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初めての競馬場、思い出の菊花賞(弾丸旅行1日目前半)

社会人に休みなど存在しない。
毎日を労働に追われて心身は摩耗していくばかりだ。
溺れかけの人間が必死に息継ぎするように一日二日ばかりの休日を消費し、また終わり無い労働に向かう日々が永劫続いていく。

週休二日制。国民の祝日。高い有休取得率。お前たちはそんな国や企業が謳う甘言に惑わされてはいけない。そんなものは休日ではない。

純真なキッズの頃は未来に対する不安もなく、休みは純粋に希望だった。
新しい出会いに胸躍らせた春休み。永遠に続くと信じていた夏休み。
年の瀬のせわしなさも新鮮だった冬休み。
どれも皆色褪せた遠い過去の思い出だ。
長期休暇など夢幻。そう思っていた。

俺がある日出勤すると、来月の勤務に七日間の休みが入っていた。
目を疑った。そして恐れた。唐突な七日もの休み。
これは暗に会社からの非道な戦力外通知なのか?
戦々恐々としながら日々を過ごしていたが、
徐々にどうやら会社の卑劣な追い出し策ではないことが分かった。
単純に休みが七日あるだけだった。俺は気分を切り替えた。


唐突な休みが俺を惑わせる

一週間の休み。一見すると長い休みのようだが、気を抜くと一瞬で消化してしまう油断ならない日数だ。
いつもの俺なら惰眠を貪り、酒におぼれ、Youtubeザッピングなどしながらダラダラ過ごし、気が付けば休みも終わっている…。
そんな自堕落な生活を繰り返してしまうところだ。

だが今回は違う。休みを前にしてしっかりと目標を立てた。
長期休暇の醍醐味――それは旅行。
誰にも気兼ねしない一人旅だ。俺は高揚した。

俺は元来予定を立てることを嫌う。
人間一人、自由に生きていきたい性分だ。
だから旅行も大体の目的地と宿だけ決めて、後は高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応する覚悟だった。
そしてこの適当さが最後まで俺を苦しめることとなる。

俺は旅立つ

旅行一日目の目的は珍しくはっきりと決まっていた。
午前中に家を出た。移動手段は車だ。
一人で長時間車を運転するのは寂しくて苦痛…そう考える人間もいるかもしれない。だが俺は違う。電車と違い、車内は完全にパーソナルスペース。
カーステで好きな曲でも流せば気分は上々だ。
どれだけ荷物が多くなろうが気にならない。
3泊4日に及ぶ長い一人旅の俺の相棒だ。
高速道路を走ること1時間超。10時過ぎに目的地に着いた。

京都競馬場。日付は10月22日。菊花賞当日だ。

菊花賞、それは運命の出会い

思えば俺が本格的に競馬にハマったのも二年前の菊花賞からだった。
それまでの俺はこの記事を読んでいる大半の人間と同じく競馬はウマ娘ぐらいしか知らない素人だった。
2021年。偶然つけたテレビでやっていたのが3歳馬が鎬を削るGⅠレース、菊花賞だった。何の気なしに見ていた俺は、レースが始まると次第にテレビに釘付けとなった。スタートから先頭を走っていたのはタイトルホルダーという名前の馬だった。

菊花賞は3000m。長距離レースだ。
最初から先頭を走り、最後まで逃げ切るなど不可能。
俺はそう高をくくって見ていた。
だがタイトルホルダーは逃げ切ってみせた。最後まで先頭を走ると、最終直線でさらに加速し後続を突き放して勝利した。

俺は一発でタイトルホルダーの虜となった。
そしてタイトルホルダーが出るレースを追っかけていくうちに、どんどん競馬にハマっていった。だが俺はいつもテレビで観戦するばかりで、REALな競馬場に行ったことは無かった。

そしてこの休み、京都競馬場で菊花賞が開催されると知った。
行先は決まった。

初めての競馬場に途方に暮れる

午前中の京都競馬場はまだ人が少なかった。
ゲートから入場したものの右も左もわからない。
だが無駄にキョロキョロして競馬ニュービーだと舐められる訳にはいかない。俺はごく自然な振りを装って歩いているとパドックがあった。
パドックを周回する馬を見て俺は競馬場に来たことを実感した。

二階から見たパドック

京都競馬場は改修されたばかりなこともあって場内はとても整っていた。
そして観客も若い人が多かった。殺伐としたおっさんの怒号が響く地獄を想像していた俺は胸を撫で下ろした。

スタンドに入るとそこはもうテレビで見る競馬場だった。
柵のすぐ向こうはターフだ。
丁度レースを走っていた馬たちが目の前を駆けていった。
その迫力に圧倒され、初めての競馬場に興奮していた俺はまだ自分の過ちに気付いていなかった。

もしこの記事を読んでいる人間でまだ競馬場に行ったことがない奴がいるとしたら、そいつに俺ができるアドバイスはただ一つ。
事前に必ず指定席を予約しろ。

競馬場で競馬を見る所は3か所存在する。事前に予約できる指定席と、当日座れる自由席、そしてスタンドでの立ち見だ。
立ち見や自由席はタダだが指定席は有料だ。
それに早く予約しないと売り切れる。
俺が指定席の存在を知ったときにはすでに全部売り切れだった。
だが別に問題ないだろうと俺は楽観していた。
自由席に座れるかは怪しいが立ち見でも十分楽しめる、そう考えていた。
だが現実は甘くなかった。確かに競馬を見るだけなら立ち見でも問題ない。
だが競馬場では座って休める空間など存在しないのだ。

そんなはずはないとお前たちは思うかもしれない。確かに席はある。
観客席だけじゃなく、休憩用のベンチなんかも沢山ある。
だが座れないのだ。観客席は勿論のこと、場内のベンチと言わずあらゆる椅子に座ることができない現実がお前たちの前に立ちはだかる。

俺の目の前に現れたのは誰も座っていない席の上に置かれた場所取りのためのチラシやら何やらの数々だ。
普通の人間なら一度席を立ったなら後を他の客に譲るだろう。
だが競馬場の客たちは小学生でもやらないような恥ずべき席取り行為を何のためらいもなくやってくるのだ。その結果、誰も座っていないのに誰も座れない椅子が大量発生することとなる。

座ることもできずさまよい続ける俺の前に、空腹という新たな試練が行く手を遮った。競馬場内には勿論複数の飲食店が存在する。だから俺も昼飯の事は特に心配していなかった。だが場内には時に数万人もの人間が集まるのだ。当然レストランには長蛇の列が並ぶことになる。ならば軽く済まそうとテイクアウトに頼ろうものなら座る所がないという現実に直面する。

これでわかっただろう。
競馬場内でいかに安住の地を確保することが大事なのかという事を。
場内で永遠に立ちっぱなしでさ迷うことが嫌ならば、是が非でも指定席を抑えることだ。

俺は馬券を買う

何はともあれ、競馬場に来たのなら是非にもやりたいことがある。
馬券を買うことだ。当然今までも馬券は買ったことがある。
だがそれはネット投票で買ったバーチャルな馬券だ。
折角のREAL競馬場。物理馬券を手に入れてみたかった。
だが俺は競馬ニュービー。物理馬券の買い方なんて知らない。

一般的に馬券はマークシートに記入して買う。
役所にあるような書類記入場所がそこかしこにある。
だが俺は新聞片手に一心不乱にマークシートを記入するギャンブラーたちを見て完全にビビっていた。ごった返すような人込みに揉まれ、疲れ果てた俺はみじめな敗残兵のように場外へ追い出された。

京都競馬場にはパドックの裏側に三冠馬メモリアルロードというものがある。その名の通りちょっとした遊歩道の中に、歴代三冠馬の像が立ち並ぶエリアだ。レースの喧騒から一歩離れたこの場所は人も少ない。
俺はようやく座ることができた。

三冠馬ロードのコントレイル像

そしてスマホを取り出した。馬券の買い方を調べるためだ。
競馬を主宰するJRAは俺のような初心者にもやさしかった。
すぐに公式ページが見つかった。
懇切丁寧な説明を見て、俺はスマッピーというマークシートを使わずともスマホで購入できるやり方を知った。
詳しくは公式の動画を見てみるといいだろう。
俺のような競馬ニュービーにはとても有難いシステムだった。

早速スマッピーで買う馬券を決めた。後は券売機に向かうだけだ。
券売機は当然ながら長蛇の列だ。
正直物理馬券にこだわらないならネット投票の方が百倍楽だろう。
だが俺は競馬場に来た証明として是非とも物理馬券が欲しかった。
列に並び、券売機の前に到達する。先に金を入れる。
ニュービーの俺はそんなことも知らず戸惑った。
金を入れたらQRコード読み取り機にスマホをかざす。
切符のような物理馬券が吐き出された。

名前がかっこいいので買ったファルシオン。残念ながら外れた。

菊花賞が始まる

俺は念願の物理馬券も買えて疲れで落ち込んだテンションも回復した。
この日の京都競馬場は朝から何レースも行われている。
これが馬にとってのデビュー戦となる新馬戦。
まだ勝ったことのない馬たちが走る未勝利戦。
1勝・2勝・3勝の馬が走るレースなど、1日に12レースが行われる。
その中でも今日のメインレースとなるのがGⅠ・菊花賞だ。

GⅠとは競馬のレースの中でももっとの格式高い一戦。
その中でも菊花賞は3歳限定GⅠという特別な意味を持つ。

競走馬は一般に2歳でレースデビューし、3歳で同世代と戦い、4歳からは古馬と呼ばれる熟練者となる。3歳までの馬は経験的・精神的に未熟であり、一線級の強さを見せるのは4歳になってからが大半だ。
例えるなら4歳からはプロ野球選手。3歳は高校球児といった感じだ。

だが、野球の世界で甲子園が盛り上がるように、競馬の世界でも3歳馬たちの争いは注目の的となる。デビューしたサラブレットたちがまず目指すのは、3歳限定GⅠの三冠――皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞だ。
この3つのGⅠは3歳しか出られない。一度逃すとチャンスは無い。
この一年に全てを賭けるのだ。高校球児が三年という限られた時間の中で数々のドラマを生み出すように、競走馬たちも一年の間に同世代の最強を目指して名勝負を繰り広げる。その最後の一戦が菊花賞だ。
今年の菊花賞も好メンバーが揃っていた。

パドック周辺は超満員だ

中でも注目されたのが皐月賞馬のソールオリエンスとダービー馬タスティエーラだ。春の緒戦、皐月賞で鮮やかな差し切り勝ちを収めたソールオリエンス。そのソールオリエンスの激走を見事に抑えたタスティエーラの日本ダービー。どちらも名勝負だった。

そして三戦目の菊花賞。俺の本命はサトノグランツだった。
日本ダービーでは11着と惨敗。
だが夏を越えて重賞を制覇し勢いのまま菊花賞に参戦していた。
先に言ったように3歳馬は高校球児。
夏の成長期間を経て見違える馬は多い。
そして何より注目したのがその血統。
祖父ディープインパクト、父サトノダイヤモンド。共に菊花賞馬だ。

競馬の世界では何かと血統がもてはやされるが、俺は正直半信半疑でいる。
確かに父親の遺伝というのはわかる気がするが、母父、つまり母親の父親がどうこう言うのははっきり言って眉唾だ。勝った馬に対して母父の強さが云々とか、まして祖父の強みが受け継がれて云々言うのは結果論でしかない。

だがそれでも語りたくなる気持ちはわかる。
そこには血統のロマンがあるからだ。
競馬は冷徹なブラッドスポーツでもある。誰もが強い父親・母親から強い子を生み出そうと腐心している。そしてそこに血統のロマンが生まれるのだ。サトノグランツの父も祖父も菊花賞馬だ。
そしてサトノグランツが勝てば、親子三代菊花賞制覇という偉業を成し遂げることができる。

サトノグランツ軸の馬連

俺はそのロマンに賭けて、サトノグランツの馬券を買った。
午後三時。菊花賞を走るサラブレッドたちがパドックを周回する。
すでに観客で満員だ。俺も何とかレースをいい位置で見ようと人込みをかき分けてスタンドに移動した。サラブレッドたちがターフの中に入ってくる。すでに興奮は最高潮に達していた。

誘動馬に従うサトノグランツたち。興奮は最高潮だ。

ファンファーレが演奏され、大歓声の中ゲートが開いた。
スタート位置はスタンドから遠い向こう正面のため豆粒のような姿しか見えない。コーナーを曲がり、一週目のスタンド前に馬が姿を見せた時、周囲ではどよめきが起こっていた。
先頭を走っていたのは大外枠だったドゥレッツァ
鞍上は名手クリストフ・ルメールだ。
ドゥレッツァの脚質は差し、つまりレースで後ろから走って最後に追い抜くのが定石。しかもただでさえ不利な大外枠だ。そこから無理にスタートから先頭を走るとは誰も予想していなかった。スタンド前を駆け抜けて2週目に入る頃にはドゥレッツァはスピードを落とし先頭を譲っていた。
やっぱり無理をしたのか。
そう思っていると、二回目のどよめきが起こった。
最終コーナーを曲がる頃にドゥレッツァは勢いを盛り返し、再び先頭を走っていたのだ。そのまま大歓声の最終直線を駆け抜けて、ドゥレッツァは勝利をもぎ取った。
名手ルメール騎手の面目躍如だった。サトノグランツは10着に敗れた。

親子三代の血統のロマンに賭けた俺は負けた。
だが勝ったドゥレッツァの父ドゥラメンテは怪我で菊花賞に出れず涙をのんだ2冠馬だ。そしてかつてドレッツァと同じくドゥラメンテという父を持ち、菊花賞を勝ったのが俺の愛するタイトルホルダーだった。
血統のロマンはここにもあった。

(つづく)

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