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山田の母ちゃん

山田さんちは、集合住宅でいわゆる公団と言われるよくある団地だ。
できたばかりはおそらくきれいな乳白色だったであろう建物が今やすっかり色褪せて灰色っぽい。
ペンキ塗り直せへんのか、とも思うけど少なくとも日山がここに通うようになってまる6年、その気配は無い。
初めて来た時、世田谷区の下北沢にこんな普通の団地があるのに驚いた。
奈良から上京してきた日山にとって下北沢といえば、若者文化の最先端で、渋谷や原宿とはまたひと味違う、お洒落なサブカルチャーの街、そんなイメージだったからだ。
まさかこんなどこでも見かけるような団地が残っているなんて。
賑やかな駅周辺から少し離れ、長い坂を下ると数戸にわたり見えてくるその威容はいつ見ても飾る言葉の無い、ただそこにあるだけの団地だった。
建てた方もそれをわかっていたのか、まるで寂しさをまぎらすように団地周辺にはこれでもか、と言わんばかりの隙間なさでいちょうの木が植えられている。
それがまた毎年秋になるとうるさいくらい黄色く色づく。
みるたび日山は初めてやってきた頃を思い出し、あぁやっぱこの団地。
今年もペンキ塗らんままやったなぁ、となるのだった。

「本人を家まで連れてってその後、車椅子を片付けるだけだから。簡単だから。」
簡単だから、を強調して所長の池崎まりが言った。
あやしい。日山は思った。だいたい彼女が簡単だからと言ってその通りだった試しがない。
「もうすぐつくはずだけど、、、」
利用者の章が乗っているはずのワゴンは到着時刻の15時を過ぎてもまだ来ない。
日山はうかがうように団地の前に広がる、
いちょう並木にかこまれた駐車場を見た。
右前方に小さな公園がある。
団地は駅のある南側からくれば坂を下る事になるが、車道に沿っている北側からだと小高い丘になっているため、車が駐車場に入るには坂道を上がって公園沿いに、いちょうの下を通ってくるはずだった。
そちらに目を向ける日山の視界の隅で、そわそわと落ち着きない様子でショルダーバッグからスマホを出し、まりが時間をたしかめている。
セミロングの黒髪にまじる数本の白髪で彼女が自分と同じ40歳だというのに改めて納得するが、しらなければとてもそうは見えない。
それに比べて日山は、ひどい時にはお爺ちゃん、と言われたりするほどくたびれた見た目だった。
髪はぼさぼさで白髪だって目立つし、歯は虫歯が多すぎ、すでに40歳にして奥の数本が部分入れ歯。なのに面倒くさくて、いつもつけないでいる。
着ているものも夏はよれよれのTシャツ、冬はグレーのブルゾン、とほぼ毎日同じようなカッコで過ごしているのでどこから見てもパッとしなかった。こうしてまりと2人、並んでいるといつも申し訳なくなるほどだ。
「あ、来た来た!」
ようやく白いライトバンが団地前の広い駐車場に顔をだした。
側面に青と水色のライン、ひかり園と文字もあるので章を乗せた施設の車で間違いない。
車はそのまま4号棟入口あたりにいる日山らの所へバックで近づいてきて2メートルほど手前でとまった。
「只今、もどりました〜」
運転席から、畏まった顔をはりつけたジャージ姿の職員が降りてきた。
同時にくぃいん・・・と後部ドアが上にあいて車椅子の利用者さんが3人、こちらに背を向ける形で乗っているのもみえる。
見た目より意外に広いのか、中に別の職員がもう一人いて、一番手前の車椅子の車輪にわたしてあるゴムのストッパーを外している。
あの人が利用者かな・・・日山がぼんやり思う間にまた、くぃいん・・・と音をたて車椅子とその職員を乗せた床がせり出し、ゆるやかに日山らの前に下りてきた。
「すみません、遅れまして。ちょっと出る時バタバタしちゃって。
ご本人、お変わりなく過ごされています。」
車椅子を引き出して職員が軽く頭をさげる。
「いえいえ〜。章さん、お帰りなさい。」
にこやかな会釈で、まりは職員から車椅子の章を引き取るとそのまま、少し早足で団地のスロープへ向かったので日山も、施設の車を見送りもせず、あわてて後をおって
「僕が。」
声をかけまりと車椅子の操作を変わった。
「3階ね。」
言われてエレベーターのボタンを押す。
そのボタンの感触が指先にやたらはっきりと伝わってきたのでよくみると、幅の狭いいかにも頑丈なつくりの重々しい、無機質なドアだった。
天井から照らすライトも古いタイプの蛍光灯が一本だけで薄暗い。まさに昭和の建物だ。
ちん!大きな音がエレベーターの到着をつげ、中に入れば案の定、狭かった。
章の車椅子一台だけでも、すでにかなり厳しい。そもそもその車椅子だって背もたれがリクライニングできる大きいタイプだから隙間がないくらいだ。
「わたし、階段で行くから。」
当然のように、まりは奥にある階段を指差して、むかった。
見送る日山が身を縮めながら中にのりこむと、背負っているリュックぎりぎりでドアがしまった。ほっと一息ついて顔を向けた先、エレベーター内の鏡にうつる車椅子の章と目があう。

そういえば初対面だった。
細長い顔に太い眉、うっすらとはえた髭が青くて、何とも愛嬌のある顔立ちをしている。
「・・・どうも。」
気づまりで頭をさげる日山にぎょろりと目をむいて視線をそそぐ章の開きっぱなしの口が「あぅあぅ・・・」少しだけ上下に動いた。
挨拶返してくれたんかなぁ・・・そんな気もするし違う気もする。
何しろ何もわからない。
ただ、その目は以前まで日山がよく接していた認知症状の強い高齢者ら特有の、とろんとしたのとは違う、はっきり意思を感じる目だった。向けられた視線をふいにそらす事も出来ず、開きっぱなしの口からたれ続けている章の涎が、車椅子についたテーブルの上に敷かれているタオルを濡らすのをみていた。
・・・・この人、人生楽しいんかな。
思った瞬間、ちん!再び大きな音がして日山の身体がはねた。
山下家のある3階についたらしい。
「いきま〜す。」と、まるで先程までの気持ちを誤魔化すかのような間延びした声で車椅子をひいて、フロアに出る。
「じゃあこっちだから。」
すでに到着し、待っていたまりに促されるまますすむと、やたらと滑りそうなリノリウムの床が落ち葉で黄色く染まっていた。
通路が章を待っていた駐車場に面しているからだろう、日山が少し下に首をのばせば色づいた銀杏の葉がその目に鮮やかに飛び込んでくる。
つい見惚れていると目の前のまりから
「ストップ!」と声がかかって慌てて止まるとそこが305と書かれたドアの前だった。
「ちょっと。ボーっとしないでよ。」
まりが呆れ顔で、ドアの横にあるインターホンをおす。ピンポーンの後、乱暴に受話器をあげる音と共に「はい。」ケンのある、けれどくぐもった女性の声が聞こえた。
「もどりましたー。」
まりがかえすと突然、かちゃりときれガチャリ、鍵をあける音がしてほんの数センチほど手前に扉がひらく。
まりがすかさずドアノブを握り
「こんにちはー。」と一声かけ中に入っていった。とてもすばやい。
「スロープあるから車椅子ごと奥までいって。」玄関口から日山にそう声をかけ、靴をぬぐまり。言われた日山は扉が閉じないよう、左手でおさえつつ右手で、全身を使い車椅子をおしこんだ。
玄関からスロープに乗り上げたとたん、左右にゆれ今にも車輪が落ちそうになる。
床に固定されていない、あくまで簡易的な、軽い材質のもののようだ。
なら慎重にいこうとゆっくり押し始めると「はやくして!」
ぶっきらぼうな声がとんできた。
みれば奥のリビングらしきところから白髪あたまを後ろで結んだ小柄なおばあさんが顔をしかめて立っている。
その横には神妙な面持ちのまりがいた。
ひと目見てうんざりするほど、いかにも小難しそうな章の母親だった。

だいたい、ろくに挨拶も交わしていないのにその物言いはなんなんや。
「すみません。今日初めてなんでよろしくお願いします。」
日山の変わりに頭を下げ、こちらを見たまりの目がまぁまぁ、落ち着いてと訴えている。
日山はム、と口を結ぶとなるべく早く、を心がけながら車椅子をおして、章をリビングへ運びこむ。
すかさず、後輪のそばについているブレーキを踏んでとめた。
「有難う。後は私がやるから見てて。」
すぐさま、まりがかわって動く。
まずは車椅子の前方、章の涎を受けるタオルがかかっているテーブル、そのネジをはずすと足元にたてかけ、今度は章の足に巻き付けている膝掛け、ついでレッグウォーマーと靴下を脱がしていく。
それをそのまま、すぐそばにある腰の高さくらいの棚の上に置いた。

ひと目見た章の身体が、全体的にもこっとしていたので日山も、重ね着をしてるだろうとは思っていたが靴下三枚重ねに加えレッグウォーマーと更にズボンの中、外で2枚ずつも履いているなんて畏れ入った。
確かに寒い時期やけどつけすぎちゃうの?
目を丸くしているうち、まりは章の胸に巻かれているベルトをはずし
「しつれいしまーす。」
と声をかけジャンパーを脱がせる。
その腕は、くの字に曲がり可動域も狭いのでうまく脱がせるにはかなり神経をつかいそうだ。おまけに下半身と同様、上半身も充分すぎるほど重ね着しているため脱がしにくいだろう。普段は器用に何でもうまくやりこなすはずのまりが、その額にうっすらと汗を滲ませている。
「はやくして。吸引してあげなくちゃ。」
容赦なく母親は急かせてくる。
確かに章は先程からぜろぜろと痰がからんだような呼吸をしていた。
「すみません。」
ただ頭をさげ、務めて淡々と続けるまり。
これは、、、キツいなぁ、、、。
手順をスマホのメモでとる日山は、その様子を見ながら、いずれ自分がやる事を考えどんどん不安な気持ちになっていった。
「はい。うつりますよー」
ようやくベッドへ運ぶ準備ができたまりが章に呼びかけると、母親がすっと動き、目の前のガラスの引き戸をあけた。
その先、六畳ほどの畳敷きの部屋に施設でよく見る可動式のベッドが置いてある。
そこまでざっと、2メートルは離れているように感じた。
まさかこの距離を抱えて運ぶんか・・・細身のまりを眺めて日山が自分のことのように躊躇っていると、当の本人であるまりは車椅子右側の手すりを下げ、足を左右に大きく広げると口をぐっと引き結ぶ。
そしてそのまま、章の背中に左手、右手は膝裏に差し込み、ふんばったかと思うと
「はい、行きます!」
力のこもった掛け声と共に一気に持ち上げた。二の腕が小刻みに震えているのが、日山にもはっきりと見て取れる。
大丈夫かいな、とドキドキする。
ずずずっと横歩きでベッドへ移動するまりの姿は、なんとかやっていますといった調子でいかにも危なっかしい。
母親も不安げな表情を浮かべているが、きっといつもこうなんだろう、手伝おうというそぶりすら見せなかった。
それどころか、ようやくまりがベッドへ運び終えた時にはすでにそちらに居て、有難うも何も言わず、ベッドそばに備え付けてある吸引機のスイッチをいれると
「は〜い、あきちゃんお疲れ様。吸引しましょうねぇ。」
先程までのムスッとした顔はどこへやら、甘い顔と声で章に話しかけていた。
まりは「失礼しました。」と小声で言いながら後ろ手に引き戸をしめ
「次。ここで車椅子の片付けに入ります。」
神妙な表情で日山に笑いかけた。
ぶぃいいいん、、、ずずずず、、、。
ガラス越しに吸引器の音と
「は〜い、じっとしててねぇ、、。」
章の母親の高い声が重なって聞こえている。
「こっち、洗面所ね。」
そう言ってリビングを抜け左手奥に消えたまりが、ぞうきんとバケツを持ってすぐに戻ってくる。半分くらい入ったバケツの水が小さく波うってるのが、日山からも見えた。
「これ、お風呂でいれて大丈夫だから。タイヤ、通ってきた床、スロープを綺麗にふいたら、車椅子を端によせて終了。」
一つ一つをやってみせた後、バケツとぞうきんを洗面所向かいのお風呂場で洗うと
「ここにしまって。」
バケツをひっくり返し浴室の入り口に立てかけた。
ぞうきんは洗面台横、壁にかかっているハンガーにひっかける。
全てが淡々として、且つ素早かった。
「で、おしまい。」
呆然としている日山を横目に玄関で靴をはき、荷物を持つとまりは「帰りまーす。」
奥の部屋に向かって声をかけ、さっと外へ出た。あわてて後をおう日山。
ドアの前でこちらを向いて待っていた彼女と目があった。
「どう?」聞かれて
「いや・・・厳しいなぁ・・・」
正直な感想だった。
「とりあえず。がんばって。」
あっけらかんと、まりが微笑んだ。

そもそも日山が訪問介護をするようになったのは、池崎まりに声をかけられたからだった。彼女とは以前働いていた特別養護老人ホームで知り合った。
お互いそこの職員で、共通点といえば歳が同じ事ぐらいだったのに妙に気があい、夜勤明けの日はいつも、朝からやっているファミレスにより、昼前からビールで乾杯するほど仲良くなった。まりには昔から長く付き合っている人が居たのと、日山自身の臆病さもあってそれ以上関係が進展する事はなかったが、顔を赤くしたまりが「将来、訪問介護事業所を起こす!」と熱く語るのに乗っかって
「良いね!そん時はぜひ雇ってや。」と適当に話しをあわせていたら、ある日突然ホームをやめた彼女が、ある日突然事業所をスタートさせ、日山に声をかけてきたのだった。
「本気やったん?」
目を丸くして聞くと、むしろ本気じゃなかったのかと詰め寄られてしまい返す言葉もなく、日山もひと月ほど後にホームを辞めて、訪問介護事業所トマトサンデーに加わった。

「けったいな名前やなぁ···」笑う日山に不思議そうな顔を向けたまりは自分の好きなものを組み合わせてつけた名前だ、と自信満々で「だってトマトと日曜日だよ。だいたいみんな好きでしょ?」
と聞いてくるので日山も、別にどちらも好きじゃない、なんて正直にこたえるわけにもいかず
「まぁ···嫌いじゃないやろね。」
と無難におさめてしまったおかげで、はじめましての利用者さんちに行くたび
「トマトサンデーの日山です。」
と名乗るハメになった。
ただ、人の家にいって生活をサポートする訪問介護の仕事は、思ったより自分にあっていたのか、掃除や洗濯、買い物といった家事全般だけでなく入浴や排泄などの身体介護すら老人ホームで散々やっていた日山には抵抗もなく、すぐ慣れる事ができた。

おかげでしばらくはうまくやれていたものの、ある時1人の利用者さんと些細な事で言い合いになってしまう。
その人は日頃から色んな事に細かい高齢者で毎回、日山が調理する夕食の味が濃いだの薄いだの何かと文句を言っていて、まぁまぁとだいたいは聞き流していた日山も、何しろ入るたんびだし、そもそも調理補助、という形で入っていたはずなのに言われるままやっていたら、いつの間にかどんどんと、こちらにまかせてくるようになっていたと言う事もあり、いよいよ我慢できなくなって
「そんなに言うなら、全部自分でやれば良いんですよ!」
と声を荒らげてしまった。

すぐその場でマズいと思って、頭を下げたもののあちらはよほど気持ちがおさまらなかったのか、しばらくして
「日山さんには来てほしくない。」
という電話が事業所にかかってきて突然、週3回2時間のスケジュールにぽんとあきができてしまったのだ。
「仕方ないよ、こっちも人間だから。ま、もう少しうまくやってほしいけどね。」
あっけらかんとまりに言われたのがかえって日山にはこたえた。
それでも正職員ではなくアルバイトだったので、いくらか気持ちはラクだったが元を辿れば正職員で、というまりからの申し出を、自信の無さから頑なに断って
自らそうした事を思えば、いったい自分は40歳で何をやってんや、と情けない気分にもなった。

「とにかく、他の利用者さんに入って。」
言われるまま、日山が次に紹介してもらったのが山田家で、多少話しは聞いていたものの、ここまで癖のある利用者、、、
正確にいえばその家族である、母親がいるとは思わなかった。
だけど実際、いくら対して酒も飲まない一人暮らしの中年男日山とはいえ週3で2時間、
計6千五百円になる利用者さんが無くなるのは金銭的にキツいので否も応もなかったのである。

さて、以前と同じ週3回とはいえ山田家でのケア時間は30分。日山にしてみれば、入ってくる額が減ったというのに、こちらのが気力体力ともにしんどいのは辛かった。
とにかく服の脱ぎ着から車椅子の片付けに至るまで、一つ一つに時間を取られてしまい30分じゃ到底足りず何をするにも倍くらいの時間がかかってしまう。

おかげでそれを罵倒する母ちゃんの勢いもすごくて
「早くして。」
「なにやってんの?」くらいは当たり前
「もうやめたら?」
「帰れ!」
「なんでこんな事もできないんだよ!」
とまるで容赦がなかった。元来、物覚えが良い方ではないとわかっていたので、間違いがないかと一つ一つ、いちいちメモに目を通すからさらに時間がかかってしまう。
それがかえって傍目で見ている母ちゃんを苛つかせるのかすかさず
「はやく覚えてよ。」
言葉と共に舌打ちがはいるのだ。
こうなるとなお焦るばかりでいったいメモの、どこを見ていたのかさえわからなくなり更に慌ててミスを重ねてしまう。

結局、毎回そんな調子だから日山もいい加減しんどくなって、声を荒らげてしまいそうになる事もしばしばでこのままでは揉めるのも時間の問題かもしれないと、いっそ母ちゃんの方から
「あの人、はずして。」って会社に言うてくれんかなぁ、と考える事すらあった。
そうして後ろ向きになればなるほど気分は
どんどん沈んでいってしまう。
団地へ来るたびに、そんな思いをなんとか振り払って送迎バスから章を引き取る。
で、家に入れば終了までひたすら罵倒に耐え忍ぶ。そんな毎日を続けた。
そしてようやく半年ほど過ぎたある日。
午前の利用者さんのあと、午後から地獄の山田家に備え休憩に立ち寄った、下高井戸駅近くの築15年アパートの一室であるところの、トマトサンデー事務所前で、カルディの紙バッグを持った所長、池崎まりと鉢合わせた。
「どう?山田さんち。」
日山が言葉に詰まっていると、察したのかまりは、まぁまぁと控えめな笑顔で事務所の扉をひらき日山を招き入れる。
中はフローリング、六畳一間に黒いテーブルとコマ付きの椅子が二つ。書棚、コピー機、小さな冷蔵庫だけの部屋は、こまめに整理されていつ来ても小ざっぱりとしていた。
「どうぞ。」
促されて先に入った日山は、すぐ手前の椅子に腰掛けるとようやくひと息ついた様子で「どうもこうも、なんともいえんねぇ」とこぼした。
「なんともいえん、かぁ。」
オウム返しのまりは玄関で靴をはいたまま、すぐ左横に備え付けられている申し訳程度の水洗スペースでさっそく買ってきたばかりの豆をガリガリと手動のコーヒーミルでひいている。
「ほんま、好きやなぁ・・・」
椅子ごと後ろを振り返った日山が呆れたようにそう言って何気なく、手狭なスペースに置かれたコーヒー豆の袋に目をやるとアフリカンブレンド、とアルファベットで書かれた文字に重なる形であしらわれたリアルな象のイラストが目に入った。
アフリカといえば象って単純すぎへんか。
苦笑する日山の頭に、ぼんやりと広大な草原を走る様々な動物たちの姿が浮かんできて、そうや。今の僕に必要なのはアフリカ大陸。大自然かもしれん、と思った。
「あの母ちゃん、ややこしすぎるねん。」
ライオンになった気分で吠える険しい顔の日山の前に、湯気のたったコーヒーがすっとさしだされる。
「でも、日山にしては頑張ってるよ。」
どう言うこっちゃ?言いかけてやめた。
堪え性が無いせいでこれまで職場で揉めてばかりだったのだ。
以前いた施設だって、こうしてまりが声をかけてくれていなければきっと何かしらで揉めていただろう。というか、すでに上の人間と何度かやりあって居づらさを感じていたので
「うちにこない?」と言われた時、正直少しホッとしたくらいだった。
「ぶっちゃけ、外してと何で言うてこんのか不思議なくらい。毎日、母ちゃんに罵倒されてる。」
一息にいってコーヒーに口をつけると、ほんのりとした苦さがあった。
む、今日のやつはちょっと・・・・と、伺うようにまりを見やると、香りでも味わっているのか目をとじ、静かに頷いている。
「そりゃあ言わないよ。だって外されて困るのは山田さんだもん。」
当然でしょ、といった調子で日山に目をむけた。
「あちこちの事業所で噂なんだからあのお母さん。で、みんな手をひいてうちに声がかかった、、つまり区内じゃ、もううちしか残っていないわけ。」
あまりにもあっさりしたもの言いに日山は言葉がつげず、ようやく
「そんな事、、、、あんの?」
躊躇いがちに聞くと、まりは黙って頷いて少し勿体ぶったような表情で続けた。
「だって。他に利用者さんはいくらでもいるから。この業界、人手不足とんでもなくて今なんて、バブル。」
なんとなくわかっていた事についてこうもはっきり言われると、日山も返す言葉がなく呻くしかない。
「だから本当に日山が嫌ならこっちから断って良いよ。私も流石に一人だけであそこに入っててもあのやり方じゃあ、腰がやられちゃうし。どうする?」
その目が真っ直ぐに日山を伺っていた。
どうも本気らしい。なら断ってもらうか、と一瞬よぎりすぐに、思い直す。
何かといえば揉めて、また別の職場へ。それを繰り返しなんとなく生きてきた自分。
歳を重ねいよいよそうも言ってられないかもしれない、、そんな不安をさすがに感じないわけもなく。
で、山田の母ちゃんも逃げ場が無い、と。
ある意味、僕と同じっちゅう事やもんな。
とたんにおそってきた寄るべなさに、こわくなって日山はそれを振り払うように、コーヒーを飲み干した。
口の中で一気に苦味が充満した。
「うまい!有難う!」
わざと大きな声で言い、足取りだけはしっかりと事務所を後にする。
「・・・・いまいちかな。」
その背中を目で追いつつまりは、なめるようにコーヒーを飲み、呟いた。

結局、全て諦める事にした。
母ちゃんに散々噛みつかれても、心に止めずどんなに些細な事でも
「はい。すみません。」
とただそう返すようにしたのだ。
すると案外、文句を言われても気にならなくなった。いや、性格にいえば嫌な気持ちにはなるものの、すぐ忘れる事ができるようになった。
考えてみれば、利用者さんは息子の章で母ちゃんではない。
あれやこれやと言われる全てが章本人の望んでいる事かどうか、喋れない以上細かな事までわかりようが無いのだ。
となると日山に投げかけられる母ちゃんの罵倒や注意はただ、息子にはこんな風に接してもらいたい、という願望をぶつけているだけと言えなくもない。
そうなるとつまり章のヘルパーである日山にとってあくまで母ちゃんは気にかけて置く、程度で良くて、気をつけなければならないのは一つ、本人を無事に車椅子からベッドまで運んであげる事なのだ。
実際それを意識するだけでも、いくらか気持ちは楽になり、章をベッドにやった後の車椅子の片付けなどで母ちゃんに何を言われても淡々とできるようになった。
相変わらず結構な勢いで面罵されるが、そこは素直に頭を下げた。機械的にそうしているだけなので当然また、同じ事で怒られもするが、さすがに何度も繰り返していると自然に身体が覚えてきて、季節が一周し銀杏の木が再び黄色くそまる頃にはもう、母ちゃんから言われる事もかなり減っていってたとえ言われたとしても日山の方も余裕で
「またまた〜こわい顔して。」
とおどけられるまでになった。
さすがに向こうもこれにはただ苦笑いするしかないようで、それ以上は何も言ってこない。
おかげで日を追うごとに随分やりやすさを覚えるようになっていった。
後はちゃんと30分、与えられた時間内で終えられるようにできれば言うことはないものの全て終えるのだけは、どうしたって40分はかかるのだった。
やっぱ、段取り多すぎんねん。
ようやく慣れてきたからこそ、日山はそれを強く思うようになっていた。

そんなある日、母ちゃんが倒れた。
章をベッドにうつしおえた日山のそばで突然、くずれおちるように座り込んだのだ。
「大丈夫?どうしたんですか。」
ベッドわきのタンスにもたれるようにして、肩で息をする母ちゃんは
「ちょっと、、立ちくらみ。
最近、あんま眠れてないから。」
か細い声でこたえると手をのばし
「立たせて。章のお世話しなくちゃ。」
日山へ虚な目を向けた。
とろんとしたその表情から熱もあるんちゃうか・・・と手を握ると、かなり熱い。
「いやいや。無理しちゃ駄目ですって。とりあえず僕、残ってやっていきますよ。」
実際のところ、山田家は毎回終了時間を超過するので、その後に行く予定の利用者まで少し時間をあけてシフトを組んでもらっているのだ。
「だって・・・やった事ないでしょ、身体拭いて着替えさせるの。」
「そりゃこの家では初めてですけど、他の利用者さんとこでやってますから。なんとかなりますよ。」
それでも立ちあがろうとする母ちゃんに
日山は首をふり
「とにかく。まかせてください!」
大きな声でいった。
山田の母ちゃんにしてみれば、身体を拭くのにもきっとたくさんの段取りがあるに違いなくその全てを完璧にこなさねば気が済まないのだろう。
「でも・・・」口をとがらせながらなお動こうとするが、立ち上がるのも一苦労のようでよろよろとふらついてまたすぐに、へたっと座りこんでしまう。
そうまでなって初めて、諦めたのか
「じゃごめん。今日だけお願いします。」
と、か細い声でうなだれるように母ちゃんが言った。
「まず、身体吹く用のタオルがあるから、それを水でしぼって袋に入れて1分チンして。」
頷いた日山がどのタオルか確認したら上半身で3本、下半身で3本、なんと合計6本もある。
普通だいたい上下で2本ずつくらいちゃうんか。思ったもののいちいち気にしてても進まないのでとにかく全てを素早く、洗面所の水でしぼると、上と下別々の袋にいれて
まずは上半身用をキッチンにあるレンジで加熱。
それを待つほんの1分、章の眠る奥の部屋へちらり、目をやると膝をかかえどよん、とした顔の母ちゃんが黙ってこちらを伺っているのが見えた。
いつもなら少しでもぼーっとしてたら
「時間もったいないから!」と指示を飛ばしてくるが、さすがにそんな気力すら無いらしい。ここまで弱った姿を見たのは初めてだったので、日山もいよいよ心配になった。
ピーッピーッ、
音がなった電子レンジから取り出したタオルでさっそく清拭(身体を拭くこと)にとりかかる。
障害で四肢がかたくなっている章のシャツを脱がせるのは、車椅子上でいつもやっているジャンパー等とはまた違って、始めてなのでやりづらかった。
母ちゃんも座り込んだまま、日山の動きから目を離さない。
「先に足の方からやって。」落ち着いた口調で指示がきた。
これもまた、だいたい上半身、下半身とやっていくのが他では普通だったので、殆ど無意識に上半身を脱がせようとしていた日山は一瞬戸惑ったが
「あ、わかりました。下からね。」
とすぐさまレンジに戻って、袋に入れた下半身用タオルをあたためにかかり、今度はそれができるまでの1分を待つ間で、章のパジャマのズボンを素早く下ろそうとした。
「違う。いきなり全部下げたら寒いでしょが。タオル暖まってからでいい。
まずは足元から膝までズボンをあげて。
拭いたらその後、もう一個のタオルで膝から上。それが終わったら初めて脱がせて。」
こまかいねん!
心の中で豪快に突っ込んでみるものの、いつもの母ちゃんっぽさが少し戻ったようで安心する。この調子なら大丈夫そうだ。
「なるほど。」

こたえて日山は淡々と言われた通りやっていった。その後も母ちゃんの指摘は、何かするたびいちいちとんでくるし、慣れないぶん大変だったが黙々とこなすうちひとまず、終えることができた。
時計をみれば1時間以上かかっていて、さすがにもう出ないと次の利用者さんに間に合わなくなってしまう。
「じゃすみません。とりあえずまた〜」
母ちゃんが座りこんだままなので、少し気がひけつつも荷物を持ち、玄関へ向かうと
「こんにちは〜。」
チャイムと共に、落ち着いた雰囲気の中年女性が入ってきた。
上下とも紺色で統一されたジャケットに白いカーディガン、この時間からくる事になっている看護師だった。
「どうも。僕、ヘルパーです。」
訝しげな視線を向けられ日山は慌てて頭をさげる。
「あと、お願いします。もう次に行かないとならないので。」
タンスにもたれ、うなだれたままの母ちゃんに目をやると、看護師も何かを察したのかハッとした様子で
「どうしたんですか?」
日山と母ちゃん、交互に首を向けて聞いてきた。

「また来ますー。お願いしまーす。」
詳しく答えている暇もないので、日山はにこりと笑顔を返すだけで山田家を後にした。
看護師さんやから後は何とかしてくれるやろ、と駐輪場から自転車を引き出すと次の利用者さんへ向かう。
母ちゃんもまず、大きな病気ではなさそうだがよく考えてみれば、もう80歳近い老人だから、章への日々の世話は相当しんどいはずで日山も今回、ベッド上での体清拭でその大変さが、身に染みてよくわかった。

胃瘻でしか栄養を取れない章は痩せてはいるけど男性だから、骨も固くゴツゴツしているぶん、身体を少し動かすだけでもけっこうな力が必要なのだ。
僕でもしんどいんやから、もうばあさんの母ちゃんが毎日やってるんはとんでもない事やで。あの人、章が生まれてからずっとそうして暮らしてきたんか・・・・
想像しただけで日山にとってそれは、途方もない時間のように思えた。

結局、ここのところ毎晩続いていた夜中の章への吸引で寝不足、それがたたって風邪をひき倒れたというのが看護師、医師の見立てで日山が次の週に訪れた時には、すっかり良くなった母ちゃんがいつもとまるで変わらないハリのある声で、罵声をとばしてきた。
「ほら!そんなの後でたたんでよ。
それより早く章をベッドにうつして!」
脱がしたジャンパーを軽く二つに折っただけなのに容赦がない。
「いやぁあ、、、ますますパワーアップしましたね。」
「いいから!口より手を動かす。」
有無を言わさず、ベッドを指さす。
母ちゃんの眉間に皺がよってただでさえ、きつく見える顔がなお険しくみえる。
日山はやれやれ、と呆れた表情で車椅子の章に
「章さんもこんな母親だと苦労するねぇ。」
笑いかけるとサイドバーをおろし、
いよっと一声、横から抱えあげた。
「なに⁈余計な事言わないで。」
母ちゃんのむっとした声を背にうけながら持ち上げた瞬間、腰に鈍い痛みがはしる。
こりゃまた、整体いかなアカンなぁ。
そこをなんとか踏ん張って、隣の部屋のベッドにうつした。
「はい。お疲れ様。」
母ちゃんが優しい声で日山でなく、章に語りかけているのを聞きながら、洗面所へ。
バケツの水でしぼった雑巾で車椅子を拭きながら、思えばこの一連の手順もすっかり身体に染みついてきたな、と日山は思っていた。
「はい!じゃあまた次回、木曜日きまっさ。」
車椅子を所定の場所に片付け部屋にいる2人に声をかける。
返事がないのはいつもの事なのでそのまま玄関へ向かい帰ろうと靴をはいたところで、
章の尿がたっぷり入った尿瓶を持ったままの母ちゃんが
「ちょっと。」とやってきた。
しまった。なんかやる事抜けてたか・・・・
すぐさまそう考え、頭の中で日山が手順を反芻する。
「こないだ有難う。ほんと、助かった。」
さらっと言われた。
・・・・そんなん言えんねや。
あまりに当たり前の言葉が山田の母ちゃんから出てきたので返答にこまる。
目を見てはっきり、信じられへん。と言いたいくらいだった。
呆然とする日山に続けて母ちゃんは
「あのさ、それでもし良かったら今度から章の身体拭くの手伝ってもらえない?
ほら、、時間とかはまた所長さんと相談してもらって。」
「はぁ・・・わかりました。」
気の抜けた返事に、日山は慌ててさよなら、を付け加えると玄関をとびだした。
「びっくりしたぁ・・・」
ドアをしめたとたん、口をついて出た。
訪問介護はその性質上、訪問時間などについては都度、担当者などを交えて話し合った上で決めなくてはならない。
当然、母ちゃんもそれをわかっているのだろうけど、何しろ日山自身が利用者さんから
時間の延長を希望されたのがはじめてなのでどうこたえたものか困ってしまったのだ。
しかも何より、よりによって、あの人からそんな事を希望されるなんて。
「信じられへん!」
山田家の団地の坂を、自転車でくだりながら口に出してみた。
母ちゃんも人間やねんなぁ・・・
しみじみと考えながらあの人が、有難うと言った時の顔を思い出そうとしてみたものの
もうぼんやりとしか浮かんでこなくて、なぜか手にもった尿瓶の、あの黄色い尿の色だけが日山の頭から離れないのだった。














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