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夜、海の探偵

 かなり遠くの対岸から、僕の目へ向かって、住宅やビルの放つ灯りが届く。灯りはいろんな色をしていて、ひときわわかりやすく光ったと思えば消え、一瞬の間をおいてまた光る。点のような灯りが並び、なんだか一つの文章か星座のように見える。横一列の灯りが、岩礁の上の水たまりに映る。水面で縮んだり伸びたりして、灯りは柔らかい。意図しない送り手から意図しない受け手へ、意図せず届けられる灯り。意図せず届けられたものから触発されるのはどこか不思議で、同時にそれは、言葉の不思議さでもあった。


 フィルムカメラのファインダーを覗くのをやめて、地面から起き上がった。特に考えず、地面で横になったので、お腹や膝のあたりが少し濡れていた。岩礁は湿っている。海水の名残りが服を濡らす。
 僕は、深夜、有名なショッピングモール前の浜辺に降り立ち、海へ海へと歩を進めた。しかし、どこまでも岩礁の浜が続く。モールと海の間に大きい道路が走り、道路と海を隔てるテトラポットの下からは、潮の引いた岩礁が広がる。そうだ、どこまでもいけるのだ、と地面から送られてくる励ましを感じる。僕の身体は、どこまでも行けることを知っていた。ただし、息の続く限りまで。

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 大きく広がる岩礁の上に、ところどころ海水がたまっている。干潮時の浜では、海と陸が反転する。孤島のような水たまりもあれば、道のようにつづく細い流れもあった。僕は、魚のようにいつまでも進み、魚は限られた海水の中でじっと潮を待った。


 ある水たまりのふちでかがみこんでみた。懐中電灯などはないので、スマートフォンの明かりで水の中を照らす。透かした緑色の水草が、見えない力で揺らいでいる。と、思ったところで、力はもともと見えないものなのだと気がつく。
 そう思うと、少し突きだったあたりから、何やら飛び出してきた。目をこらして見る。縞々模様の魚だった。地面に胸びれがつき、両足のように動かしている。僕の投げかける光のもとで、魚は気にせず泳いでいた。僕は、フィルムカメラを構えた。すると、とつぜん魚は、水たまりの先へ急いで泳いでいってしまった。その水たまりのあたりを、しばらくねばって追いかけ回したが、もう縞々模様をした魚に出会うことはなかった。


 それからだった。僕は前のめりになって、スマートフォンのライトを頼りに、水たまりを次から次へと飛び移っていった。誰にも依頼はされていない夜、海の探偵になって。あてもなく、どこへ繋がるのかもわからない証拠を見つけて、喜んだ。ときどき、小さな魚や、貝を背負ったヤドカリ、黒いナマコを見つけ、こう告げた。


 こんばんは、なにをなさっているので?

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 すると、水平線のほうからキューッと高らかな声がした。しかし夜は、まだ、とても濃い紺色だった。高くて、どこか清らかな声が、海から立ちのぼった。
 しばらく行くと、大きな水たまりのあたりで潮干狩りをしている人を見つけた。相手のの全身は暗闇に浸ったままなので、頭につけたヘッドライトが宙を遊泳しているみたいだった。
 すみません、と近づきながら声をかけると、ヘッドライトが僕に向いた。ぼんやり、全身の輪郭が浮かんでくる。
 潮干狩りですか、と尋ねると、そうだよ、という男性の声が返ってくる。男性の声は、作業中の神妙さをまとっていて、耳が少し緊張する。へえ、と言いながら、あたりを見回す。男性はまた腰を低くかがめて、作業を再開する。


 人は作業をする間、寡黙になる。または、作業の一瞬、深い沈黙が訪れる。その瞬間が、意識に、谷間のような深く静かな刻みを作る。刻みが、流れる時間を一瞬だけ留める。そのような留まった時間が、僕らの頭に記憶の手がかりを残す。深い刻みを手がかりに、また僕はある出来事を思い出したりするのかもしれない。そして、僕は、寡黙に作業をする人を見るのが好きだった。


 僕はまた男性に尋ねる。
「あの、キューッって音、なんでしょうかね」
「ああ、海鳥の鳴き声だよ。朝方に鳴き始めるんだよ」


 海鳥の鳴き声。筆で一直線を描くように、最初は高らかで、次第に薄れてゆく鳴き声が。海鳥はいつだって鳥らしく、連続的に鳴くものかと思っていた。
驚いた。太陽が昇る音みたいに聞こえる、あの声。ほんの少しずつ淡くなっていく夜明けの空に、キューッという、海鳥の高い鳴き声が響く。それは、あきらかに空が白みはじめた方向から、たちのぼっていた。まるで、太陽が昇ることを暗示している。耳に入りこむ、夜明けの気配だった。


 知り合いに、太陽が昇る音についていろいろ聞いて回っているという人がいた。僕はふと、その人と話してみたいと思った。もしかしたら、太陽自身も声をあげるのかもしれないし、または、太陽流の挨拶をあらゆるものへ散りばめ、人間へ意味深げな解釈を委ねているのかもしれない。


 あいかわらず、対岸の住宅かビルか工場から届く灯りは、ちろちろと点滅している。海はさらに遠くで寝転んでいた。向こうで打つ波だけが、僕に海の輪郭を教えてくれる。水平線から淡い色が広がり始め、空には飛ぶ鳥の影が動いている。
僕は、潮が満ちる前に浜から上がった。海鳥が、太陽を先越して、夜明けを鳴き告げていた。一時間半も車へ戻らないでいる僕を、友達は怒るだろう。


 夜、海の探偵に依頼は来ない。なぜなら、海に散らばる証拠が、あまりにも手に余ることを誰もが知っていたから。

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