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「勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版」(千葉雅也著)

また、中毒性のあるヤバい本を読んでしまった気がする。。。

本書は、「勉強」について論じていますが、学校で試験のために丸暗記するような「勉強」とは違うことを語っています。

丸暗記するのが勉強ではないと言うのはありがちな話ですが、では何なのか、なんで勉強をしなければいけないのかと聞かれると明確に答えることはなかなか難しいところです。

それについての論述というのが本書のカテゴリーだと思います。
しかし、本書には、なんとも一筋縄ではいかないような書きぶり、印象があります。

本書では、最後のほうに「結論」という形で全体を要約しているところがあって、これはとても親切です。

しかし、独特な言い回しと展開は、読み手の脳のカロリーを必要以上に消費させます(笑)。

本書ではたぶんこんなことが書いてある

本書は、勉強について、今までの環境で当たり前に考えられていた保守的な状態から、自己破壊して新たな可能性へ進むことと捉えていると思います。

これを著者は、「環境のノリから自由になること」と言っています。

一つには今までの見方の根拠を疑うこと、もう一つは別の見方をすることで、保守的な状態から脱することができますが、それは、周囲からすれば、空気を読んでいない感じになります。
勉強はそういうことから自由になると言っているのではないかと思います。


まず、そもそもの根拠を疑い、真なる根拠を突き詰めることは、懐疑によって理解を深めることともいえます。しかし、いいことばかりでもない。
というのも、絶対的に究極の真理に到達することはある意味実現不可能で、究極の根拠に達するためには、また懐疑することを繰り返すことになるからです。
これを延々突き詰めると、最終的には、言語で説明ができず、言語自体を放棄することにすらつながると著者は言います。

もう一つ、根拠を疑うのではなく、別の見方をするようにすると、違った見方からの見解を手に入れ、理解を深めることができます。
しかし、多様な見方を延々と取り入れようとすると、今度は無限に多様な見方が増えていってしまいます。
そうすると、究極的には何でもかんでも多様な見方で説明可能になってしまうため、最終的に言語の意味がなくなりかねないと著者はいいます。

もっとも、実際はそこまで多様に広がっていくかというとそうではなく、私たち一人ひとりの見方は、ある一定の見方で固定化すると著者はいいます。
これは、その人の個性、特異性、こだわりと言い換えることができるかもしれません。

以上のように、勉強は、根拠を追求したり、多様な見方を取り入れて、既存の考えを打ち破ることができますが、究極まで行くには限界があるということになります。

前者の根拠の追求は、突き詰めると最終的に何かを絶対的に信じ込んだ決断主義に陥るおそれがあります。これはある意味危険で、回避すべきなので、究極の根拠の追求はほどほどにすべきと思われます。

一方で、後者の多様な見方の追求は、相対的に比較を続ける事になりますが、こちらも延々とは続かないので、どこかで比較を中断することになります。
それは、さきの自身の個性、特異性、こだわりによって、比較が中断されるともいえます。このこだわりは、その人の生き方につながるはずですが、勉強して、自分の興味関心の背景を反省し意味を捉え直すことで、ある程度変化していくとも著者は言います。
この比較を中断しているとき、われわれは「自分なり」の根源にある「意味なくこだわっているもの」まで深く達することができます。

つまり、勉強によって相対化して比較をし、あるところで比較を中断することで、自分の興味関心の根源に気づくことができるといえます。

このとき、絶対的に追求し、相対的に比較することを経たその先に進んだ、自分のこだわりに達することになります。
このこだわりは、自分が勉強してなお無意識に楽しめるこだわりともいえるかもしれません。
無意識に楽しめるこだわりは、その人だけにしかできない行為に結びつきます(勝手に行為が起こってしまう)。

以上をまとめます。
勉強によって、別の可能性を考えることは「賢く」なることにつながります。
このとき、保守的な状態から脱するきっかけを得ますが、周囲からは、「ノリの悪い語り」と見られるおそれがあります。

勉強には、そのような側面があることは避けられないと著者は言います。
そのうえで、その先があると著者はいいます。

すなわち、「賢さ」を求め、ある段階で比較を中断すると、変化した自分のこだわりでもって、自分だけの人生のコンセプトに基づいた行為に至ることができる(意識せず行為に至ってしまう)。

これを、著者は、当初の「バカ」から「賢い」段階を超えた「来たるべきバカ」と定義し、勉強の楽しさになると結んでいるのが本書の主な内容と言えるのではないかと思います。

本書そのものの仕掛け(?)

本書に書いてあることが、勉強が単に丸暗記とかを頑張る話を超えていることは間違いないと思いますが、それにしても難しい使い慣れない用語(コード、アイロニー、ユーモア、非意味的切断、言語それ自体、器官なき言語など)がちょくちょく出てきます

文そのものはそこまで読みにくくはないですが、一読して意味を読み取るには、最初はなかなか慣れない違和感がありました。

このあたりは、後半の付記で種明かし的に紹介されます。
すなわち、本書は、ドゥルーズ&ガタリの哲学、ラカン派の精神分析学を背景として、後期ウィットゲンシュタインやドナルド・デイヴィドソンの言語論などをも参照し、構造的に描き出したとのことです(外にもいろいろ学問的背景があるようです)。

私にはなんのこっちゃというのが正直なところですが(勉強不足)、ここに享楽的なこだわりに結びつく勉強に向けられた仕掛けがあるのだろうと推測します。

著者は、言語の不透明性について、このように述べます。

 勉強をするさなかでは、言葉への違和感が、可能性の空間としての言語のヴァーチャル・リアリティを開くのです。
 慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」へと移ろうとする狭間における言語的な違和感を見つめる。そしてその違和感を、「言語をそれ自体として操作する意識」へと発展させる必要がある。
(中略)
 バラバラの言葉のブロックが、自由に組み換えられて多様な文を形成する、しかし決定的な完成品になることはなく、組み換えの遊びが続く……そういう遊びの状態になるのです。自分自身が、そういう言葉遊びの状況そのものになるのです。
 自分を言語的にバラす。そうして、多様な可能性が次々に構築されてはまたバラされ、また構築されるというプロセスに入る。それが勉強における自己破壊である。
千葉雅也.勉強の哲学来たるべきバカのために増補版(文春文庫)


本書そのものが、ドゥルーズや精神分析、分析哲学とはなんぞやという勉強への足がかりになっている。

勉強の定義そのものにつながる勉強を本書そのもので実践することで、読者が享楽的こだわりへ誘われるようになっているということが、本書の仕掛けなのかもしれません。

この構造そのものに何か意味がありそうな感じは、ハマりそうな沼感があります。
もう一度、読み返して深読みしたくなるような中毒性がある本です。



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