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私はもともと、書くことが嫌いだと思っていた【後編】


(前回の続き)



死んでしまったのではないかと思いました。


「え・・・?」
俵万智風の先生が一瞬絶句し、こう続ける。周りの生徒もちょっとざわついている。


「どうしてそう思ったの?」

わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦わら帽子被りて眠る

寺山修司

「『駆け去る』『被りて』『眠る』、、、麦わら帽子を被っているというのは、もしかしたらこの人は死んでしまっているのではないかと思いました。」


言ってしまった。心臓がバクバクする。


俵万智風の先生が、黒板に書いてあった

わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦わら帽子被りて眠る

寺山修司

の『駆け去る』『被りて』『眠る』にそれぞれ黄色のチョークで線を引く。


「びっくりしました。すごいと思いました。こんな感想が出るとは…」


その授業のおわりに、先生は、もう一度「皆さん今日はいろいろな感想がありましたね。特にlion(仮名)くんの感想は、ほんとうに驚きました」と述べた。


まだ、心臓がドキドキしていた。

この解釈があっているのか、間違っているのかはわからない。いや、いきなり「死んでいる」という感想は、たぶん間違っている可能性のほうが高い。


ただ、もしかしたら「ことば」には流れを変える力があるのかも知れない。そんなことを漠然と思った。


川の流れに、一本だけ竿をさす。そこだけ流れが一瞬変わる。
でも、竿はすぐには倒れなかった。少なくとも授業が終わるまでは倒れなかった。





その後、国語の先生は、私の感想や文章を「ひと味違う」と肯定してくれるようになった。

正直、それでも中3で読書をするようになったり、文章を書くのがスキになったわけでは全くない。
今までどおりのゆとり思考だ。

ただ、「ことば」が流れを変える瞬間というものが気になるようになった。

みなが同じ方向に当たり前のように流れているとき、「ことば」であれば流れが変わるのかも知れない。

「ことば」で流れを変えた方が良いとき、流れを変えるべきときはあるのかもしれない。

みなの流れがもしかしたら違うのかもしれないことを、「ことば」だったら、気づいてもらうことができるのかも知れない。


そんなみなと同じ流れに漫然と乗るのではなく、かといって対決や妨害をするのでもない。そんな「ことば」が流れを変える瞬間。

この変化が生まれる瞬間というものが、少しずつ気になるようになってきた。



中3の卒業文集。


クラス全員が原稿用紙一枚分書く。


やはり、なかなか書き出せない。みなが、書き終えて早々に帰宅する中、自分はなかなか書き出せない。

でも、修学旅行の思い出とか体育祭の思い出とか、そういうのは、絶対に書きたくない。

そういうのが一番嫌だ。何にもはまれないゆとり世代には難問なのだから。


そうして書いたタイトルが、


「登下校の話」


だった。

確かこんな感じ。
登下校は、3年間毎日同じ道を歩いた。春は桜の花が咲き、夏は汗だくで虫がうるさくて、秋は涼しくて、冬は手がかじかんで死んでいた。同じ道なのに、いつも違うところを見つけた。同じ道を歩いていたのにうれしい時も辛いときもあった。同じことのくりかえしだけど、大事な時間だったかもしれないなあと思った的なことを書いた(うろ覚えだが最後は「なあと思った」で終わらせた気がする)


書き終わるのを待ってくれていた俵万智風の先生に渡す。

30秒くらいで読んでから

「うん!やっぱりlion(仮名)くんはひと味違うね!」。


「ことば」が流れを変える瞬間。

倒れにくい竿の差し方がほんの少しだけ分かってきたような気がするよ。



時は流れて、大学生。

学部は法学部だった。
文系の大学生は、ときに長い文章を書く必要に迫られる。

論述は論理だ。流れを変えてはいけない。竿をさすなんてとんでもない。
論理的な文章は、どうやって書いたらいいのか、まるで分からなかった。

やっぱり、文章は苦手なのかも。

ここで出会った本が、野矢茂樹先生の名著。

この本は、普段書いている文章が、普通のことばなのに、いかに間違って使われてしまっているのかを教えてくれる。これをマスターできたとしたら、きっとわかりやすくて、論理的な文章が書けるんじゃないかと思う。


いかにスラスラと最後まで読んでもらうのか。

論理的な文章は、竿をさすのではなく、むしろ、いかにスラスラと流すのか。

そんなこと考えたこともなかった。



ほんとうに論理的な文章は、川の流れそのものを作っている。


スラスラと流れる文は、普通のことが書いてあっても気持ちがよい。

ほんとうに論理的な文章は、読んでいる人が、実は流れが書き手によってつくられていることにすら気がつかない、そんな文章が、とても美しくそして面白いのではないか。
そんなことを感じさせてくれた。


そして、以前もご紹介したが、私が読んだ本の中で一番好きな「あとがき」は、この野矢先生の「大人のための国語ゼミ」の「おわりに」である。

難しいことばやテクニックを使ったりせず、普通の文で、普通のことが書いてある。なのに、感動することがあるのだ。

「ことば」は川の流れを変える竿になることがある。
それだけでなく、「ことば」がいつのまにか川の流れそのものをつくることすらある。




そして、現在。


私は、書くことが本業ではない。
読書も、小中学生の時よりは、多少読んでるけど、読書家ってほどでもない。もっと本を読んでいる人はごまんといる。


でも、ちょっとは、竿をさしたい。

しかし、読書感想文を書いたとき、自分が読解を間違っていたら、やっぱり嫌かも。

そんな読むことと書くことに対する不安に応えてくれた本が、ピエール・バイヤールの「読んでいない本について堂々と語る方法」だった。

この本は、いろんな解釈がありうる。

しかし、私は、この本は、ちゃんと本を読めてなくても、もし誤読していたとしても、そんなに不安にならずに堂々と感想を言っていい、むしろそのほうがいい、という本を通したコミュニケーションの可能性を感じさせてくれるすごく良い本だと思っている。


だって、読んでいない本を堂々と語ったとしても、それはその本の書物創造の終わりのないプロセスの一部なのだから。

この本の書評を見たけど、そういう観点での書評や感想はあまり見当たらなかった。

それで、ちょっと気合いを入れて読書感想文を書いてみようと思った。

本を読んでいる人にも読んでいない人にも、本を通したコミュニケーションはできる。だから、間違っているかもしれなくても堂々と語っていい。

そして、誰にも創造の世界は開かれている




私はもともと、書くことが嫌いだと思っていた。

でも、そうではなかった。

間違っているかもしれないことがちょっと怖かっただけだったのだ



最後になぜ、連続投稿を続けているのかに触れてみたい。


毎日投稿を続けるのはハードルが高い。自分も別に最初はそこまでするつもりはなかった。


では、なぜ連続投稿を続けているのだろうか。


数年前から「迷ったときに自分で自分に語りかける言葉」というものを決めるようにしていた。
迷うことやうまくいかないことはたくさんある。
そんな時に自分で自分に語りかけ、奮い立たせる言葉を決めていた。

ちなみに
2022は「次の一手はどうするの」
2023は「歩みをとめるな!」
だった。

このことは自分で自分の中だけで取り決めていたので、誰かに言ったり何かに書いたりすることはしていなかった。

あらかじめ自分で自分に語り掛ける言葉を決めて、自分を励ます感じである。



あるときふと、そのことをnoteに書いて投稿してみた。


今まで自分の頭の中だけで自分だけに語っていたことを、頭の外に出してみた。


そうすると不思議なことが起こった。


頭の中だけで繰り返していたことを、頭の中から出して、文字化し、ウェブ上に展開してみるとその「ことば」は今までと全く違うものに見えてきた。


そして、なんかいろんなインスピレーションが湧いてきた。


そこからは数珠つなぎ。


連続投稿が続いている。


これが、50日前のこと。


このnoteは、連続投稿の50日目になる。


うれしい^^


私は、毎日、この「ことば」のことを考えていた。
そうしたら、いつのまにか50日連続で投稿になっていた。


50日前のこのnoteから毎日、この「ことば」を使って文章を締めてきた。


ただ、50日中49日目だけ、つまり、昨日のnoteだけ、この「ことば」で文章を締めることができなかった


迷ったとき、悩んだときに、50日間自分で自分に語り掛けてきたこの「ことば」


最後は、誰かの心の流れが励まされることを願い、この「ことば」で、川の流れに竿をさしてみよう。





今日一日を最高の一日に










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