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掌編小説:白い冷蔵庫


 その日は彼氏が初めて私を家に招いてくれた日だった。不安がなかったわけではないけれど、私のほうも期待していた。彼も同じ気持ちだったと思う。その顔つきからは、緊張の色がうかがえていた。
 私たちは外階段をのぼり、鍵をあけ、ともに足を踏み入れる。その場所がごく狭い場所であり、極めて清潔に保たれている部屋であることがわかる。キッチンに続いて奥に趣味のいい居間が見える。中に入って、玄関の扉を閉めるなり、彼はにっこりとする。子供みたいな無邪気さをもって、私のことを優しく抱きとめる。目を閉じて、微笑みのままに彼に身体をまかせる。ワンピース越しに、彼の指が私の脇腹に触れているのを感じる。彼の手のひらがぎゅっと私に押し当てられているのを感じる。
 やがて彼が力をゆるめ、それがただのハグだとわかる。私は上目遣いで彼の優しい顔を見つめる。
 そこまでは実際に幸せな一日だった。私はもちろん緊張していたけれど、それは期待からなるものだった。これから起こるであろう愛の流れにつばを飲んでいた。
 問題がもちあがったのは、そこに冷蔵庫があったためだ。そこには白い冷蔵庫があった。マグネットひとつない、のっぺりとした表面の冷蔵庫。
 私は青ざめていた。その一瞬は引き延ばされたようだった。頭の奥が歪んだように視界がちらちらするのがわかった。
 彼は居間へ案内して(小さな家だけどここが僕の生活拠点なんだ。けっこう家具には気を使ったんだよ)、こたつ机に座るように勧めてくれる(麦茶を入れるよ)。
 私はこたつ机のうえに座った。膝に肘をつけて、頭を両腕で支えるようにしてうつむいた。彼はぎょっとしたようになって、驚いて、絶句して、それからどうしたんだい、と尋ねた。私はしばらくうつむいたままで、黙っていた。どうしたんだい、と彼はまた尋ねる。しかし、私には何もできない。心の内は押し寄せる波のような死のイメージに揉まれていた。
 私は白い冷蔵庫を見ると死を連想してしまうのだ。
 それも極めて強烈な生物の死を。
 死のイメージは、胸の肉が薄くそぎ落とすような心の痛みをともなっていた。
 私は視線を落としながら「ごめんなさい」と言う。心は急所を傷つけられて血を流しているように動かなかった。そのときそれで精一杯だった。
 彼はとにかく私にお茶を出してくれた。私はそれを長い時間をかけて飲んだ。いくらか痛みは和らいだようだった。彼はそれで私を家に帰してくれた。車を出して、送り届けてくれた。

 しばらくして思考が生まれると、私はじつに悲しい思いに沈んだ。心の余裕というものがごっそり損なわれていて、何に対しても好意を持てなかった。帰ってきてからもぐったりとしていた。冷ややかで圧すように私に沁みていくイメージがどうしても払えなかった。お風呂を沸かして、身体を浴槽に横たえる。だけどほんとうに何も感じられない。
 私は浴槽から上がると彼にメッセージを送る。
<今までだまっていてごめんなさい>
<私、白い冷蔵庫を見てしまったの>
<私、白い冷蔵庫を見ると、ひどい気分になってしまうのよ>
<突き落とされたように、死を強く意識してしまうの>
 彼は既読だけをつけて、返信はなかった。いくらかあとにはこうあった。
<ごめん。なんのことかよくわからないや>


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