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本の効用

 最近、だいぶ前に読んだ本や小説が思い出されて、心に滲みてくる。

 そういった後々滲みてくる文章というのは、大抵、読後にあやふやな体感を抱きやすいように思う。活きの良い“はず”の文章が、「こんなものか」という具合に、僕の頭上を通り過ぎていく。水族館のトンネル状の水槽を通った時のように、その文章の群と確実に出会ったはずが、僕は気の抜けた実感しか掴めないのだ。


 読書中も懲りずに、快感を追い求めてしまう。それはやっぱり、とんでもない味を秘めた本との出会いが往々にしてあるからだ。頭を打たれるような、はっきりと頭の中で衝撃が鳴り響いて止まない本と出会った体験が、保証された面白さの用意されている道へと、僕を追い立てる。


 今年の4月、僕は最果タヒの『十代に共感する奴はみんな嘘つき』という小説を読んだ。この小説を形作る文章の発色の良さは、どんなジャンクフードよりも強い快感を、舌に運んだ。僕の口から発される(あるいは手から下される)言葉群は、しばらくの間、最果タヒの文章から派生したようなものに感じられた。感性も、そのビビットな言葉を生み出す方向性へと、無理やり方針変更を迫られていたようなのだ。

 しかし、そのように衝撃的でしかも半自己脅迫的な出会いは、すぐに表面部分が融けてしまい、本質的な実の部分しか残さない。今話に出ている小説も、御多分に漏れず、冷めきって、予想以上に小さかった実だけを僕の戦利品として残していった。その実の部分は、自分が得た大切な意義だ。衝撃的な印象を持たせる本には、即効性がある。効いている実感を、ものを握るように確かめられる。一方、それは僕とかなりの距離を置いて分離している。


 強い快感や、人生の岐路に立たせようとする脅迫性を期待するなら、じわじわと滲み出すような実感を抱かせる本はその要望に応えきれないだろう。しかし、それは、僕の心に滲み続け、食いこみ、そしていつのまにか身体の一部となる。液状の言葉群が、僕に衝撃的な出会いをくっちゃべらせるべく、僕の口腔を形作る。それはつまり、僕が機能するための骨や肉の部分になってくれるのだ。そんな言葉たちに出会った時、体感としては薄いものしか見出せない。けれども、時間が経つにつれて、稀薄に感じられた言葉が実在感を持ち始める。のちに僕は、この言葉や物語群を反芻するほかなくなるのだ。そういった状況が、生きる活力を生み出してくれる。

詩とはそのようにも人間の肉体=魂の内部にはいりこんで機能しつづけ、その実在感は、腫れた肝臓よりももっとあきらかに指でたしかめることができる。
大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』

 もはや気持ち悪いくらい、自分の感覚を大江健三郎の文章が鮮明に伝えてくれている。僕は今年、衝撃的かつゆるやかに、大江健三郎の文章との邂逅を果たせた。僕は、あいまいな印象しか持てなかった言葉や物語が実在感を帯び始める過程の中に、代謝の感覚を見出す。それは、最初は冷たいシャワーの水が、段々と暖かくなるように。そして、冷水から温水への変化のトンネルをくぐりきった湯が、僕の肌に触れるのを感じるように。

 この文章を、今年のまとめとしてここに残す。

今年読んで衝撃的だった本・小説
海堂尊『ゲバラ漂流 ポーラースター2』
開高健『輝ける闇』
最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』
開高健『夏の闇』
大江健三郎『死者の奢り・飼育』より「他人の足」「人間の羊」
宮本常一『宮本常一 伝書鳩のように』
大江健三郎『見るまえに跳べ』より「上機嫌」「鳥」「下降生活者」
魯迅『魯迅文集2』より「秋夜」
橋本昇『内戦の地に生きる−フォトグラファーが見た「いのち」』
今年読んで滲みてきた本・小説
ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』
ソン・ウォンピョン『アーモンド』
角田光代『キッドナップ・ツアー』
井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を求めて』
大江健三郎『見るまえに跳べ』より「鳩」
J・P・サルトル『実存主義とは何か』
ジョン・グリーン『ペーパータウン』
大江健三郎『大江健三郎自薦短編集』より「空の怪物アグイー」「頭のいい雨の木」


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