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「分からない」と言えない

学校では「答えを出すこと」が重要だった。

テストでは答えが間違っていたら0点。
授業で先生に当てられた時に答えられなかったら恥をかく。
就活で質問に対して明確な答えがなかったら不採用。

「分からない」は馬鹿を曝け出しているように思ってしまう。
話題に対して意見を求められて、特に知らなかったり、興味が沸かなくても本能的に「何か答えなきゃ」と思ってしまう。
僕らの中に「分からないはご法度である」と知らずのうちに刷り込まれている。

確かに返答への瞬発力であったり、明確な意見や答えを持つことは重要だ。
しかし世の中の全ての事柄に対して必要かと言えばそんなことはない。
「分からない」も立派な意見である。

明確な答えのリスク

・気が変わっても意見を変えにくい。
・考えることから逃げる
・自分の本当の意見が分からなくなる

気が変わっても意見を変えにくい
一度出してしまった意見は変えにくい。
タレントやインフルエンサーだけでなく、一般人もそうである。
「〇〇が嫌い!」と言ってしまったら、そのことを自分以外誰も覚えていなかったとしても「やっぱり好き!」と言うのには躊躇いが生まれる。
一度吐き出してしまった言葉は状況を前に進めることもあればブレーキにもなる。

考えることから逃げる
「分からない」という気付きが「考える」「学ぶ」のきっかけになる。
アドリブで答える能力ももちろん素晴らしいが、諸刃の剣でもある。
思考がそこで止まってしまう危険性だ。

例えば失言をしてしまうおじさん国会議員。
彼らは強い意見を持っているがゆえに今の座に居座っている。
しかし時代の流れで常識も変化していく。その変化は高速だ。
意見を導くまでの思考を怠ると、過去の常識で通用していた強い意見が今の常識で通用しないことに気づかない。
だからドヤ顔で失言をしてしまうのである。

学生の時は答えを出すことが全てだったが、社会で生きていくためには答えを出すためのプロセスも同じくらい重要なのではないかと思う。

自分の本当の意見が分からなくなる
共感は麻薬である。
それが故に相手目線を気にした答えを優先して自分を犠牲にしている。

相手に理解してもらったり、満足させるために明確の答えを出すことに専念していると自分の本当の意見が迷子になってしまう。

逆に聞く側の立場なら「意見と向き合う姿勢」が大事である。
相手の意見と真逆の意見を自分が持っていたとしても、その意見を持っている相手を理解しようとする。
なんで言っているか?を考える。

「論破」や「正論」が持て囃されているが、「論破」や「正論」なんて社会の常識のフリをしたハリボテである。
それが通用するのはSNSだけだ。

グラデーション

「分からない」には2種類ある。
「知識がない」と「意見がない(中立である)」ということ。

「知識がない」けど「興味がある」なら学べばいい。
「意見がない」ならそのスタンスを守ればいい。

意見がなくても、知識がなくても、興味がなくても、何年も先に何かのキッカケで「分からない」がアンカーになり、ブワッと思考が進むことだってあるかも知れない。

何に関しても白か?黒か?右か?左か?を明確にする必要などない。
日本に右翼か左翼しか居なかったら治安が悪過ぎる。

意見や答えは白と黒の2種類だけではない。
白と黒の間には無限の空白がある。
その空白に絶対的な個性や価値観が潜んでいる。

無限の空白の中でまだ知らないそれぞれの個性や価値観を見つけたい。


JASFACK

ってアパレルブランドやってます。普段言いにくいこととか、風刺を服にしています。よかったら覗いてみて下さい。


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