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根っこ

家父長制

ここ何年も問題に上がっていることの根っこは一つに繋がっているよなぁと僕は思っていた。同性婚、ジェンダーギャップ、女系天皇、夫婦別姓、他にもたくさん。民主主義の権利の問題だからどんどんやればいい。そこになんというか世間と政治の世界とのギャップを感じたりするのだけれどその根っこはやっぱり家父長制なのだろうなぁと僕はずっと思っている。

僕は父親が長男で僕自身も長男だから余計にそういうのは感じてきたのだと思う。子供の頃から理不尽にあなたが墓を守ると親戚中に言われていたけれど、それは本当に意味がわからなくて、なんで?と聞けばそれが当たり前だからという答えばかりで結局納得できる説明なんか一度も受けたことがない。寺が考えた檀家の抱え方に過ぎないと言われたほうがよっぽど納得するのだけれど。

僕が子供の頃にはもう核家族化なんて社会現象が起き始めていて、実質的な家父長制はボロボロに崩れ落ちていったと思う。お父さんが給料袋を持って帰ってお母さんが正座して受け取るなんて時代は僕の子供の頃にはもうとっくに過ぎ去っていた。核家族化すればコミュニティは最小限になって家長なんて言う役職は瞬く間に消えていった。まぁそれでも無意識化で、お兄ちゃんなんだから、お姉ちゃんなんだからと残っているのだけれどさ。でもまあなんせ長男坊の寅次郎が家を出てフーテンをやっていたのだからさ。

血統

ところがどっこいそんなのは中流階級までだけの話だったのだなぁと気付く。皇統はもちろんのこと、名家と呼ばれる家は名前をとても重要に守り続けていて、例えば安倍さんが亡くなると、安倍姓を誰が継ぐのかなんていうニュースが当たり前のように大手新聞に書かれていたりして、なんだこの時代錯誤な感じはと驚いたのだけれど、意外に世の中はそんな話題に食いついていたりもして、ああ、まだまだ残っているのだなぁと感じた。血統なんてものはなんの意味もないのだけれどなぁ。遺伝はあるのだろうけれど。

血統主義は恐ろしいと思う。行きつく先はナチスの考え方だ。アーリア人至上主義はそういう血統主義から生まれたのだから。日本人とは、日本国の国籍を持っている人のことを言うはずだけれど、やっぱり今でも日本人の血統の人なのだという感覚がきっとあって、僕自身もそういう感覚は無意識レベルにありそうだから自覚しようと思っている。ルーツとしての民族への愛情や誇りはそれはそれで持っていているべきだと思っているけれど。どうしても二つを分離できないのかもしれない。

結局、日本の戸籍とは江戸時代から続く、お家の系統を守るものだ。
そこをぶっこわさないと今ある問題のほとんどは根っこからは治らないんじゃないかって僕は思っている。
そしてその立法府にいる人たちの多くは、世襲や、系統に連なった人たちであり、支えている人たちもそれに近い人たちだ。

実はファミリーと家族は全然意味が違うのだと思う。

同根

家父長制は別に日本だけのものじゃない。近代化する前に肉体労働と家を守る仕事と分業が生まれて、コミュニティの中で諍いが生まれて、それを解決するために階級や宗教的な意味が生まれていったことは容易に想像が出来る。現代でも一夫多妻制が残っている国もあるし、ちょっと信じられないほど家庭内の女性の地位が低い国もある。元々は特性の違いだけだったはずがカーストが生まれている。全世界的にそれはあって、先進国でもやっぱり家父長制が民主主義と相いれなくてたびたび問題になっていく。

家父長制に批判的な映画や本は世界中でたくさん生まれている。
それでも中々抜け出せない、やっかいな問題のままだ。
家父長制の問題を同根とした社会問題は今も続く。

家長不在の家

僕が映画『演者』で描く世界で家父長制は大きな物語の軸になっている。別に家父長制への批判というわけでもないつもりなのだけれど、現代からみた当時の家父長制の違和感のようなものはきちんと丁寧に描いていこうと最初から思っていた。
今ある様々な問題の根っこ。そこを批判ではなく丁寧に描く。そこにどんな答えや考え方をみつけるのかはお客様の自由でいい。それに物語の軸であって全てではない。ただそういうバックボーンを作った。

終戦末期、男たちが徴兵や接収で不在の中。家を守る女たち。
これだけでもう実は現代を照らすことが出来るだろうと考えていた。
そこから物語が生まれてくるだろうと考えた。

社会派の物語なのかと聞かれれば観た人は誰もそうは思わないだろう。
ただ全ての作品は創られた時代の影響を受けているのだからそこには目をつぶらずにどう現代性を表現するかというだけのことだ。
そこに人間が描かれているのかどうかが僕にとっては一番重要だったのは間違いないわけで。

MESSAGE

メッセージ性なんてあるのだろうか。
何かを主張しているわけでもないと思っているけれど。
いや、僕の中にはあるのだけれど、それはすごくなんというか大きなもので。
この問題と割り切れるような、そういう類のものではないと思っていて。
もうシンプルに映画を楽しんでくれたらいいなというのが原点だし、こんなにすごい役者がいるんだぜっていうのが中心だし。

それでも伝わる何かがあると感じていて。
それはメッセージというよりも僕はプレゼントなのだと考えている。

海外の作品では、presented by なんて書かれているじゃない。
あの感覚はとっても好きで。
あ、何かを与えるなんていう偉そうなアレじゃなくて。
ちょっとしたプレゼントなのだって思っている。
一人でも多くの誰かに届け届けと願っている。

チラシが置いてあった

映画館にポスターを持っていった。
これで近日中にレイアウトされることになるだろう。
外にレイアウトされるのは上映期間直前かな?
ロビーでふと見るとラックにチラシがあった。
もう誰か手に取ってくれたかな?
もう誰か持って帰ってくれたかな?

現代を生きる誰かに。
プレゼントになっているかな。
誰かの根っこに水をあげられるかな。

帰りの電車で。
スマートフォンには今日もたくさんのニュースが届いてた。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。