僕はガザへの侵攻に反対します。


はじめに

この文章は僕個人が自信の意思で表明するものです。誰かに促されたり、或いは誰かの声を上げるべきだという意見を読むことで表明するわけではありません。
またこれまで僕と関係した友人、知人、団体、すべてと一切の関係がなく僕個人の意見です。無論ですが僕が製作した映画とも一切の関係がありません。
この表明は誰かに同意を求めるわけでもなく、共感を求めるわけでもなく、当然ではありますがイデオロギーの対立に利用されるようなことは拒絶します。これを読んだ方々に声を上げて欲しいとかそんな希望もございません。
長くなりますが一部を切り出して強調されるようなことも望んでいません。

僕の現在の立場として

僕は不勉強です。イスラエル建国についてもそこまで詳しいわけでもなく、ユダヤ教やイスラム教、キリスト教の成り立ちについても一般的なレベルの知識しか持ち合わせていません。パレスチナ問題と呼ばれる多くの血が流れた一連の歴史について無知であることに恥ずかしささえ覚えています。地理的にも宗教観的にも距離を感じていたからだとしか言いようがありません。
長く国をおわれたユダヤ人の歴史についても多くを知るわけではありません。第二次世界大戦におけるナチスのユダヤ迫害は当然知っています。またそれだけではなく流浪する民への差別迫害の歴史があることも知っています。海に囲まれた島国に生まれた僕は地続きの国々の民族問題については本質的な部分まで理解できているとは言い切れません。
僕が近年感じていたことは融和の時が近いということでした。サウジアラビアとイスラエルの国交が復活するなど近年は明かるい兆しが見えていたのだと感じていました。歴史的な日が訪れるのかもしれないと感じていました。今回のハマスのテロからイスラエルのガザへの侵攻に至る過程でその全てが凍結したことも知っています。
現時点では様々なニュースを目にしていますが、そのニュースの殆どがフィルターにかけられプロパガンダを含むニュースであることを自覚しています。世界的な非難を煽るようなニュースがさも真実かのように写真や映像と共に僕にも届いています。一つの事象が立場によってまったく違った報道になっていることも理解しているつもりです。正直、何を正として何を偽と判別するのかとても困難な状況です。

ガザへの侵攻を反対する理由

目にすることのできる情報も限られているこのような状況の中で、なぜガザへの侵攻を反対するのか、理由はただの一つです。それは毎日のように子供たちの命が喪われていることです。どんなフェイクニュースよりもSNSで個人が発信する一枚の写真は雄弁にそのことを語っています。そこに誇張も扇動もなく、あるのはただただ悲しい事実だけです。全ての子供たちには等しく未来が待っているべきだと僕は思います。その未来を奪う権利など、どんなに偉い人も、国家も、宗教も持っているはずがありません。子供たちは可能性であり、僕たちの未来でもあります。
また同時に新たな憎悪を生み出していることに恐怖を感じます。その憎悪はイスラエルやパレスチナだけではなく、世界中に拡がっていることは明らかです。イスラエルは世界中で憎悪が拡がり反ユダヤ主義が強くなっていることをどれだけ自覚しているのだろうか?と思います。僕が恐ろしいと感じるのはユダヤがかつてナチスから迫害を受けたにも関わらず、この侵攻が出来ているという事実です。自分が痛みを知れば他人を傷つけることはないと教わってきたのはきっと嘘だったのだと感じています。痛みを知るからこそ、立場を入れ替えて他人を痛め続けるのだとすれば、あまりにもあさましく愚かであり学ぶことのできないのが人間であることの証明になってしまいます。人間はたくさんの悲しい歴史を生んできたけれど、そのたびごとに学んできたのだと僕は信じたいと思っています。

ハマスのテロについて

ハマスのテロの映像を初めて目にしたとき、その恐怖に戦慄しました。それまでのガザの状況を考えればという意見も目にしましたが、どんな状況であれ、あのような暴力的行為が許されるはずがないと思います。
また人質交換の間の休戦期間中にミサイルを発射することなど、彼らがパレスチナの人々にふりかかるであろう不幸をまるきり無視していることも残念でなりません。恐らく彼らを非難するパレスチナの人々もいるのだと思いますが、すべてイスラエルのせいだと責任は転嫁されるのだということは想像に難くありません。
ミサイルという兵器まで持つ集団を侵攻以外にどう対処すればいいのかという問題は残ってしまうのだということは僕なりに理解しています。
その上でやはりだからと言って軍事で抑え込むことはなんの意味もないと思っています。大事なことはテロは犯罪であり、最終的に司法で判断されるべきだということを目指すことだと思います。それがイスラエルの国内法なのかパレスチナ自治権の法律なのか、或いは国際司法裁判なのか非常に困難なこともわかりますが、法的に明文化された形で彼らが起こしたテロを裁かなければ同じことを繰り返すだけになると思います。国家がテロリストと同じ場所に立つことは情けないと感じます。最終的には責任転嫁が繰り返されるだけの方法をなぜとるのでしょうか。
またハマスにミサイルなどの兵器を渡した勢力についても国際的な協力の元、今後一切それが起きないような仕組みの構築が必要だと思います。今やっていることはただ助長しているだけではないかと感じています。

日本で悲しいこと

この戦争で日本にどんな影響があるかという報道やコメントを何度も繰り返し目にしてきました。世界経済、為替問題、原油価格、中東との関係性などなど、それが日本国民の生活にどう影響するのかという報道です。
実生活に直結した話題が不景気になるかもしれないという不安を煽るような報道であることが非常に悲しいです。子供たちが毎日命を喪っている中で、ガソリンの価格を気にしていることがなんだか嘘みたいで、とても悲しくなります。
もちろんそれが生活に直結していることは知っているし、そのことで会社や家族や身近な人にも大きな影響を与える可能性があるのだということは理解しているつもりですが、それにしても人間としての品格はどうなってしまうのだと思います。人の命の問題を身銭の問題に落とし込むことで話題にするようではそれこそ国益を損じることだと思います。
また関係官庁など様々な人が寝る間を惜しんで実務としてこの問題を取り扱い、日本にとって最優先の選択を模索していることは重々理解していますが、最重要なことは国際的な立場や、日本経済などではなく、日本という国が子供たちが死ぬような悲しいことを拒絶するのだという姿勢ではないかと僕は思います。民主主義を掲げ、自由を掲げ、人道を模索するのであれば第一義はすでに決まっているのだと思いたいです。

さいごに

僕はガザへの侵攻を即時やめるように願っています。僕個人がどうにも落ち着かなく、表明しなくてはいけないと考えここに書いておきました。
ただそれは誰かに声をあげろよと強制するものではありません。
東日本大震災の直後、多くのお笑い番組が自粛をしました。多くの人が亡くなっているのに笑っていることは不謹慎だからという理由でした。しかし結果としてお笑い芸人が震災の現場に足を運び、避難所に笑いを届けたことが大きな力になったと被災者たちが口にしました。結果的に当事者たちにとって笑いは必要なものだった。
最近、「映画製作するものは声を上げるべきだ」とか「この状況でどんな映画を撮影しているのか」といったような内容の言葉を偶然ですが何度か目にすることがありました。そのことで悩んでいるような言葉も目にしました。声を上げろと言う人の気持ちも理解できますし、この意見がその人の賛同者を増やすことの邪魔になってしまう可能性があることも理解した上であえて書きます。

悩む必要など何もありません。声を上げるだけが正しいだなんて僕はまったく思っていません。悲惨な状況だからこそ笑いが必要になったように、今、日本で夢に向かって進むことはむしろ正しいことだと思います。自由な国で自由に夢に向かい、いつか海の向こうに住む人たちの心を動かすような作品を届けることができるかもしれないです。心がしんどくて情報を遮断することだって何も罪悪感を感じる必要性はないです。いつか落ち着いた頃に知ることだってあると思います。
この状況でコメディを製作しても、恋愛ドラマを製作しても良いと思います。自由に今、感じていることをそのまま表現することが、そのままメッセージになると思います。

「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉があります。
すべての歌は世の中の流れから生まれるように、世の中は歌の中から生まれていくという意味です。
歌ったり、小説を書いたり、映画を創ったり、演劇をしたり。
自由に創作活動をすることは、自由のようでいて現代という世の中の流れの影響を必ず受けているのだと思います。ただ同時に創作されたものは、世の中の流れになんらかの影響を与える可能性があるのだと思います。
創作だけではないです。家族を持つという夢だとか、会社を創るという夢だとか、学者になるという夢だとか、そういう全てが正しいのだと思います。
すべての子供たちが夢を持っていいのだというメッセージになるからです。
悲しいニュースなんてつまらないものはやめて、平和であれというメッセージになるからです。

声を上げろという人たちの意見も理解できますし尊重します。
署名活動をしたり、著名人にも届けることで数の力で世界に訴えたい方々だっていると思います。
声を上げろと言う言葉を否定しているわけではないです。
その言葉で世の中が動くことだってあると信じています。
ただ僕はそれを強制したりしたくないというだけです。
そして声を上げない人を非難するのは違和感があるというだけです。攻撃先のベクトルが間違っています。

僕のような無名な人間の表明がどれだけ無力なのかは理解しています。
そしてこんなものは自己満足じゃないかと言われても仕方がないかもしれないと思っています。誰かに同意すら求めていない表明なのですから。
それでも心が張り裂けるような悲しさにそのままではいられませんでした。

っていうかさ、もうさ、いいだろ。人殺しは。子供殺してなんの正義だ?憎悪を繰り返して何が起きる?こんなことは人類の否定じゃないか。悲しいし、情けないし、しょうもないし、なにやってんだよ。安全保障どころかどんどん危険な状況にしてるって。世界中から馬鹿にされてるって。
僕はいやでいやで仕方がないですよ。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。