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誰を想って生きようか?-『ペーパータウン』

 もう2020年度の高校生活も終わりに近づいている。自分にとってどんな一年だったか、ふと考えがちだ。卒業を目の前にして、残る時間を楽しみきれるのだろうかなんて考えたりする。振り返る中で、世の中や身の回りに溢れる無数の“青春”を意識してしまい、嫌になることもしばしば。そんな中でよく思い出すのは、ある小説だ。
 というわけで、今回は『ペーパータウン』(ジョン・グリーン 作 金原瑞人 訳/岩波書店)を紹介する。

 主人公クエンティンは平々凡々とした高校生。特筆することがあるとしたら、隣の家に住んでいる幼なじみ、マーゴに恋をしていることくらい。マーゴは、とんでもない変人かつカリスマで、高校の人気者だ。クエンティンはある日の夜、マーゴに誘われて、マーゴの彼氏や友人への盛大な悪戯計画を手伝わされる。二人きりの特別な夜を過ごせて、喜んでいたクエンティン。しかし、その夜を境にマーゴは失踪してしまう。クエンティンは、残された手がかりを頼りに、マーゴの意外な一面に目の当たりにしながら、彼女の行方を追うが・・・。

 この小説を読んでいると、主人公クエンティンの、ちょっぴり寂しくて、エゴイスティックな姿勢に共感してしまう。クエンティンには、ベンとレイダーという二人の大親友がいる。クエンティンのようにうだつがあがらなくて、人気者を疎んでいる二人だが、それでもなんだかんだ“青春”をうまく乗りこなして楽しんでいるのだ。物語に進むに連れ、ベンもレイダーも彼女ができて、ベンに限ってはパーティでケグスタンド(逆さま立ちでビールを飲み干すゲーム)を見せつけ、いっ時の人気者になる。一方クエンティンは、マーゴを探すのに夢中で、親友たちの姿に呆れるくらいしかできない。しかし、「マーゴと今を過ごしたい」と、自分の青春の方向性を決めて実際に果たそうとする、その健気さはクエンティンの魅力だ。そして、互いの存在を尊重しているからこそ、下ネタ話からゲームの攻略法、罵倒、なんでも言い合ってコミュニケーションできる、クエンティン3人組の距離感は清々しい。

 この小説で推したいシーンが一つある。クエンティンとマーゴが車から飛び出し、夜の高速道路を走り渡るシーンだ。二人は、シーワールドという水族館に不法侵入するために、深夜の道路と、敷地を囲むための池を必死に渡る。僕には、その情景が、二人の青春の形を象徴しているように思える。人気者のマーゴも、彼女特有の違和感を抱えている。マーゴは、誰にも定義してほしくないような、自分自身の中の“奥深く、秘密めいたもの”を強く意識して生きている。しかし、周りの人からは「マーゴらしい」「変」という言葉と共にまとめられてしまう。

 周りが“青春”や“自分”という車を乗りこなしている中で、自分自身の足で道路へと飛び出した二人は、他とは違う自分自身を引き受けているのではないだろうか。二人は現実から逃げているようで、しっかり現実と対峙しているふうに、僕には思える。

 僕も、もしものときは、クエンティンとマーゴのようになにかをうまく乗りこなすのではなく、おぼつきながらでもどんな方向でもいいから、しっかり歩んでいこうと思えるようになった。


 クエンティンは、物語が進むに連れて、マーゴの置いていったアメリカの詩人“ホイットマン”の詩集を頼りに、彼女の行方を追っていく。クエンティンは、ホイットマンの詩を読解していく中で、マーゴが抱える生きづらさに触れ、新たなマーゴの一面を知ることになる。終盤では、クエンティンの口からこんな言葉が語られる。

「たとえ方にはいろいろあると思う。だけどたとえ方を選ぶときは気をつけないと。なにをどうたとえるかはとても重要なんだ。糸を選んだら、その人は自分が想像する世界で、取り返しがつかないほど壊れてしまうかもしれない。草を選んだら、君がいったように僕らは根っこという無限のつながりを持つことになる。この根っこがあれば、だれかを理解するだけじゃなくて、だれかになることもできる。たとえにはたとえ以上の意味があるんだ。」

 

 クエンティンのこの言葉は、言葉を通じて現実を認識する僕らに、「どんな言葉と共に生きていくの?」と問うてくる。それは、誰を想って今を過ごすかということにも通じると思うのだ。そして、そういった選択や、偶然選び取ったものがこれからの時間を作り上げていくことを、改めて教えてくれる。
 

 さあ、どんな言葉と共に生きようか。誰を想いながら、卒業を作ろうか。


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(全然関係ないけど良い写真が撮れたので貼っつけておこーと思う)

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