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寝台列車の恋

4月某日
ハノイからダナンへと南下。乗るのはベトナム統一鉄道。22時発の深夜特急である。
ベトナムでは鉄道での移動は最も効率が悪いとされる。なんせ5000円で18時間もかかるのだ。LCCなら同じ値段で1時間、バスなら半分の値段で15時間程度で着く。
それでも私がわざわざ鉄道の旅を選ぶのは、沢木耕太郎「ベトナム街道をゆく」への憧れと、ウェスアンダーソンの「ダージリン急行」に見るような、食堂車つき寝台列車の旅にロマンを感じてしまうから。

ハノイ駅のプラットフォームから寝台急行に乗り込む。車体はボロボロで、走ってる間に解体するんじゃないかしらと心配になった。それでも内部は改装されていて綺麗で、ソフトベッドの並ぶ一等車両は、私と同じように鉄道旅行に夢を抱く、ヨーロッパ系の外国人客でいっぱいだ。

切符の座席(寝台)番号を確認して、指定されたコンパートメントのドアをガラリ、と開ける。
開けた瞬間、私が抱いた感想は

「あ、しくったかも」

だった。
そこにいたのは、明らかに英語の通じなさそうな、もさっとした身なりの中国人母娘と、これまで見たことのある中で、一番いかつい黒人のお兄さんだったから。


ムッとする体臭が鼻を突く。ブラック・マン特有の、濃いスパイス見たいな香り。盛り盛りの、映画スターみたいなドレッドヘアー。指中につけられた金ピカの指輪。
お兄さんは、じろり、と寝台の上から私を睨んだ。胡散臭いアジア人がまた一人増えたぜ、って顔。

よりによって私のベッドは左の上。右の上段ベッドに寝ているお兄さんとは、真ん中の空間を挟んで50センチの距離しかない。

狭い寝台室内は三人分の荷物ですでにぎゅうぎゅうだ。どうしよう、スーツケースを置く場所がない。黒人のお兄さんにも、中国人母娘にも尋ねる気にならず、廊下を通りかかった人の良さそうな白人男性に「どこに荷物って置いたらいいの?」と尋く。その白人のおじさんが口を開きかけたところで、太く鋭い声が飛んだ。


「そこの下。ベッドの上にも荷物を入れるスペースがある」

振り返って見上げる。黒人のお兄さんだった。手のひらだけピンク色の、予想に反して華奢な造りの手が、私の頭上に掲げられている。
お兄さんはまっすぐ私を見ていた。にこりともしていない。黒曜石みたいな大きくて丸い目が見開かれている。指差す方に視線をやると、確かに、ベッドの上の棚に十分な荷物置きのスペースがあった。

あ、ありがとう、とお礼を言う。白人のおじさんはどこかに行ってしまった。お兄さんは起き上がると、私の重たいリュックを掴んで棚に引き上げてくれた。
むっつりと黙ったままだ。悪い人ではないみたい。ホッとすると同時に、見た目だけで人を判断した自分を悔いた。
よじ登って、二段ベッドの上段に横になる。予想以上にフカフカの、清潔なシーツが日中の暑さに疲れた身体を受け止める。東南アジアの長距離バスや飛行機にありがちな「クーラーききすぎ問題」もなく、室温は心地いい温度に保たれている。
ネットの情報で「ボロボロだ」とか「寝られない」みたいな声を拾いすぎていてすっかり怯えていたが、思った以上に快適みたいだ。

列車はゆっくりと発車した。夜のオレンジ色の市街の風景の中を駆けてゆく。ベトナム人が窓の外から手を振っている。

コンパートメントの中は、しばらくの間気まずい沈黙に満たされた。見ず知らずの人たちとこんなにも至近距離で過ごしたことなんて、数えるくらいしかない。


白人系の中高年が集まる隣の部屋からは朗らかに談笑しあう声が聞こえる。もう一つ隣の韓国人の団体客の部屋からは、酒を飲んで騒ぐ楽しげな声が響いてくる。私もあっちの部屋がよかったな、と自分を棚に上げて思う。それらの部屋に対し、私たちの部屋は人種差別か?って思ってしまうほど「余り物」感が強い。

「あのさ、ワイファイ持ってる?」

急に、隣から声がした。顔をあげると、50センチ先のベッドから、彼がこちらを見ていた。また、あのまっすぐな、黒い目で。

「ごめん、ない。でもこの列車。フリーワイファイがあるみたいよ。私の、繋がってる」

ビビりながら英語で返事をする。

彼は自分のスマホを見た。繋がらないらしい。貸して、と言うとニュルッと長い手が伸びてきた。受け取る時、彼の顔を初めて真正面から見た。濃い髭の中に埋もれるようにして、分厚い、多肉植物みたいな唇と、まん丸い大きな瞳がある。高い眉間、はっきりとした、けど、優しげな形の鼻。

美青年だった。ブラックダイヤモンドみたいに艶やかに光る滑らかな肌の中に、切り立った美貌がそびえている。

繋がりにくいワイファイに四苦八苦しながらどうにかオンラインに。お兄さんは、ありがとう、と言って初めて笑顔を見せた。
「あんた、英語上手いな。何人?」
「日本人」
「へえ」と言いながら、ニッカリと口を開けて彼は笑う。

さっき怖いと思ったのは、肌の色のせいだ。真っ黒な彼の体は、真っ白な天井、真っ白なシーツ、真っ白な蛍光灯の光に包まれた寝台車両の中で、必要以上に体積を占めて見える。

「こんなに英語が上手な日本人、初めて会った。日本人と話すの、これが初めてだけど」
旅先の仲間というのは、一度、つながりができたらとことんオープンになるらしい。お兄さんはそこから、一気に砕けた調子になって、自分のことを話し始めた。

ポール。ナイジェリア出身。28歳。最初、あまりにも肌が美しかったから、幾つに見える?と聞かれて「22」と言ったら爆笑していた。「あなたの肌が美しかったからだよ」というと、今度は照れたような笑いに移行する。

「セイントポールって知ってる?」と聞かれたので、知ってるよ、キリスト教の聖人でしょ、と言うとポールは嬉しそうな顔をした。大きな厚い唇が左右に避けて、綺麗な白い歯が覗く。

「あんたもクリスチャン?」

「違うけど、サンティアゴの道を歩いたから」

「じゃあ、クリスチャンだ!」

ポールは中国のトップ・リーグでプレイするサッカー選手だった。最初は胡散臭い、って思ったけど、彼のプレイする動画や、チームの写真を見せてもらったから、多分嘘ではない。ずらりと金ぴかのトロフィーが並ぶ家の写真をポールは嬉しそうに見せてくる。
サッカー選手と話すのも、ブラック・マンと親しくなるのも、これが初めてだ。
私はどこかで、ヒゲを伸ばし、金色のアクセサリーをつけ、穴の空いたジーンズを履いた黒人を差別していた。つまり、私とは関係のない人々ーー「そういう」仕事じゃない、「そういう」大学には行かない、「そういう」レストランやショッピングエリアには足を運ばない人々だと思い込んでいた。普段は「私、偏見なんてありません」って顔してポリコレとか言ってるくせに、私ってインターナショナルなの、留学もしたの、って涼しい顔してるくせに、とんだ偏見ヤローだ。

ポールはハノイにいる昔の知人に会いに遊びにきていて、これからこの鉄道で、ホーチミンに40時間かけて南下するらしい。私は18時間後に降りるから、約2倍だ。

「日本人ってさ、中国人と同じくらいにシャイだろ」

「そんなことないよ。中国人の人たちの方が、おしゃべりだし、なんていうか……」

「なんていうか?」

「声がデカイ」

その途端、ベッドの下段から吹き出す声が聞こえた。

中国人母娘の、娘の方だった。分厚いメガネの奥から細い目で見上げてくる。膝の上にはMacBookAir。スリッパはシャネルだ。
「彼女、さっきまで宿も一緒だったんだ。外資系企業でマーケティングやってんだってさ。完璧な英語を話すよ」

ポールはケラケラと笑っている。

私は少し気まずくなった。


「日本の首都って大阪だろ」と言うので、「違うよ、東京だよ!20年にオリンピックやるじゃん」と言うと「ふーん」と言う顔をする。でも私だって、ナイジェリアのことなんて何にも知らないから、お互い様だ。

「ナイジェリアって何があるの?」

「ナイジェリアはなんでもあるよ。オイルもあるし、農業も盛んだ。山も海も平地もなんでもある。日本は?」

「うーん、何だろう。なんでもあるようで、何にもない国のように感じるけど」

「でも、好きだろう?」

「何でそう思うの?」

「だって、自分の国を嫌いな奴なんているかよ?!」

彼は大きな声で言い、バシンと胸を叩く。

まっすぐな目だ。まっすぐ、まっすぐ。

ベッドにうつ伏せに横たわった彼の体は、素晴らしい逆三角形をしている。弓なりになったしなやかな背筋。太い二の腕の筋肉は天井の蛍光灯を受けて夜の砂丘のように輝いている。細い腰から盛り上がったお尻、まっすぐな長い足。足の裏は手のひらと同じ、女性器みたいな濁ったピンク色。

黒人の男の人って美しいな、って思った。こう思うのは「ムーンライト」を見て以来、二度目。

恋人はいるの、と聞くと、「いない、中国行きのオファーをもらった時に別れた」と言った。

どんな人?綺麗だった?と聞くと、
「ただのブラックウーマンだよ」と言った。まっすぐな目が、その時だけ宙を泳いだ。

「ブラックとかホワイトとか関係ないよ。私はただ、美しかったかどうか?を聞いてるの」と言うと、ポールは少しだけ表情を崩して
「ああ、綺麗だったよ」と言った。

彼にとって、「ブラック」であることがどれだけの意味を持つのか、私にはわからない。日本人が日本人であることが、ベトナム人がベトナム人であることが、彼にとってどれほどの意味を持つのか、私には、わからない。


「爪、綺麗だな」と不意にポールが言った。ソウルで塗ってもらったやつだ。ミントグリーンの地に、黄色の花模様が散っている。

「こんな爪、してるやつうちの国にはいないよ。見せて」

そう言うとポールは薄桃色の手のひらを差し出す。裏と表の色のギャップがあまりに大きくて、一瞬、ぎょっとする。手を差し出すと、ひょいと裏返されて爪を見られた。ポールの手はさらりとしていて優しい。砂漠の砂みたいだ。表の真っ黒な肌の見た目のいかつさとは裏腹に、さらりと乾いていて、優しい。

男の人の性格は、つくづく、手に現れると思う。人の手の形をした優しさの上に、私の手が今、乗っている。

恥ずかしくなって、すぐに手を引っ込めた。ポールはにこりともせず、また、私をあの目でじっと見る。

気まずくなって、私は電気を消した。全然眠くないけど、これ以上、何かが始まる前に、「見える」世界を閉ざさないといけないと思ったから。





深夜2時。ポールの起きている気配がする。



50センチ先の、真っ暗闇の中で、真っ黒な彼の体がじっと、こちらに向いている。

ポールのベッドの下から、中国娘のキーボードを叩く音がひっきりなしに聞こえてくる。私のベッドの下からは中国母のいびきが聞こえてくる。

それを覆うように、ガダンゴドン、と驚異的な大きさの車輪の音が私とポールの間に響き渡る。

騒音と振動が、私たちを暗闇の中で二人きりにする。



ああ、だめだ。


つながってしまう。


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