よく知っているもの”だと気づく頃には、もうずいぶんと接近していた。茶髪の男とその隣に立つ金髪の女。そしてその周りには十代前半ほどの童幼が四人立っていた。フィリックスはその人物たちが何者なのか分かると涙が滲んできたのを感じた。どんなに会いたいと焦がれても会えなかった、会うことが絶対に叶わない相手だった。

たまらずに走り出そうとしたが、走ることは出来なかった。腕を振って足は地面を蹴った。前進をしたはずだった。だが何度地面を蹴っても、体を前のめりにしても”彼ら”との距離は縮まらなかった。フィリックスは水中で溺れたかの如く踠いた。四肢に鉛の錘でも付けられているのかと思うほど体は重く、フィリックスの意思通りに動くことはなかった。次の瞬間には錘から解放され、薬室から吐き出された薬莢のように地面へと崩れ落ちた。つんのめる前に見えた”彼ら”の顔は魂の入ってない石膏像然としていてフィリックスは”彼ら”が自分の知っている家族ではなく、単なるみてくれだけつろ似せた模倣物なのだと気づいた。

フィリックスが再び体を起こす頃には”彼ら”は影も形も無く、水泡のように靄の中に消えて行った。ぼんやりとした視界の中で見たあの”しあわせな虚像”は確かに、フィリックスにとって最愛の家族と同じ外見をしているだけの人形だった。あの顔が脳裡に強く焼き付けられ、発露しそうだった感情がティーカップの底に溜まった砂糖のように蟠った。其処から動くこともなく空ろな向こう岸を眺めているとどこからともなく人影が現れた。靄から出てきたのは院長だった。僧衣に身を包み姿形は”あの時まで”と同じだが、いつも浮かべていた柔和な笑みはどこにもなく只索然と立っていた。フィリックスはそれが先刻の”彼ら”と”同じ類”の物だと感じた。外面だけ精巧に作っただけの人形だが裡に魂が入ってないことははっきりとわかる。

次々と現れる珍妙な夢遊者たちに頭を悩ませながらただ院長の顔を見つめていると、突如院長の背中を黒い靄が蔽い被さった。亜麻布に沁みのように広がっていく黒い斑――あの時あの路地で見た彼れだった。院長の全身が黒に染まったかと思えば、次の瞬間には塑像を壊すかのようにばらばらに砕け散っていった。肉が腐った独特の臭いとともに砂塵のように何処かに消えて行く。院長の姿が完全に失せると、不定形の黒い靄は質量を持ったようにみるみるうちに人の形を成していった。そして、院長が居た場所にまるで最初から其処に居たかのように屹立した。グレーの背広に包まれた痩せて頼りない線を描く躯、靄がかかって隠れた顔と素性は全く読み取れない。微動だにせず只一点こちらを見つめてきているということだけを感じてフィリックスは体を震わせた。そしてこの人物が院長を殺したということは自ずと分かった。顔が隠れているという以外は街中を歩くサラリーマンと一見変わらない出で立ちだが、その背にナイフを隠しているかのような秘められた兇暴さ、邪悪さが伝わってきた。まさにそれは快楽殺人鬼が纏うそれのような――「喃喃汝の心の臓を喰らわせて給え」――突如として響いてきた声が空気を震わせた。

とても離れた距離から発せられているとは思えぬほど明瞭に、そして低く淀んだ男の声だった。蛞蝓が耳のところまで這い上がってきたような不愉快さに思わずフィリックスは胴震いする。今すぐ此の場から逃げてしまいたいのに意思に反して体は動かせず、腹の底から湧き上がる恐怖と憤怒に反して声を挙げることも叶わなず、只全身冷や汗が噴き出す感覚だけがあった。フィリックスの推察は次第に確信へと傾いていく。”彼れ”は間違いなく人の姿を成しているが、快楽殺人鬼でもサラリーマンでもない。”彼れ”はきっと、”怪物”だ。

「実に憐れだな」

背後から声が聞こえてフィリックスは瞬時に振り返った。先刻までの奇妙な拘束も嘘のように解け、夢から覚めたかのように震えも不愉快さも消え去った。しかし糸で引っ張られたように振り返った先に居た”男”にフィリックスは唾を呑み込んだ。

ノックスが先刻と同じ出で立ちでそこに居たのだ。さらに驚くことは、家族や院長のように石膏のような虚像ではなく、正真正銘”生きている”人間の姿をしていた。まるで”夢の中に直接入ってきた”かのようだった。麗らかな午後の畦道を散歩しているといわんばかりの足取りでフィリックスの方へ近づいた。先刻の無愛想な表情からは想像できないほどの笑みを浮かべているので、フィリックスはますます気味が悪くなった。

「おまえはほんとうに憐れなやつだ」

ノックスの掠れた声がすぐ傍で聞こえる。先刻聴いた時は聴き心地のいい声では無かったはずなのに、何故か今は流れるように、そして穏やかに耳の中に入ってくる。金貨の流れる川を渡り、蒼い木が甘橙を実らせ、花を芽吹かせる息吹を侶て、春の精霊とともにやって来たようだ。見咎める言葉とは裏腹に悠然とした挙措で只鮮やかに、朗らかに笑っている。周囲の靄に包まれた奇妙な空間とあまりにもちぐはぐでノックスの存在だけが浮いている。フィリックスは自分にかけられた言葉の意味など考える暇もなく、茫然と立ち尽くす。

「家族は皆死に、雇い主からは虐げられ、ぼろ家で鼠と暮らし、その日食うパンすら手に入らずに遠くから他人を羨むだけのお前は憐れだよ」

フィリックスはなぜノックスが自分にこのような言葉をかけてくるのか分からなかった。先刻握手を交わした時も歓迎されていないということはなんとなく分かっていた。しかし、なぜ夢の中に現れてまでこのようなことを言ってくるのかはまったく見当がつかなかった。

「おまえは”あの時”死んでいたほうがよかったんだ。兄弟たちとともにな。人間は人生で最も幸せな時に死ぬのが一番なのだからな」

槌が金床に打ち付けたかのような衝撃をフィリックスは感じた。そしてその槌に己の頭を殴打されたようだった。フィリックスはこれまで出来る限り考えないよう努めていた言葉だった。”あの時死んでいればよかった”ということは思うべきではないと己を律した。しかしその言葉をかけられて真にそれが正しかったのかとう確信は持てなかった。ノックスの言うことこそが正しいのではないかと、そう思わずにはいられなかった。しばし黙して考えていると、フィリックスは背後に気配を感じた。背後にあったもののことを思い出してゆっくりと振り向いた。黒い靄から覗いた口が吊り上げるように笑っていた。



目覚めると先刻と変わらない蕭々とした部屋の景色が広がっていた。ベッドに入って、未だ埃っぽい空気を吸った。時計が無いので時刻はわからないが、窓から見える外は真っ暗で朝ではないということがわかる。フィリックスは寝直そうかと瞼を閉じて暫くじっとしていたが、先刻見た夢の内容が甦ってきたせいで目が冴えた。一階に降りて水を飲もうかと体を起こした。体がだるく動かすのも億劫だった。あんな夢を見たせいなのか、それとも少ししか寝ていないせいなのかは分からなかった。ベッドから下りる時にふと、テーブルに置いてあるマハラジャのゾウに気がついた。フィリックスはついそれが気になってしまったが、深く考えるのもよそうと何にも触れず素通りした。

灯りのついた階段を降りて、一階にまでやって来ると玄関の柱時計が一時十五分を指していることを確認した。家の中は人っ子一人いないかのように静謐としていた。グラントリーやノックスは眠っているのだろうかとも思うが、そもそもこの家に居るのかと不思議に思うほど静かだった。しかし、台所に人影が在るのを感じてフィリックスはその考えを改めた。灯りのない廊下の奥にある台所の入口に小さい影がなにやらもぞもぞと動いていた。フィリックスが不審に思いながら近づいていくと、影の主もフィリックスの足音に気づいて振り返った。其処に居たのはフィリックスよりも小柄な十歳ほどの少年だった。

「だれ?」

少年は声変わりのしていない高い声で問いかけた。恐る恐る、と言った感じで暗がりからゆっくりと歩み寄ってきた。灯りの下に晒された少年の顔は不安と驚愕が滲んでいた。

「まさか、幽霊?」

「ちがうよ、生きてるよ」

そう言われてフィリックスは咄嗟に否定をした。幽霊だと勘違いされるのはあまり気分が良くない。この家の者にそう思われるのならなおさらだった。少年はますます不思議そうに首を傾げた。

「でも、ぼくはきみのこと見たことないよ」

「昨日の夜ここに来たばかりだからね。でも泥棒でも幽霊でもないよ」

元は勝手に入ってきたので泥棒のようなものだったのだが、フィリックスは余計なことは言わないでおこうと思った。

「ほんとう?でも、ジェラはこの家には幽霊が出るって言っていたしなぁ」

ジェラ、という聞き覚えのない名前が耳に入ってきたが恐らく他の従業員のことだろうと察しがつく。ここで素性を明かさないと生きている人間だと信じてもらえなさそうだとフィリックスは気づいた。

「ぼくの名前はフィリックス。下働きとして雇ってもらうことになったんだ。いきなり来たから不思議に思うかもしれないけど、幽霊じゃないから信じてくれよ」

「フィリックス?ふーん」

少年はフィリックスをじろじろと見つめ、興味があるのかないのか分からないような返事をした。未だ幽霊だと疑っているのかもしれない。うんうんと頭を揺らすたびに少年の褐色のくせっ毛も揺れる。少年は丸い輪郭に大きな群青色の眸、小麦色の頬と愛らしく快活そうな顔立ちをしていた。本来なら子どもが起きている時間帯ではない。少年も紺色の寝間着を着ているので寝ていたか、これから寝る気があるのだろうがとても様子からはこれから眠るとは思えないほど溌溂としていた。

「それで、きみの名前は?」

「ぼくはユージーン。皆からはジーンって呼ばれてる。ぼくもれっきとしたここの従業員さ」

「へえ、きみも働いているのか」

「そうだぞ、ぼくも立派な”碧眼”だからな!しかし、きみの眸は碧くないんだな」

「うん。だから下働きなんだけどね」

「だろうな!」

それを聞いてユージーンはけらけらと愉快そうに笑う。悪意は無いのだろうがあまりに素直に毒を吐かれたものだからフィリックスは少々面喰った。子どもらしく純粋な少年なのだろうと思った。

「でもさ、ジーン。こんな時間に起きていていいのかい?」

「ほんとうは駄目だよ。でも、眠れないんだ」

「へえ、それはどうして?」

「お腹が空いたんだ」

ジーンは腕を供み、真剣な面持ちで告げた。それを見て、フィリックスはかつての自分を見ているような気分になった。泥ひばりを生業にしていた時は夜中に腹が空いても食べるものは何もなかった。毎夜空腹を我慢しながらベッドに潜り込んでいたので、フィリックスはジーンの気持ちがよく分かった。腹が空いて眠れないというのは自分たちの年頃なら仕方のないことだ。さも重大なことのように言うのも大袈裟ではない。

「台所にいたのはそれで?」

「うん。でも何にも無かったよ。たぶんセドリックがルイスに言われてぼくが見つけられないところに隠しているんだと思う」

「セドリック?ルイス?」

「セドリックはうちの店のコックのこと。ルイスはけちな兎人間のことだよ」

またしても未だ知らない従業員の名前が出てきたので訊ねると、ユージーンはつまらなさそうに眉を曲げて吐き捨てた。セドリックはともかく、ルイスという従業員のことがフィリックスは気になった。

「兎人間ってどういうこと?」

「ルイスは頭が兎なんだ」

「どういうことだよ。人間だろ」

「そうだけど、ルイスは兎人間なんだ。だけど兎みたいに可愛くはないけどね。ぼくのことすぐ怒るし、時間通りに寝ないと凄い顔するし、お腹空いて眠れないって言っても聞いてくれないし」

「寝る時間は仕方ないよ。子どもなんだし」

「ぼくはもう十二歳なのに!」

「まだ十二歳だろ」

「きみだってぼくと大して変わらないだろ?」

「ぼくは十四歳だ。十二歳と十四歳はちがう」

「二歳しか変わらないじゃないか」

「そこはまぁいいじゃないか。それにしても、そのルイスっていう人は厳しいんだね」

「くどくど言ってくるから嫌いだよ。ルイスもきっと、ぼくのことが嫌いなんだよ。顔が兎だからぜんぜん恐くないけどね」

「そうなのかなぁ」

ユージーンの言葉から、ルイスがユージーンに対して厳しくしているというのはわかったが、結局頭が兎とはどういうことなのかは分からなかった。明日にでもなれば直接会えるだろうから良いかとフィリックスはそう思うことにした。

「ルイスだけじゃないよ。サーグラントリーも、ミスターノックスも寝る時間には厳しいんだ。サーグラントリーはまだ優しいけど、ミスターノックスはそういうことにはうるさいよ」

ユージーンは指で両目を吊り上げながら言った。ノックスの真似をしているのかと思ったが、狐のような細い目は似ても似つかないなと胸の裡で笑った。そしてフィリックスは、グラントリーのことを"サーグラントリー"、ノックスのことを"ミスターノックス"と呼ばなければならないということを学んだ。

そこで二階から足音がしたのが聴こえてきた。小さな音だったがユージーンはそれを聞き逃さなかったようで途端に素っ頓狂な声を挙げた。

「あっ!もしかしてルイスかも!」

「そうなの?」

「知らないけどね。ぼくはもう戻るよ。おやすみ」

フィリックスが「おやすみ」と返すと、慌てた様子でユージーンはフィリックスの横を足早にすり抜けて階段を駆け上がっていった。先刻聴こえてきた足音ももう聴こえなくなっていて、再び家の中は静寂に包まれた。

年相応に無邪気だが不思議な少年だ。しかし彼が居ればいくらかこの店で働くのも辛くはないだろうなとフィリックスは思った。グラントリーに見つからないうちにさっさと部屋に戻ろうと、台所へ入っていきながら。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?