労働と仕事と活動 / 「人間の条件」(ハンナ・アレント)をド素人が読み進める③【第1章-1】
前回
定義:〈活動的生活〉
いよいよ、第1章。
冒頭、アーレントは、これから「私たちが行っていること」を論じるにあたって、ひととおりの概念の定義をしている。
〈活動的生活〉 vita activa
アーレントは、 労働、仕事、活動の3つの基本的な人間の活動力を意味するものを〈活動的生活〉と定義している。
労働、仕事、活動の3つについては、少し長いが引用する。
たぶん間違いなく大事なので、 そのまま箇条書きで整理。
ここで気になった一点目。
なぜ、アーレントは、〈活動的生活〉をこの3つに整理したのか。これは、何らかの意味がありそうである。しかし、読み始めたばかりでは、よくわからないのでそのまま進む。そのうちわかるかもしれない(最後まで読んでも、わからないかもしれない)。
気になった二点目は、3つとも日常的に使っている言葉のイメージと少し違う印象を受けたことである。
例えば、労働は、ブラック企業で働かされているイメージがある(?)が、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力といわれるとそれより広い意味を持っている感じがする。
生きるためには、働かなければならないというイメージと予想。
仕事は、人間存在の非自然性に対応する活動力とあるが、農家さんとかはここでいう仕事とは違うのかな。人間的条件が、世界性というのもわかるようなわからんような。。
とりあえず、職人が作品を作るイメージではないかと予想。
活動は、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力とあり、一人では成立しないというのが前提のようである。
これは、人と人とのコミュニケーションとかだろうと予想。
この3つは、いずれも普段のイメージと定義の内容がちょっと違うから注意したほうが良さそうである。
普段のイメージだと労働と仕事と活動はかぶることがありそうだが、上記の定義を踏まえて、明確に棲み分けをしているものと伺えるので、この点を押さえて読み進めていこうと思う。
世界のリアリティと人間の存在
アーレントは、「世界の客観性と人間の条件は相互に補完しあっている」という。
これは、どういう意味か。
人間は出生し、死亡する。
とりわけ出生の際、世界には新来者が生まれ、絶えず流入する。
労働や仕事や活動は、それらの新来者が新たに生まれてくることを考慮に入れて、この世界をどうしていったらいいかという課題を持って、営まれる。
つまり、世界が人間の条件に影響を与え、人間の条件によって営まれる〈活動的生活〉によって、世界は生み出されているということになる。
出生がある意味で、〈活動的生活〉に影響を与える世界の一番わかりやすいイベントであるが、なにも出生の場面だけではない。
アーレントは、人間が接触するすべての物がただちに人間存在の条件に変わるという。
このすべての物が世界の客観性ではないかと思う。
ことほどさように、人間存在は条件づけられた存在であるから、それは物なしでは存在不可能ということになる。もし、ものが人間存在を条件づけるものでないとしたら、物はただのがらくたになる。アーレントは、それでは、非世界(ノンワールド)になってしまうという。
ということで、世界の客観性と人間の条件は密接な関係にある。相互に補完し合っているというというのはこういう意味だと思うことにする。
なお、仕事の人間的条件が世界性というのもこの辺に関係するかもしれない。
本書の射程 その2
本書は、序盤で、何を論じ、何を論じないかを説明してくれているので親切だと思う。
ここでは、本書は「人間の条件」を論じるのであって、「人間の本性」を論じるものではないと釘を刺している。
つまり、本書は、「人間とは何か」「我々とは何か」を論じるわけではありません、といっている。
アーレントからすると、自分で自分のことを定義するのは無理でしょという感じである。まあそうかもしれない。
本書が語る人間存在の諸条件(生命それ自体、出生と死、世界性、多数性、地球)は、「我々は何者か」を説明するものではない。
プロローグにあるとおり、地球に縛り付けられていた人間はようやく地球を脱出した。
このことは、もはや上記の条件は、「人間の本性」を絶対的に形作るものではなくなったとも言えるかもしれない。
ということで、足固めが続きます。
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