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「労働者であること」をあきらめる(29歳、7月29日の日記)

今日も海で背泳ぎ。
また、平泳ぎ、
バタ足。

今日はバタ足にひと工夫してみた。
斜めにバタ足するのだ。
右足と左足がバッテンになるような感じで。
そうすると、進むラインはくねくねするけれど、
ゆらゆら踊るような感触が味わえた。
ゆら、ゆら。

海の中で人知れず踊っている私。
ふふふ。

******

夕方、ふと父方の祖父のことを思ったのだ。

なんでだったかな。

職場にコロナ陽性者が出たとかで
慌てふためいた業務Lineグループの有様に
呆れていたからかもしれない。

祖父の教えをときどき思い出す。
「風邪をひいたらな、
お風呂につかって汗いっぱいかいたら、
あっというまに治っちまうからよ」

孫に対して「気合だー!! オィッ!! オィッ!! オィッ!!」と、
しばしばアニマル浜口氏のまねをする
おもしろいおじいちゃん。

なにより本人が元気でいてくれて、その姿を見せてくれたことが、
孫である私の元気になっていた。
姿を見るのが、声を聴くのが、幸せだったなあ。
会いに行く度に。


******


一番最近に会ったのは、
私が帯状発疹を患って、リゾートバイトを中断して、
まだ今の職場と出会いこの島にくる前のこと。

2年半前かな。
そのときは
失意という布団を頭からかぶって沈黙しているような
塞ぎ込んだ私だったけれど、
おじいちゃんと会うとやっぱり少し元気が出て、
食欲も湧いて、
お酒も、祖父となら飲めたのだ。

そのとき祖父は、
諸々、うちのいろんな話を聞いてくれた上で、
真面目そうに、まじまじと
うちの手を見て言ったのだ。
「労働者向きの手じゃないなぁ」


うちの手…



はっとした。

それは諦めの意を含む表現で、
かつ
うちへ励ましであった。

おじいちゃん自身は、タクシーの運転手で、
生涯無事故・無違反を誇りにしている、
労働者だ。

「気合いだ!」と孫に叫んで励ましてきたおじいちゃんの言葉が
まだ耳に残っているので、
「労働者向きの手じゃないな」なんてことばを
言われるだなんて思いもしなかった。
嬉しかった。

「たしかに、そうだ」と納得した。

いつかの、陶芸家のおじいちゃんがいってくれた
「君は大丈夫だよ」と同じように
安心させてくれた。

今だって思うけれど、私は労働には向いていない。
少なくとも他者からの使役を待つ労働は向いていない。
言われて初めて気づいたことだけれど。



これが客観というものだろうか。

強迫観念からではなく、
客観から世界を、自分を、見ることができたと感じるとき、
本当に安心するのかもしれない。

そこには納得感があり、無理がない。
微妙なリズムや舞いのようなものがあり、
引きつりがない。

これが客観というものだろうか。

あるとき、予測もしない瞬間に
他者の愛によりもたらされるもの。

受け取ることにより
世界が変わるもの。

******


向いていないことに日々を引きずられるようにして暮らすことは、
もったいない。

労働の中に誇りとやりがいを見いだしていた人の
「労働者向きの手じゃないな」というエールを
私は重く受け取めた。

「命を軽んじるなよ」といわれたも同然だ。


「気合いだ!」と叫ばれていたら、あのときの私は
受け止めきれず、再び沈黙していたかもしれない。

労働に打ちのめされたひとに「気合いだ!」ということは
要は「さあ次の職場を探そう!」ということでしょう。
それは誰もがそのように考えがちで、
うち自身も、
暗い気持ちで、
ああ、この労働の災禍からは抜け出せそうにないな、
死ぬしかないのかな、なんて考えていたと思う。

けれど、
「労働者向きの手じゃないな」という言葉は、
「歌手向きじゃない」とか、
「テニスプレーヤー向きじゃない」とかと同じ温度で、
さらりと発せられた。


つぶやくように いわれた
平穏かつ冷静なその言葉に
はっとさせられた。

「労働者向きの手じゃないな」

(命を、軽んじるなよ。もったいないことをするな。)そう言われた気がしたんだ。

******



労働者以外の生き方を、
そばが食べられないならうどんもあるぞ、というような感じで
当然のように祖父が認めているなんて、
知らなかった。

世界のことを、また少し、好きになれる出来事だったな。



うちは祖父のことを何にも知らなかった。
こんな言葉はきっと氷山の一角。

大切な人の考えること、興味関心の広がり、許しの範囲、広い心の射程の
億分の一にも届かずに
接することが出来ずに
私たちはついに別れゆく

家族というものの、友人というもの、
およそ
あらゆる温かい人間関係のもつ
寂しさも。

通奏低音のように
折に触れて
ふっと気づく。

******

祖父のおかげで
肯定的にあきらめることが出来た、
「労働者であること」

今の私は、考えようによっては労働をしていて、
日々多くの時間をそれに費やしているけれど、
既に労働者ではない。
労働者の道は、あきらめているのだから。

あきらめさせてくれた祖父に、感謝している。

その、既に外れ、あきらめた道への
未練、やり残した課題を整理し終えたとき、

うちは玄関から外へ出るように
当たり前のことととして

次の朝の中へと踏み出すことだろう。

29歳,7.29,Mizuki

絵を描くのは楽しいですが、 やる気になるのは難しいです。 書くことも。 あなたが読んで、見てくださることが 背中を押してくれています。 いつもありがとう。