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手について

 別に手フェチというわけではないが、最近、とても自分の手が気になる。それも、手の甲に浮き出ている血脈が気になる。そういえばなんだか手が老いた気がする、とバイト先の沖縄料理屋のキッチンで、まだ19歳の僕は思った。

 洗浄機から奔り出る湯に当たり、すっかり薄皮が剥けている指の腹。人間の細胞は一年ですっかり入れ替わる、というが、この剥きかけの古い皮は、時間の経過の証拠でもあるのかもしれない。

 そんなふうに数秒ぼーっとしていると、キッチン専属のOさんが何気なく僕に話しかけた。
 「見ろよ、これ」

 そう言って目の前に差し出されたOさんの人差し指の付け根には、タコができていた。Oさんはもう60歳を越しているが、筋肉質の体でキビキビと動き、ほぼ毎日、朝から夜まで料理屋で料理を作っている。バブル期の頃は、不動産屋に勤めていて、一人で何千万と稼いだらしい。Oさんの話から漂う貫禄と、景気の良い笑いとユーモアは、かつての時代を生きた若い彼自身が見えるようだった。

 「えー、珍しいですね」
と僕は驚いて言った。それというのも、Oさんは毎日毎時間料理をしているわけで、僕には彼の手の構造が常人とは違うと思えたからだ。

 Oさんは手をひらひらさせながら
 「1日で野菜とグルクン(タカサゴという魚)、何百キロと仕込んでたらこうなっちまうだろ」
と苦笑いしながら言った。

 その後、胎内で四方八方からお湯をふりかける洗浄機に洗い物を送り出していると、横からO さんが、さっと皿を洗いに来た。よく見ると、O さんの手は色黒く、手の甲の血脈は、山ひだのように急峻にそそり立っているように見えた。はっきりと浮き出た脈が、それもまた明確な影を寄り添わせていた。沖縄の山原(やんばる)出身のOさんの手を見ると、なんとなく僕は、山原の濃く湿っぽい葉むらの匂いを嗅いだように思った。

 夜中の帰り道の僕は、手の甲をさすりながら、これまでの生きてきた時間は、いつでも手の甲の血脈を轟々と流れているのを理解した。


 数ヶ月前。沖縄から東京へと帰り、半年ぶりに友達と再会したとき、彼は僕の手を握ってこう言った。
「きみの手は苦労人の手でかっこいい」

 そういうような内容のことを言われたように記憶しているだけで、曖昧に覚えているだけだ。改まってそう言われて、僕はあは、あは、と照れくさい笑いしかこぼせなかった。しかし、そうして考えてみると、彼の言葉を思い出しては、自分の手を意識することが増えたように思う。

 僕は、自分の手にコンプレックスを持ってきた。それは別にゴツゴツしていたり、人と比べてサイズが小さいからではなく、一番炎症を起こしやすい部位が手だったからだ。アトピーに近いが、アトピーではないらしく、おそらく尋常じゃないほど乾燥に弱い特質なのだ。お湯や水に当たるとすぐにカサカサしはじめ皮が剥け、夏でも簡単にひび割れる。そうならないように、少なくとも日に3回は保湿性が高いクリームを塗る。

 といっても、中学・高校時代は、なるべく最悪な状態になるまでクリームを塗らないように過ごしていた。保湿クリームを塗ると、最低30分間はベテベタしてしまいからだ。濃く白い指紋を残してしまう手でものを触ることには抵抗感があるし、完全に治るともいえない「体質」にそこまでして努力しようとは思えなかったからだ。

 (民俗芸能を)踊ることが好きだったのも、人の目が、単純には自分の手へと向かわないからだったのかもしれない。踊りを見るとき、人は手を特に意識してみることも多いだろうが、それは静止したモノとしての手ではなく、残像もふくめどこまでも動き続ける、動的な存在としての「手」なのだ。そこでは、赤みを帯びて炎症を起こした手も、形象化した手として生まれ変わり、結果的に身体の一部として認識される。そして、踊りは動的な身体全体への評価に帰結する。
 しかし、部活動などの指導で、踊りをよりよくするために人から腕の角度などを指摘され、手を触られたり見られたりすると、今すぐにでも手を下ろして隠してしまいたくなった。手だけ見られたのでは、どうしようもできなかった。

 最近、僕の炎症を起こした手が、満開の紅葉みたいだったと思うようになった。ときには風に吹かれて散るように炎症箇所がうつるし、どくどくと脈拍に合わせて色を変える薄皮越しの肉が、照っては陰る紅葉だった。そう思えたら、幾分、マシだったろうか。

 今ではほとんど抵抗感なくクリームを塗る習慣がつき、炎症はだいぶおさまった。しかし、人から手を見られると冷や汗が滲むようなのは、今だってそうだ。


 数ヶ月前に、首里城公園の横を大学の友達と歩いていると、彼は言った。
 「ピアノ奏者のなかには、手になにかあるといけないから、なるべく家事や手仕事をしないように避ける人もいるらしいよ。家政婦とか雇ったり、なるべく実家に住んだり」

 この話を聞いて、なんとなく「ピアノしか知らない手」について考えた。ピアノに全てをかけて、生活のほとんどを自分以外の手にまかせた手というのは、どんな形をしているのだろうか。ほそりとしていて、1オクターブも楽々と弾けるほど長く、全身のすべてが手へ集中するようで、結果的に全身が手を通じて音へ帰結しているのだろうか。手、すなわち全身ということになるのだろうか。

 しかし、それはどことなく、詩についてしか語らない詩のように、永遠と自分自身の役割しか語れない芸術媒体のように、呪いの結晶ではないかとも思えてしまう。その人の音楽以外の生活や、生きてきた土地が見えてくるような音楽が、僕は好きだ。
 とても興味深いような、もしくはこれほどナンセンスな話はないような、あるいはそんな手など存在しないような気がした。

 歩いていた傍らの大きい城壁の間から覗いた、そこだけ亜熱帯の森から、つめたく匂やかな空気が吐きだされ、僕の腕のまわりに漂っていた。


 よく、「白くってふっくらとした手だね、苦労したことないんだね」と言う人がいる。はたして、手を一瞬見ただけでその人の人生を知ることはできるのだろうか。人の手を見た時、まるで天啓のようにその人の人生が思えてくるようだったら、それもその点だけで人を評価しようとするようなら、まず自分を疑った方が良い。ある人の一面や一点だけで全てを知れるほど、人は簡単な存在ではないはずだ(「育ちがいい・悪い」と言ってくる人のたいていは、人の育ちに口を挟む自分自身の勝手さに気づいてはいない)。

 しかし、一面や一点を通じて、ほんのすこしだけ、その人の人生をたどることはできると思う。特に、手を通しては。

 血を送れば送るほど血管は膨らみ、再生すればするほど皮膚は硬くなり、荒れれば荒れるほど赤みは増す。なにかの炎症に処置をすることしないことが、その人があるとき、一番身近なはずの自分自身の身体に何らかの働きかけをしたかしなかったかの、いわば「選択の瞬間」、または経験へとつながる。その「選択の瞬間」、経験を見たかのように思ったとき、僕たちの心の中にだけ存在する“その人”が息をしはじめる。

 僕の手はあと何回、水に当たり、ものを掴み、笑う口をおさえ、涙を拭い、なにかに傷つき、癒されるだろうか。誰の背中を抱き、手を繋ぎ、言葉以外の言葉を伝えるだろうか。
 今もどくどくと流れ続ける血脈が、Oさんの山ひだを超える日は来るだろうか。しかし、血脈は山ではないし、そもそも固形物でもないのだった。

 自分の手をみるたびにそれを形作った時間を見るように思い、自分の手が誰かの手と重なることだけはたしかなのだ。僕の手はあなたの手であり、あなたの手は僕の手であるのだ。

 自分自身の身体の内に、一番身近な見つめ合うべき他者がいるのだ。

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