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自然に囲まれて

 今年の夏、何がなんでも暑すぎる!!もはや暑すぎて、空気に“包まれる”心地さえしない。家の玄関から出た瞬間、むっとした熱が体当たりしてくる感じだ。外に出なくちゃいけない時、熱風に正面衝突されると、そのまま勢いつけて玄関に寝転がりたくなる。


 こんな暑い中、外で草刈りとか営業回りとかしたらどちゃくそ大変なんだろうなと思いつつ、ジリジリと玄関から這い出るのがもはや日課となっている。でも、コンクリートも反射熱もほとんどない大自然に囲まれていたら、そこまで暑くないのかもな、とふと思う。

 ところで、僕の学校は、山奥にある。駅から歩くと1時間半から2時間はかかる。バスだと20分程度はかかる。道路も、最初から中ほどまでは大きいところを通っていても、いつの間にか、梢の影が覆いかぶさっていてる入り組んだ道へと入っていくようなところだ。

 今はもうすっかり夏休みを満喫しているけど、1週間前くらいまではまだ学校に通っていた。なぜかというと、自分の受講している授業で、夏休み中の特別授業があったからだ。

 内容は、「このビオトープを補修しながら、自然を観察しよう」というもの。僕の学校には、いろんな生物ための小さな森のようなスペースがあり、それが、生徒や教員から”ビオトープ”と呼ばれて愛されている。ビオトープには、たくさんの立派な木が生えている。その森の中には、左右が大きい円形で、その間を細い川がつないでいる、ダンベルみたいな形をした池があるのだ。

 ビオトープとは、ドイツ語で、”生物の生息空間”の意味。なので、色々な生物がこのビオトープに住んでいる。

 授業当日の朝、遅刻してしまった。前日、担当教員にやる気のこもった参加希望のメールを送ってしまっただけに情けなかった。遅れて学校に行ってみると、みんな軍手をはめ、頑張って池の掃除をしていた。梅雨明けすぐの日で、今より暑さはマシだった。

 僕も、軍手をはめ、明らかにオーバーサイズすぎた長靴をはいて、池の中からゴミを取り出していった。とはいっても、大きい枝を摘み出すのがほとんどだった。先生によると、あんまり大きい枝は、池の中だと自然に戻りにくく、地面に放っておけば土に変えるとのこと。土に還りかけの葉っぱが沈む水中から、泥で真っ黒の枝木を摘み上げていった。

 取り出していく最中、腐葉土内から自然ガスがポコポコ出てきた。それと一緒に、モリアオガエルのおたまじゃくしがわんさか浮き上がってきた。モリアオガエルのおたまじゃくしは予想外に巨大で、授業のメンバーでわーっと驚いた。

 掃除が終わったあと、お昼ご飯までかなり空き時間があったので、先生は「自然を観察しに行こう」とみんなに提案した。各々、スケッチしたり、写真を撮ったり、眺めたりして、学校内の自然を観察した。


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 緑一色の傾斜の中に、紫色の花がピンと立っていた。茎の色にあまり生命感を感じないけど、その分、紫が映えていた。右側の花をよくみると、先端に小さいカタツムリ(?)がじっとしている。

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 真っ白いキノコ。学校が立っている丘の傾斜面に、かなり生えている。サイズ感が、親子っぽさを醸し出してる。

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 ピンボケが酷い、、、。梢があたりを覆っていて日の当たらない、朽木がいっぱい横たわっているスペースに、ひっそり生えていた。同学年の女の子と座り込んで、なんかかわいいねーとか、中心だけ赤いって面白いねとか、話した。

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 ニョキニョキ生えてる、赤いやつ。明太子とか赤血球みたい。プニプニ感。朽木の灰色から、唐突に、ハッキリとした赤色を生やしている様子が面白い。

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 ツクツクボウシ。見つけた時、近くにいた男の子に「セミいるよ」と言ったら、「それ、ツクツクボウシ」と訂正されて、ちょっと恥ずかしかった。でも、はじめてちゃんとツクツクボウシの姿を見た。羽が透明で、目を奪われた。こんな透き通った色の羽から、同じくらい透明感のある音を出すんだなあと、なんでか、意味のわからない納得感を抱いた。

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 ニイニイゼミの抜け殻?この抜け殻がどのセミのものか、虫に詳しい男の子3人がしきりに語り合っていた。すこしずつ、暑さが体に染み込み始めていた頃だったので、僕はぼーっとそれをみつめながら「セミといってもいろんなのがいるんだなあ」と思った。

 こんな感じに、自然を観察しながら、この授業を受講しているみんなと話しながら、思索を深めていった。もちろん、緑に囲まれながら目一杯、新鮮な息を吸い込みながら。

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 思えば、小さい頃、僕は自然が嫌いだった。遠足とかで、わざわざ芝生に座ってお弁当食べるなんて、肌はちくちくするし虫は来るし、自然はなんて鬱陶しいんだろと思っていた。親に連れられて、自然に囲まれたカフェに行っても、どこかソワソワしてしまう。テレビのクイズ番組で、花の名前についての問題が出た時さえ「花の名前なんか知らなくても生きていけるじゃん」とか考えながら、ヤクルトをチュウチュウ飲んでた気がする。

 僕は、そんな捻くれた考えのせいか、自然を楽しもうとしても、あまり感覚が働かない体質だった。自然の前では、まるで感覚が固形になってしまったように、滞っている気がするのだ。

 大自然で息を思いきり吸い込んでも、後からやってくるのは「うん、これが自然、これが自然!」という、希薄な、思い込みの念だった。

 街の喧騒に慣れていくと、大きな音や人工物の前では平然といられるのに、自然の前ではどこか白々しくなってしまうのだ。


 でもわりと、この授業の日はちゃんと自然に向き合えたんじゃないかな、と思う。僕の目の前には、たしかに木々、水、花、土、キノコがあって、鳥、カエル、虫もいた。そしてそれを、しっかり目の前に存在していると、五感で感じられた。

 これはカメラで写真を取ったおかげでもあると思う。僕がなにか対象に向き合うとき、この目だけで見ようとするのと、カメラを構えて見るとでは、記憶の定着しやすさや、意識の注ぎ方に差があるのだ。写真を撮るときの方が、断然、記憶に残りやすくて、対象の細部も誠実に見つめられる気がする。

 そもそも、現実や自然をあんまり意識せずにぼーっと見ているから、むしろ瞬間瞬間を区切って捉えることで、おぼろな意識から抜け出すことができるんだと思う。

 僕は、そんな自分の感覚の”癖”に、最近になって気づけたので、この学校を卒業するまでにはその癖を解消したい。芝生の上に思い切り寝転がってみたり、自然をみつめてみたり、それを出来る限り細かく言語化してみたり、写真を撮ったりして、全力で自然を楽しめるようになりたい。



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