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今日の話題3つ


手首に生えたキノコ

もう癒やされたけど
数日前までうちの両の手首には
キノコが生えていた。

ええ、それはかぶれのこと。

原因も分からず、
かといって
仕事で毎日のように山に入ったり、
除草剤を扱ったりしているのだから、
原因になりそうなことは
たくさんあるのだけれど。

赤く腫れた手首を見ているときに、
遠いなあ、ということと
キノコが生えてるみたいだ、ということを
同時に思った。

うちは、ちいさいころから、
かぶれに悩まされてきた。
ある日朝起きてみると、
太もものところにかぶれが見つかって、
あれ、漆になんて触ってないのに、なんで、、、
と、原因になった物事について考え始める。
拡がらないで、、、と祈るのもむなしく、次第に
全身に広がって、見るも無惨になる。
お風呂に入るのもおっくうで、気も滅入ってしまって、
かぶれがある間は朝目覚めるのが恐かった。

でも最近は、

なんだか、体が遠くなってる。
小さい頃よりも、
自分の「体」だという実感が薄くなっている。

「ああ、残念」の温度が下がってくる。

かぶれを見ても、
ただじっと見つめているだけ、というようになってきた。

「ああ、またか。」

赤く腫れた手首が、
夕食用に買ってきた
豚肉のブロックと
外見上、質感上、
あまり変わらない。

でもそのおかげで、
強烈なかゆみに悩まされることは
少なくなった。

なんだか、かゆみが、
理科実験室のフラスコの中で起きている化学反応の
底から湧き上がる泡みたいで、

その泡を眺めるみたいな気持ちで
「ああ、起こっている」と
ただ眺めてしまう。

諦観、ともいえるだろうし、
もっと平明に、慣れたともいえる。

これは喜んだらいいのか。
悲しむべきことなのか
とくに気にするべきことでもないのか。

今は、よくわからない。

キノコが生えているように思えたのは、
手首にかぶれが「生えた」容態が、
朽ち木に
きのこが生えている様と
見た目にも実感的にも
「似ているなあ」と思えたからだった。

朽ち木の実感、なるものに
共感してしまうのは、
我ながら不思議だけれど。

キノコが生えるとき、
樹は無力に見える。
受け入れているように見える。
菌たちの住処となって、
横たわっている。

そしてキノコには、
悪意があるわけではなく、
ただ生きている。
結婚したり、
子どもをつくったりして。

それを妨げる理由は、
今のところ思いつかないな。


いま、うちの腕にも
わらわらプツプツと
キノコが生えている。

特に抵抗もせず眺めている。

無論かぶれは伝染性ではないし
体の外からやってきた何かが
体内で増殖しているわけではない。
反応の過剰が連鎖的に起こっているだけ。

だけれども、
この為す術のない感じが、
どうも似ている。


あらゆる病が、実はそうなのかもしれない。
いつか、うちは、
もっと致命的な病を患うだろうけれど

そのときは、
横たわった床の中
やはり
自分の体の全身にキノコが生えて

今まさに、土に帰ろうとしているところを想像するだろうと思う。
想像してしまうだろう。

気持ちの上では、
そうやって救われることなしには
きっと済まない。

病に対しては、
治ることではなく

ジタバタしなくなることを
うちは今、
どうやら望んでいるみたいなのだ。


コロナ・コラム

そういえば、
コロナウイルスのワクチン摂取によるアナフィラキシーショックも
過剰反応の連鎖だ。
さらに大きな範囲では、コロナウイルスに対する
各政府機関の病的なまでに過剰な反応もアレルギーに似ている。

日常生活に支障を来し、
人々に職を失わせたり、国境間を移動せざるを得ない人に対する国境検閲の冷淡な扱いも、
過剰反応の連鎖に思えて。

ウイルスの毒性そのものによってではなく、
反応の過剰によって致命的となる病については、
私たちはもう既に、
自分の体で嫌というほど経験しているはずなのにね。

かぶれが腕に広がっていく様子は、
コロナウイルスに対する”反応”の蔓延と、
とてもよく似ている。

うちがかぶれの進行を止められず、
気にしないこと、によって、
あるいはキノコを連想することで好意的に捉え直すことによってしか
受け入れられないように

人間のこのようなアレルギー反応も
収まるのを待つしかないのかもしれない。
自然なこと、なのだと。

自然は時に美しく、残酷だ。
それは、人間の営みのうちにも住んでいる。

アレルギー反応的な自然が集団的に人間を襲うたびに
これが人間に定められた自然の、残酷な部分なのだと
思わざるを得ない

かぶれについて言うならば、
一回蔓延した後収束すると、皮膚が黒く硬くなるから、
それ以後しばらくは、同じ場所ではかぶれにかかりにくくなるのだ。

感染症に対しても、
同じような道筋をたどるのかもしれない。
だとしたら、どれだけ覚えていられるか、ということが
鍵になるのかもしれない。
過剰な反応がむしろ身を焦がしたという事実を
どれだけ長い期間
覚えていられるか。

第二次世界大戦中も、構造的には
コロナ禍に似た事態が起こっていたのではないかと思う。
反応が連鎖する。
取り返しのつかないところに突っ込むまで、
連鎖が止まらない。

全世界中に、戦争の痛みをまだ覚えている人がいるから、
コロナ禍はこの程度で済んでいるともいえるのかもしれない。
人間が集団的に一つの方向に向かうことは
恐ろしい。アナフィラキシーのように、
当の主体であるはずの人間を毀損する。


※これは、うちがコロナウイルスについて言及した初めての記事になりました。
何かを言うときには、その発端から少なくとも一年半かかる。
これはどうやら、うちの傾向らしいのですが、
それくらいの沈殿期間があるらしいのです。

沈殿せずに濁ったまま
タイムリーに言葉を発したい話題も、あるにはあるのですが
これに関してはそうではなかったみたいです。)



地球と、アレルギー



地球も、アレルギーを起こすのかもしれない。
うちは、かぶれの蔓延した腕の容態をみたとき、
宇宙から見た地球の夜の写真も連想した。

街の明かりがポツポツと
病的なまでに明るく毒々しく光っていたこと
を思い出す。

人の暮らしも、
地球のとっての抗原抗体反応のようなものなのだろうか。
だとしたらどのような入力に対しての出力なのだろう。

あるいは、その逆で、
人間の営みはかぶれにおける外部からの侵入者のようなもので、
アレルギー反応はこれから起こるのだろうか。

今地球規模で起きている気候変動は急激だけれど
環境が変化した分だけそれにあわせて他所も変化するというような、
入力に対して出力が一対一の、いわば順当な結果が現れていたにすぎないのかもしれない。
これまでの変化は、生ぬるかったのではないか、ということ。

1の入力にたいして、体が100反応してしまうと言うことが、
アナフィラキシーショックなのだとしたら。

もしも地球自体が生物としての機構を備えていて、
アナフィラキシーのような過剰反応を示すとしたら、
この程度の変化では済まないはずだと思う。

これまでの気温上昇と気候変化が1だとしたら
その2~3倍くらいの規模の過剰反応が突発的に現れてもおかしくないはずだし、別次元の予想もしないような大災害が起こることもありそうだ。

細胞の集まりとしての生物体の規模が大きい分、アナフィラキシーのようなバグは起こりにくいのかもしれないけれど。

(平方根の法則:生物体の集まりを構成する要素の数〔例えば、細胞の数〕が大きければ大きいほど、その〔個体の内部からの例外的なバグ〕に遭遇する確率は下がる)

緩やかな変化が連続して続くというよりは、
ある日みんなが朝目覚めてみると、、、(以下略)

というようなことが
起こるような気もしている。
うちはかぶれに覆われた左手を見ながら思うのだった。
かぶれの落ち着いた肌の上は、
かぶれの跡が固く黒くなって、焼け野原みたい。
うちはかぶれが落ち着いてほっとしているけれど。

でも、状況が落ち着いたときにほっとするよりも

苛烈な反応が起きているそのときに
気分を落ち着けていることの方が、

じぶんにとっては大事な気がしている
今日この頃なのだ。


28.6.20,Mizuki

※表題の画像はadegeによるPixabayから


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