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「贈与経済2.0 お金を稼がなくても生きていける世界で暮らす」①(荒谷大輔著、翔泳社)

最初に、感想をいうと非常にきわどい本だなと思いました。

本書は、資本主義経済の限界を指摘する(第1章)とともに、資本主義経済以外の試みがなかなかうまくいかないことを説明し(第2章)、資本主義経済の前の贈与経済の問題点を指摘する(第3章)とともに、贈与経済の問題点を回避する道筋を示し(第4章)、現在実践している内容(第5章)と今後の展望(第6章)を紹介する本です。


第1章、第2章は、ロックとルソーを対比して、右/左に位置付け、近代以降の社会構造を説明できるというかなり大胆な提案です。

これは、前著「資本主義に出口はあるか」に詳しく書いてあります。

かなり思い切っていますが、近代以降の大きな物語の説明としては、一つの整理としてあると思いますし、わかりやすいと思います。

ちなみに、今参加している読書会で、上記のような近代以降に資本主義が発展してきたという歴史の見方そのものがちゃんちゃらおかしいという700頁近くの壮大なちゃぶ台返し本(笑)を少しずつ読んでいますが、こちらは読み終わったら、感想を書きたいなあと思います。


従来の贈与経済の問題点


ということで、今日は贈与経済2.0について。

第3章で資本主義経済の前の、「前近代の」贈与経済の問題点が書いてあって、ここは是非押さえておきたいなあと思っています。

贈与経済は、人々が互いに贈与し合うことで物やサービスが循環していく経済、贈与を媒介にして社会全体で富の再配分が行われる社会です。

その後、近代化により、資本主義経済が高度化していって、現在は資本主義の問題点や限界も発生してきているというのがよくある見方です(さっきの「万物の黎明」の話は右においておきます)。

でも、「近代化」前は、人々が互いに助け合いながら生きていた、だから昔はよかっただと、ちょっと問題点が見えないからもう少し進みます。


贈与経済には、贈与経済のメカニズムがあったと言います。

贈与を受けると、受贈者は「それを返さなければならない」という負債感を負います。

マオリ族では、もらったものに霊が宿していた、もらったものに対して何らかの形で返礼の義務を果たさないとものにとりついた霊を取り除くことはできないと考えていたようです。

そうすると、贈与の連鎖が生まれる。自分が何かを他者におっているという負債感が贈与の連鎖を生むことになります。

さらに、著者は、贈与の連鎖は、ヒエラルキーを生むという問題点を指摘します。

カチン族という民族では、一族の女性を別の一族に提供し、それが連鎖するという風習があったそうです(われわれの感覚だと女性を物のように扱うのはいかがなものかとも思いますが、そのことはとりあえずおいておきます)。
その送り出しの際、地域の方々を対象とした宴会を開く。

A家がB家に提供して宴会をやって、そのあとB家がC家に提供して宴会をやって、、、、F家がA家に提供し、お互い様ですね、となる。

しかし、たまたまA家で、すごい豊作があって、神様からの授かりものだからと大々的な宴会を開いたとする。他の家は、次の宴会で負債を返しきれない。

そうすると、A家は豪華な宴会をしてくれたということで、A家に権威が生まれるといいます。

そうするとどんどん差は広がっていって、A家は別格、A家は神の家!とA家を神格化していくようになる。

さらに、他の家はA家から与えられるものは、天の恵みだ!と考えるようになる。A家を崇め奉るようになる。

やがて、A家に対して、年貢を納めたり、労務を提供したりして、、、返済しきれない分は子どもの代に引き継がれます。

こうして十分な返礼ができない人々に隷属関係が生まれ、強固なヒエラルキー社会が発生するというようなことが起こる。

そして、贈与経済は、お互い様の世界だから、この「つながり」からは逃れることができない。

隷属する側はなかなかに辛い立場です。

本書は第3章で、このような「前近代的」な贈与経済システムの問題点について説明しています。
長くなってしまいましたが、この贈与経済、つながりの経済の問題点は是非押さえておきたいなあと思いました。


贈与経済2.0


そのうえで、この問題点を解消する形での贈与経済2.0を志向するのが本書です。
(資本主義経済の限界・問題点については、いろいろあると思いますが、本書第1章、第2章をご参照ください)。

本書は、贈与が発生する前のゼロ地点の段階に着目し、最初に発生する「負債感」を回避する提案をしていると思います。

第4章で、著者は、食堂のおやっさんのAさんと苦学生のBさんの例を挙げます。


Bさんが苦学生の時代に、Aさんは無償で食事を提供した。Aさんは見返りを求めているわけでもない、Bさんは感謝しつつありがたくいただく。やがて、二人のつながりがうまれ、Bさんは、就職。
BさんはAさんを「東京の父」だと言うようになり、周りでも共有される物語になる。
Bさんは、Aさんへの感謝の気持ちは持っているが、Bさんは成功してやがて忙しくなり、なかなか顔を出せなくなる。
Aさんは、だんだんそれを「忘恩」ととらえるようになる。「いまのBがあるのは俺のおかげなのに」。
Bさんは申し訳ないと思いつつも、Aさんの非難が強くなるとよくわからなくなる。「さすがにそこまで言われるほどの贈与だったのか…」
そしてBさんは、こう思う。「たまたま受けた贈与がこんな従属関係を生むのであれば、最初から贈与を受けなければよかった…」
Bさんは、「恩返し」と称し、Aさんにいくばくかのお金を渡してこれまでの関係を清算しようとする。
Aさんは、こう思う。「別にお金をもらいたいわけではなかったのに…」

こんな悲劇を回避するための、贈与経済2.0。

それは、いかなる提案か?


著者は、贈与が起こる前の地点(最初の食事提供の前)に立ち返り、この時点での以下の行動を提案します。

つまり、この贈与を記録する。BさんはAさんから贈与を受けたときの「ありがとう」の記録をする

それをブロックチェーンに記録する。AさんとBさんとの間で贈与の履歴がタイムスタンプとして記録される。

これにより何が起こるか。

著者は、贈与の記録をブロックチェーンによって記録し、「モヤモヤ」を社会的関係として生み出すことで、「意味」を求める圧力が低下するといいます。ブロックチェーン上に刻むことで、一つの物語に縛られなくなる。出来事としての贈与は、複数の物語を生み出す力として機能し続ける。

記録化によって贈与を社会的関係にすることで、BさんがAさんから受けた贈与は無意味にもならず、かといって、Bさんが負債感に過剰に縛られることもなくなるという解決策を著者は提案します。

いかがでしょう?


贈与経済の問題点の回避可能性がある非常に面白い提案だと思います。

ただ、私の感想は冒頭で述べたとおり、この作戦は「非常にきわどい」のでは?
(私がいうのもおこがましいですが…本noteは堂々と語るコンセプトということで…)

ちなみに、贈与と交換について、2年くらい前にもかいてました。


長くなってしまったので、続きは後日(明日まとまるのか?)


一つだけいうと、贈与によるつながりと資本による清算、この二つを行き来しながら、私たちはどんなふるまいをしたらいいのだろうか、そんなことを考えると何気ない「贈与」と「交換」の意味が変わって見えてくるのかもしれない、そんな感じです。

ということで、「今日一日を最高の一日に

次②











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