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女体になりたいわけではないけれど。

そう、性転換したいわけではないけれど、もっと言うならば女性として生まれたかったわけではないけれど、私は女性という生き物に憧れる。

いつからかしら、この心にそれが宿ったのは。もう記憶にもないけれど、これが変なものと自己嫌悪することはありません。むしろ「個性」というありがたい言葉に助けられているのかもしれません。

私の身体は間違いなく男性でありながら、女性らしくなってみたいと昔から憧れが募るばかりで、女性ならではの体つきが美しく見えて、神秘的で、その芸術的感性から逃れることができません。

きっと私がお尻に対して強い想いや執着があるのはここからきていて、性器や胸と違って男女どちらにもふっくらとした柔らかさがあるものだから、私なりに不平等さがないと感じれて好ましい部位なのです。可愛らしさ、セクシーさ、かっこよさ、どちらの身体でも魅せれる。だから私がお尻を愛すようになったのは必然な気がします。

そして見た目の話だけではなく、内面の憧れもあるわけです。女性と会話している時に「まるで女性と話しているみたい」と思ってもらえるような人になりたい。見た目が女性っぽいからではなく、心情や色香、喋り方からそう思ってもらえるような、そんな雰囲気。

かと言って自分の中にある男性的部分を消したいわけではないです。それはそれで魅力を引き立てる要素でもあるようと認めているし、両方の性があるのは楽しい。ただ心の性に波があって、男性が強い時はその反動で結構しんどくもなります。

多様性という言葉が聞き慣れる時代に生きれてることが、私が女性でいやすい理由のひとつでももちろんあるけれど、きっと私はそんな時代じゃなくても私がしたい服装で外を歩いただろうし、私はこういう人なのってことを周りに伝えていたと思う。

私は「私は女性」と思えないことの方がしんどいのです。そう、私は女性であることが前提で、男性である。私に素敵なペニスがついていようが関係ない。女体になりたいわけではないのだから。


性別とはなんだろうか、とふと考えることが多いのは私だけでしょうか。身体が違うことはもちろんわかっているけれど、性別とはなんだろうかと考えた時に同時に「心とはなんだろうか」と問うているのかもしれません。

「こんな人になりたい」の理想像を遠くで思い描いた時に、その理想像までの道に「性別」という壁があった場合、理想像は幻の生き物になってしまうのでしょうか。

例えば身体は男性、髪型も男性に見える、腕も、肩も、声も。「あなたどう見たって男だよ」と誰もがそう思おうと、自分が女性だと思って生きればちゃんと心に自分らしさが宿るし、あなたを最初にひとりの女性として魅力的に見る人はあなたになるわけです。なんてロマンチックでしょう。

じゃあ「トランスジェンダーなの?」と問われれば、いや違う。きっとそこが、本人以外が理解しずらいところ。トランスジェンダーではないけれど、心の性と体の性は一致していない。一致していないけれど、違和感があるわけでもない。

ほんと、性別ってなんでしょう。考え始めたら哲学的で止まらない。それでもずっと追求してしまう、しないと変容せずに止まってしまう。私にとっての永遠のテーマは「女体になりたいわけではないけれど、女性とはなにかしら」と自分に問い続けて、自分を美しく生きること。

時に変なふうに解釈され、変態と言われようが、自分のために変容して頑張って生きてる称号になるならそれでも構わない、と強く生きたい。

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