ポルシェに乗った地下芸人.6
子供が生まれた。妻は1週間ほど入院するらしい。
となると、毎日顔は出さないとまずいだろう。僕はわりと仕事の時間に自由が効くから、合間の時間で顔を出そう。
それはそれとして、明日はお笑いライブ出演だ。新宿のヒルトンホテルで高いコーヒーを飲みながら作った会心の下ネタ漫談。衣装だって、黒いツナギに変える。これはウケないはずがない。
誰もいない家で、ガサガサと押入収納ボックスを漁る。
あった、ツナギだ。中にはTシャツでも着ようか。そうだ、一度も着てない黄色のド派手なTシャツがあったはずだ。
元嫁からイギリス土産でもらった、スーパーマンっぽいイラストが入ったアメリカ感全開のTシャツだ。
よし、衣装は揃った。ネタもまあ読み直しておけばいいだろう。練習なんてしない。
練習しすぎると、本番で新鮮な感じが出ないと有名な芸人が本に書いてた気がする。
練習をしない事による緊迫感とフレッシュ感。アドリブも飛び出すかもしれない。練習したから面白くなるわけじゃない。
2回目の舞台を前にして、この落ち着きと達観。さすが僕だ。ポルシェに乗ってるのは伊達じゃない。
安心した僕は、妻に「体調大丈夫?明日の昼間、顔出すね」という予測変換丸出し定型文をLINEで送り、眠りについた。
翌日。病院に顔を出し、事務所へ。ちゃんと衣装も持った。ざっくりと仕事を済ませて新宿に向かう。
歌舞伎町の裏手にある機械式駐車場。
場所柄か夜の方が駐車料金が高くなるエリアの中で、ここが安い。しかも、車が完全に収容されるからセキュリティも良い。
僕はお笑いライブに出演するときは、極力財布は持っていかない。というか、財布を替える。小さな小銭入れに免許と千円札数枚だけ入れて持ち歩く。
お笑いライブには楽屋泥棒が出るらしいから、こういう自衛はマストだ。ネットで探してメールを送るだけで出演できるようなライブだ。出演者の素性なんてわかりゃしない。少なくとも、前回初めて出演したライブの楽屋は変な臭いがした。高校の頃の体育会の部室のような、すえた臭いである。洗濯や入浴さえまともにできていない奴らがたむろする楽屋に、僕のエルメスの財布は置いておける訳がない。
小銭入れとスマホを持ち車を出る。あっ、衣装を忘れた。トランクから布バッグを取り出す。
今日出演するライブは、西武新宿線に面したゴリゴリの雑居ビルの一階にある。一度客としてライブを観に来た事があるからスムーズに辿り着ける。
ゆっくり扉を開けて中に入ると、小柄なおじさんみたいなおばさんが学校の机みたいなテーブルの奥に座っていた。
顔を上げてこちらを見ると、アホのように明るい声で「出演の方ですか?」と問いかけてくる。よかった、僕の認識通り、おじさんみたいなおばさんだ。おばさんみたいなおじさんではなかった。
名前を言う。「メールでエントリーさてせもらったジョニー小野です。」
3,000円を渡すと、出演順が書かれた細長い紙とライブのチラシを渡された。
出演順の紙は、おそらくA4サイズに10個ほど出演順をまとめて印刷して、ハサミで切り分けたようだ。
切り口がガタガタだし、曲がっている。このライブ運営者は、こういう部分に気が回らないのだろう。
そして、入り口を一度出てそのままビルの裏に回るようにと言われた。そこが更衣室兼待機スペースらしい。
「よろしくお願いします」と挨拶して言われた方向へ向かう。とりあえずお笑いの世界は挨拶が大切と聞くから、紙もまっすぐ切れない杜撰な運営者だろうとも、礼儀はちゃんとしておこう。
ビルの裏手は、もちろん「外」である。まだ暑いので、何台もの室外機が全力で大きな音をたたて稼働している。
上の方から、水がポタポタ落ちてくる。上階の室外機からだろう。腰掛けると尻に食いつきそうな独特な割れ方をした座面のベンチがいくつか置いてある。
そこに、薄汚いところどころほつれたリュックを置いて着替えている若者がいた。一応挨拶しておこう。
「はじめまして、小野と言います」不自然に刈り上げたキノコ頭の青年に、丁寧に挨拶をした。
キノコ青年は「ああ、はじめまして!!カルボナールのアキちゃんです。」と奇妙な細い高い声で応えた。
ギャグ漫画のサブキャラのような顔をしている。赤塚不二夫先生のラフスケッチみたいな顔だ。見たことはないけど。
ヨレヨレでシワシワの薄汚いピンクのTシャツを着ている。少し生乾き臭い。でも芸歴数週間の僕よりは確実に先輩だ。だから言えない。
うん?彼はこれに着替えていた。これは彼の舞台衣装なのだろうか。だとしたら、なんてだらしがないのだろう。僕は前日、黄色のスーパーマンTシャツに、アイロンまでかけて丁寧に畳んでもってきている。
やはり、管理が杜撰なライブに出る芸人なんて、衣装も杜撰なんだろう。こいつから学ぶもの、得られるものはないな。
このアキちゃんと、この数年後にM-1に出るとは思うはずもないのであった。
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