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私はもともと、書くことが嫌いだと思っていた【前編】

FIREサラリーマン みかんさんの記事を見て、こんな企画があると知りました!みかんさんの記事いつも勉強になっています。ありがとうございます。


藤原華さんという方の「なぜ、私は書くのか」という企画です。

「なぜ、私は書くのか」と考えたら、いろいろ思うところがあって、書いてみたくなりました。そしたら、思いのほか、長くなってしまいました(^_^;

おそらく今までで一番情緒的でとりとめがない投稿かも知れませんが、前編と後編に分けようと思います。





私はもともと、書くことが嫌いだと思っていた


子どもの頃から、読書感想文が苦手だった。

というか、嫌悪していた。


小学生のとき国語は、得意でも苦手でもなかったが、好き好んで文章を書くことはまずなかった。

そもそも「読書をする」「本を読む」というのが苦手だった。

「小学生のときに読んだ本は?」と聞かれて答えられる本はほとんどない。いや、たぶん読んでない。

「本を最初から最後まで読む」というのがどうにも難しくてできなかった。最初から最後まで読める人がすごいと思った。


なんどか、人から勧められた本があって、読んでみようとしたがダメだった。途中で違うことを始めて、そのまま飽きてやめてしまう。


推理小説では早く犯人が知りたかった。背表紙の登場人物の名前を確認したら、まず犯人が書いてあるページを探した。

だいたい推理小説の85%くらいの頁のところを見ると効率的に誰が犯人かが分かる。犯人が分かったらトリックが書いてあるところを探す。それから遡って事件が起こっているところを探す。読むのではなく探す。ほしい情報が得られたら、それ以外の部分はもう読まない。

映画を早送りで見る人たちのような最低の読み方だ。そもそも早送りではなく、すっ飛ばしている。

マンガも、文章の本よりは読んだが、マンガも通して最後まで読むのがやはり苦手だった。他の同級生と比べてもマンガを好んで読んでいたわけでは決してないと思う。


そんなわけで、小中学校のときに、読書感想文を書いたことは一度もない。


ゆえに、夏休みの宿題は、読書感想文だけは全力で避けるようにしていた。

確か、夏休みの宿題は、30個くらい選ぶ一覧表があってその中から2つを選ぶ形式だった。まずは、読書感想文は除外し、それから原稿用紙の枚数ができる限り少ない宿題を選択する。2~4枚であれば理想だ。2枚目に数文字書いて終われば、実質書く分量は1枚だ。


この点、読書感想文はまず、あたりまえだが本を読まなければならない。そして、さらに作文をしなければならない。二重の苦役だ。どうして、そのような苦役を自ら選択する必要があろうか。

ファスト教養の権化のような最低の発想である。


国語だったら漢字ドリルみたいなすぐ答え合わせのできる宿題をやるほうがずっと楽だった。だったら、漢字ドリルを2冊やらせてもらってもいい。まあ、どっちにしろ宿題はやりたくないけど。


そんなわけで、読むのも書くのも嫌いなゆとり世代。何をやるにもハマらない学力低下の申し子。「本」には一生縁がないだろう。そんなふうに思っていた。

そんな態度は、小学校の卒業式で「中学校ではやりがいのある生活がしたいです」などと発表するくらいのものであった。

そんな私がなぜか今は毎日noteを更新し、3日に1冊のペースで読書感想文を書いている



なんでそうなった?



少し恥ずかしいけど、その問いを紐解いてみる。



さきほど、小学校の卒業式で、「中学校ではやりがいのある生活がしたいです」という発表をしたと書いた。

これは、そもそもどういう状況か。

小学校の卒業式で、一人一人が卒業証書を取りに行く場面があった。卒業生が校長先生のところまで歩いて行く。校長先生のところまで歩いていくその場面で、その卒業生が予め吹き込んで録音した「中学生になったらやりたいこと」が再生されるというのが、当校の卒業式の設えになっていた。

今思えばなかなかの羞恥プレイである。


ということで、卒業式の数日前に「中学生になったらやりたいこと」を録音することになる。卒業予定者は、あらかじめ発表する内容を考えておき、名前の順番に「中学生になったらやりたいこと」を吹き込む。

だいたい、卒業予定者たちは「サッカー部に入りたい」「バスケ部に入りたい」「勉強をがんばりたい」「習い事の○○をがんばりたい」というようなことを吹き込む。


私は、非常に困った。こういうのが一番嫌だ。何にもはまれないゆとり世代には難問だ。


さて、どうするか。


そこで、咄嗟にこう考えた。


別に、具体的なことは言わなくてもいい。


それで、「中学生になったらやりたいこと」は、「やりがいのある生活がしたいです」になった。



卒業式。私が、校長先生のところに卒業証書を取りに行く番。音声が再生。


「中学校ではやりがいのある生活がしたいです」


ちょっとざわつく。え、ざわざわ。「なに、小学校はやりがいがなかったんかい笑」的な空気が一瞬出る。


ざわつきは、すぐ次の子の番で正常に戻る。


その後、何事もなかったかのように卒業式は終わる。別に馬鹿ウケしたわけでも、「やりがい」に触れられることもない。



でも、何かざわついた。このざわつきは何だったのだろう。



みなの流れと一瞬だけ違う瞬間。


川の流れに、一本だけ竿をさす。そこだけ流れが一瞬変わるが、竿は倒れてすぐ元の川の流れに戻る。




中学校。

この卒業式の経験があったから、読み書きがスキになってできるようになった!わけではない。

相変わらず、本は読まず、作文も嫌い。


中学校2年生のときだったと思うが、宿泊学習の感想を書くという内容で、5・6時間目の授業があった。○○文字以上で書き、書き終わったら早く帰っていいという企画であった。
帰れま10方式の地獄のような企画である。

こういうのが一番嫌だ。私は、6時間目が終わっても一文字も書けなかった。


「君は考えすぎなんじゃないかな。」当時の先生からはそう言われ、だんだん申し訳なくなってきた。

最終的に何かを書いた気がするが、何を書いたのか覚えていない。


一人で最後まで残っていたことだけを覚えている。


そのくらい書くのが嫌だった。そう思っていた。



中学校3年生。

このときの担任は女性の国語の先生だった。

当時の国語の教科書に俵万智の写真が掲載されていて、雰囲気が似ていた。ショートカットで、ざっくばらんな親しみやすい感じだったが、感受性が豊かな先生だった。
歌人タイプの分類がもしあるとしたら、俵万智タイプに分類して問題ないだろう。

そんな中、俵万智先生の授業で、短歌の授業があった。

国語の教科書に七首ぐらい短歌が載っている。
このなかから一首選択して感想を事前に用意し、授業の時に感想を順番に発表するという内容だった。


ここまで付き合って読んでいただいた人なら分かると思うが、こういうのが一番嫌だ。何にもはまれないゆとり世代には難問だ。



そう思っていた。


七首の中にはこの一首があった。

わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦わら帽子被りて眠る

寺山修司


授業の前日の夜。
感想を考える。
感想は「夏の思い出が感じられる」にしよう。
どこから感じましたかと聞かれたら、「『麦わら帽子』のところだと思います」としよう。
無難だ。

そんな感じで、翌日の授業は乗り切ろうと考えた。


翌日。授業が始まる。


席次順で感想を述べていく。発表順を待つなかで、ふと思った。


あれ?


この短歌ってもしかして・・・?いや、違うかも知れない。間違ってたら嫌だし。いや、でも、もしかしたら・・・。どうしよう、感想変えようかな・・・。


どうしよう・・・



私の発表順が回ってくる。


どう答えるかまとまらないまま、私は咄嗟にこう答えた。


(つづく)


【後編】



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