「花見」をするのは日本だけ? 桜を五感で楽しむ江戸っ子の粋
桜がつぼみをつけたと思っていたら、先週末の陽気で一気に満開になりましたね…🌸
毎年のことですが、桜の生命力には驚かされます…😊
待ちに待った春の到来…🌸
春の陽気に誘われて、街中の桜も一気に開花をはじめましたね。
4月1日から末日までは「さくら詣」の期間。
桜舞う新年度のこの時期に特別な御朱印や、桜色のお神札などを用意して、皆さまのご参拝をお待ちしております…😊
「さくら詣」は近隣のお社でも行っておりますので、この機会に是非併せてご参拝ください。
意外と知らない「お花見」の起源
今年もまだ大勢で集まるというのは厳しい情勢ですが、例年この季節になると、桜の木の下で気の知れた仲間たちと集い、御馳走を広げて宴をする「お花見」を楽しむ姿が見られます。
この「お花見」ですが、実は日本特有の文化なのだそうです。
ご存知でしたか…👀?
「お花見」は日本独特の文化だった…?
そもそも「お花見」を構成するのは
群れて咲く「桜」
酒や食べ物などの「御馳走」
訪れる「たくさんの人たち」
の3つです。
そしてこの3つが同時に存在するのは、世界的に見るとすごく珍しいことなのだそうです。
基本的に海外では、花は歩きながら鑑賞することが多く、そこに飲食は伴わないそう。
飲食が伴う場合でも、日本のように一か所に何百人ないし何千人もの人出があり、桜の木の下で大勢がごちそうを広げて酒盛りをするような光景は見られないとのこと。
海外から日本に来る多くの方々は、日本のお花見をはじめて目にすると、カルチャーショックを受けるのだそうですよ…!
こうした日本特有の花見文化は一体、どのように発達していったのでしょうか。
平安時代から記録に残る「お花見」!
花見の歴史は古く、最古の記録は『日本後記』に記されている嵯峨天皇(平安時代前期)のお花見の様子です。
この後、鎌倉、室町と時代が移り、世の主役が貴族から武士に変わっても花見の文化は続いていきます。
ただし、この頃の花見は権力者たちだけのもの。
花見が一般庶民にまで広がったのは、江戸時代になってからでした。
そして現在の東京の花見に大きな影響を与えたのが、幕府中興の英主とされる8代将軍の徳川吉宗公です!
江戸っ子が愛した娯楽としての「花見」
吉宗公は、享保元年(1716年)に行った「享保の改革」の一環として、江戸郊外の飛鳥山(王子)に1200本あまりの桜を植え、庶民向けの花見公園を開発しました。
開放時には将軍自ら宴席を設け、桜の名所としてアピールを行ったといいます。
それまでの江戸では、群桜を楽しめる場所といえば上野の山ぐらいでしたが、上野は、山内にある寛永寺が歴代将軍の菩提寺であり、庶民がにぎやかに花見を楽しむには堅苦しい場所であったといいます。
吉宗の享保の改革は幕府財政の回復のために倹約をむねとし、庶民に重税やきびしい倹約令を課す一方で、庶民には「花見」というガス抜きの場を提供したのです。
吉宗公は「庶民から意見を聞く姿勢」も積極的に見せていました。
政治に対する庶民からの意見を集める「目安箱」を設置し、投函された意見はすべて吉宗公が目を通していたということです。
吉宗は飛鳥山以外にも向島や御殿山など、江戸の郊外に元々あった桜の名所を整備しています…🌸
花見定番スイーツだった「桜もち」
桜の季節が来ると食べたくなるのが桜もち。
桜もちは、花見をしながら楽しむ「花見定番スイーツ」でした。
桜もちには、道明寺粉で作ったつぶつぶした触感のお餅で餡をくるみ、桜の葉を巻いた関西風の「道明寺」と、小麦粉などの薄く焼いた皮で餡を巻き、桜の葉を巻いたクレープ状の関東風「長命寺」と、大きく分けてふたつの種類があります。
長命寺桜もちは、この享保の頃に誕生したとされています。
桜の名所であった向島で、桜の葉を塩漬けにしたもので桜もちを考案し、売り始めたところ花見客に喜ばれたのがはじまりだとか。
桜を目で見て味でも楽しんで…。
江戸っ子は季節を楽しむ天才ですね😊
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