常識という枷。
世の中には、どの世界、どのコミュニティにおいても「常識」というものが少なからず存在する。
これはそれぞれが育ってきた環境や所属してきたコミュニティにおいて、一定水準のルールを守ることで組織を上手く機能させるために必要なものだとされている。
僕は日本に対して、この常識や規則というものががとても多いイメージがある。
街や公共機関で音を立てようもんなら冷たい視線が送られ、壁やなんかに描かれたスプレーアートはもはやただの落書きと言われる始末。
欧州だとそんなことはなくて、もはや日常茶飯事である。
路上でパフォーマンスをする大道芸人の人たち。どの場所でも関係なく描かれているスプレーアート。
メトロに乗っていると突然始まるラップや楽器演奏。
そんな人たちのおかげで街は賑わいを保ち、芸術と評され、我々日本人が感じるヨーロッパ感が生み出されているのだと思う。
それがいいことなのか悪いことなのかは置いといて、この自由さがクリエイティブ思考を育むものであると僕は考察している。
何にも抑圧されることなく、自分の表現したいことを、やりたいように表現できるという環境がそれを生み出していると思うのだ。
冷たい視線どころか、いいなと思ったらチップを渡して応援する人がいたり、演者やサポーター、そういう人たちが世代問わずたくさんいるっていうのが欧州の文化なのだと感じる。
日本では法律や、規則なんかで雁字搦めにされている分、新しいものが生まれる度に規制されることが多い。
そのため、余計なことを多く考えてしまい、頭でっかちになり、せっかくのクリエイティブ思考が潰されてしまっている一面があると思う。
ただ、日本文化の良いところは教育水準が高すぎて、どんな人でも少なからず「他人のことを思いやる心」というものが標準装備されているところだ。
義勇兵、大和魂から来ているのか、それとも日の丸特攻隊などのボランティア精神から来ているのか、起源は知らないけどね。
欧州にはそれがない。
完全にないというわけではないが、標準装備されているものではないという意味だ。
つまり、クリエイティブ思考を促す自由な文化と他人を思いやる気持ちで溢れる日本文化というものは、きっと介在できないものであると思っている。
例えると、欧州文化に合うのは業務委託で、個人と個人が繋がることで最大値を叩き出すというのに対し、日本文化は法人組織として皆が一丸となって行うチームスポーツのような形が最大値を為せるというようなイメージである。
欧州文化がこう発展してきた経緯については、きっと植民地や戦争なんかが絡んでいるのだろう。
「雑用は我々優勢民族のやることではない。」という潜在意識があるのだと思う。
だからスペインでは、マネージャークラスはスペイン人や先進国の人たち多く、従業員はアフリカ圏や南アメリカ、中東の人たちが多い印象を受けるのだろう。
人種差別やジェンダーだかなんとか言ってはいるが、結局のところそーゆう問題はこの先もなくならないと思っている。
日本人からしたら、自由に生活してていいなあと感じるかもしれないが、それはあくまで一面的なものであり、実際に違う文化圏で生活するとなると僕らの常識やマナーなんてものは、仕事において評価されることもあるが実質なんの役にも立たない。
極論だが、クリエイティブ思考を生み出すには常識という枷を外す必要があり、その枷を外すにはその常識圏から飛び出さないといけないのだ。
ただ、その常識圏から飛び出すと一気に治安は悪くなる。
そりゃ、常識もマナーもひったくれもないわけだから。
文化が出来上がるには少なくとも何百年という歴史の積み重ねが必要なので、国としてそのバランスを取ることは不可能だと思っている。
だからクリエイターやパフォーマーはどんどん色んな世界に飛び出して、自分の性に合うステージで輝くべきなのだと思う。
飲食業界だと、業態によっても常識や衛生意識とかは全然違うよね。
どこに身を置くかってのが、結局は自分の価値を最大化するためには必要なことだと思うんだ。
もちろんそれは自分本位で決まるものではなく、その場所から求められていることが前提になるけどね。
その場所を探すことが難しいところであり、
人生の楽しいところだと思って生きている。
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