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掌編小説:夜の沈没船

 人間や、それ以上の白い流紋岩が転がるこの浜辺は壮観だった。ペンキのように真っ青の色をした海と、純白の浜辺は万人を惹きつけた。
 夜になれば全ては闇になった。ごまんとある醜い岩礁と同じだった。
 岩礁には毎夜風が吹いた。

 その晩は遊覧船が岩礁に乗りあげようとしていた。いちばんにそれを発見した僕は、まず彼を起こした。マットレスから彼を突き落として、浜まで連れ出してきた。二人で夢のような景色を味わった。
 それから二人して物見台に上がり、鐘を打った。村に沈没を知らせるお決まりの音が響き渡ると、誰も彼もが起き出して、戸口を開いて浜を眺めた。
 それはじつに見事な遊覧船だった。山のように巨大だった。黄色や赤の電飾に彩られた船体は、ゆったりと岩礁に向かい、死の航海を続けていた。プロムナードには人だかりが出来ていて、微かな悲鳴が波に混じって聞こえていた。デッキに出てきた混乱の群れは最後のロマンスを確かめるように海に飛び込み流されていった。昇降機はいかれてしまっているようで、救命ボートは一つしか見えなかった。整備士たちは死の前に、赤の警告灯を身につけて左舷の昇降機に降りていった。彼らは長い間そこでじっとしていた。何もせず、何もできず、ただ虫のように引っ付いていた。彼らは美術品のように不動だった。闇には警告灯の赤い輝きが走った。夜の海はその喜びの色を受けて、嬉しそうに波を寄越した。
 夜の闇の浜に出て来て、村人たちは手を叩いて叫んでいた。笑い、酒を飲み交わしていた。店屋の主人はペダル式の蓄音機を用意してくれた。擦り切れるほど聞いたあの唄を歌い、闇の中でスロー・ダンスを自由に躍った。彼は僕の手をとった。ごつごつとしたその指が僕の腰を這い、優しく撫でた。僕らは砂にステップを踏んだ。沈み込んだ足を持ちあげるたび、揺れる身体が喜んでいるのを感じた。
 祝祭のために眠りのことを忘れていた。僕と彼は一つの瓶を回してビールを飲んだ。昨日や、一昨日の情事について語り合い、うっとりしながら酔っていた。そのとき、ふいに村人ではない男たちが現れた。僕らは酔っ払いのあの挨拶をして、彼らにも酒を回した。彼らは黙ったままでマッチを擦り、僕らの顔を検めると彼を撃って殺した。音もなく倒れた彼の腕は、僕の肩に回されたままだった。
 僕はそれからずっと泣いていた。わんわんと大きな声で。震える手で彼の額に手をやった。新しいそのくぼみをなぞった。生暖かい優しさが僕の弱い指を塗らした。
 村人に手伝ってもらい、僕は彼に石を巻きつけた。それから小舟を借りて僕は沖に出た。海の夜気に刺されながらも僕は以前泣きはらしていた。彼の頬をごしごしとこすり、あの包み込む体温を探した。躯は沈黙していた。
 東を見ると、遊覧船は沈没の中途にあって、やはり恐ろしく美しかった。
 僕はかれた声で彼への別離の言葉を重ねた。接吻とともに。
 最後に痛々しいほど激しく抱きしめてから、彼を海へと放った。夜に輝く白いきらめきもおぼろげに、彼は瞬く間に消えた。海の深みを覗いても、やはり消えてしまっていて、無邪気なしぶきが僕の顔をうった。

 遠く、朝日がぼんやりと、しかしいやになるほど強烈に海に渡るころ、遊覧船は沈没した。
 ひどくおっとりとした様子で船体はくだけちり、単一でなくなった存在たちは海の愛に引き込まれていった。
 僕は浜にいて石を投げていた。こちらへ向かって泳いでいる、沈没船の人々にねらいをさだめてそうしていた。彼らは波に逆らって、のろのろと、白いあぶくを後ろに残して真っ青なその美しい海を横切っていた。
 石を投げる指の感覚は、僕の心に心地よく馴染んだ。
 昼になると、時を告げる教会の鐘が鳴った。何か食べたくてたまらなかった。ぎらつく太陽を避けて僕は家に帰り、空腹のままでマットレスに崩れ落ちた。
 目を閉じて、息をすると、湿った彼のにおいがした。その瞬間僕の胸は神秘的な思いでいっぱいになって、ああ、恍惚として、全身がぶるぶると震えあがってしまうほど強烈な喜びを感じるのだった。

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