布にまつわる禅問答
今日は、晴れているともいまいち言えない天気で、青空は頻繁に見え隠れを繰り返していた。
僕は、港あたりのホテルで開かれている小さな写真展を見にいった。写真展は質素だった。展示してある写真は、街の灯りと夜空が静かに主張し合っているような構図のものが多かった。とても綺麗で、しっとりとしていた。色と街が溶け合っていることで、米軍の土地と、沖縄の土地の線引きもあいまいになっているかのようだった。でも実際、沖縄はそういう土地だったと、当然ながら改めて実感した。どうでもいいけど、展示室にはヒーリング音楽のようなものがBGMとして流れていて、大学の入学前課題に読んだ本の内容を思い出した。BGMが人間の感覚に与える影響と問題点、といった内容だったか。
写真展を見終わって、ホテルから古着屋に向かうことにした。国際通りの人通りの多さが嫌なので、できる限り、細い細い裏道を通った。
歩いていると、大きなガジュマルの木が植えてある公園にさしかかった。公園のフェンス沿いに歩いていくと、急に、木々の奥のほうの人肌が目に入った。
公園と隣家を隔てる壁際に、上裸の男性が立っていた。上裸と言っても、紺色のボクサーパンツを履き、頭には白い手拭いを巻いているだけだった。男性は、灰色の自転車に半ばまたがり、タバコを吸っていた。タバコから薄い煙が、するするとのぼっていた。
僕が公園を過ぎ去ろうとすると、男性は叫んだ。
「ちょっと待ってください!」
男性は、白い肌の上にタバコの煙をちらつかせて、慌ただしく口を動かした。僕は立ち止まった。僕と男性は、フェンスを挟み、人間五人が横並びになったくらいの距離感に位置していた。
「これ、Tシャツかおしぼり、どっち?」
男性は、手にピンクのTシャツを握りしめていて、それを大きくぶんぶん振り回した。僕の五感になるべく働きかけるようにして、男性はその慌てっぷりを表現した。
僕は少し不審に思いながら答えた。
「Tシャツじゃないですか?」
すると男性は、急に目をかっ開いて、ピンクのTシャツを地面に叩き落とした。
「僕は、おしぼりが欲しいんだ!!」
叫ぶと日本語の発音の独特さが露わになった。よく見てみれば、鼻が高く目は大きく、男性は外国の血筋をもつ人のような気がした。しかし、男性の日本語は流暢で、怒りに追いつけない発音が耳に残る程度だった。男性は、白い肌に浮き上がっている肋骨を震わせて、ぶつぶつとなにかつぶやいている。
「あなたなんか早く帰れ!」
僕は、危険な雰囲気をたしかに感じて、会釈しながら立ち去ろうとした。
「ちょっと待って!」
男性はまた叫んだ。僕はまた立ち止まった。
「お、その、じゃっ、これ、なに?」
今度は、頭に巻いている白い布を指した。男性の顔に切実さが滲み出ていた。
僕は言った。
「おしぼり。」
「手ぬぐい、だろ!!」
男性はさすがに、この愚答への怒りを隠しきれなかったらしく、間髪入れずに切り返した。
これには僕もさすがに笑ってしまった。僕が出した回答の意味の分からなさ、そして男性の答え合わせの正しさ。僕は、頭を空っぽにすることで男性に対して殻を閉ざしながら答えていたにしても、これはあまりに酷すぎると思った。
禅問答って、こんな感じなのかな、と思った。大地山河、廓然粉砕。水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり。空闊くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし。あたり前に知覚している“もの”は、元はなにものでもなく、頭に巻いているから「手ぬぐい」とか言うし、身体(口?)をふけば「おしぼり」と言う。というか人間は、そう呼ぶことで“もの”をやっと認識する。
そう思うと、僕と男性の間に、小さい師弟関係でも出来上がったかのように見えた。どこか改めて自分の至らなさを、超現実的に示してもらっている気がした。潙山和尚と百丈懐海、もはや禅に収まらず、プラトンとソクラテス、「嫌われる勇気」の男の子と哲学者アドラー(まあ読んだことないけど)、ルークとオビ=ワン(EP1-3とEP5.6はまだ観てない)、ゴン・キルアとビスケ、緑谷出久とオールマイト、虎杖悠仁と五条悟、って感じで色々な師弟たちが脳裏をよぎっていった。
しかし、そんな頭の中のごまかしは1秒も続かず、改めて僕は歩き始めた。
「ちょっと待って!」
ボクサーパンツの叫び声が、公園と隣家を隔てるフェンスの間をすり抜けて、聞こえる。
僕は、もし通り過ぎたのが屈強なマリーン(海兵隊員)だったとしたら、ボクサーパンツはどうしただろうか?と考えた。ボクサーパンツは、汗をあい変わらず滲ませてタバコを吸いながら、頭の中で神秘化された“おしぼり”のイメージを反芻し続けていただろうか。
もしくは、僕が隔たれたフェンスを飛び越えて、ボクサーパンツへ向かっていったらどうしていただろうか?「よし、スモウバトルだ!」とでも言って、勇ましく立ち向かってたか。それとも、「ヤベエ!」と本格的に自転車へまたがり、クイズ・マスターから狂人へと転向した人の魔の手から逃げようとしただろうか。でも、べつにそんなばかなことをしたいと思えるほど今日は暑くも寒くもないし、と思った。
「やっぱりいいです!ええと、あなたなんて帰れ!!」
ボクサーパンツの声は、すぐに聞こえなくなってしまった。
こうして僕は、会話一分足らずで勝手に師弟関係を結び、勝手に破門とされたのだった。
また師匠と会える日は来るのだろうか?
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