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短篇小説:ソルボンヌ大学にて


 僕がソルボンヌにいたころ、雨になると外に出て踊り出す女の子がいた。
 彼女はおさげ髪に花柄のワンピースというかっこうで雨の下に飛び出してきては、くるくると踊った。

 僕がその子のことを知ったのは十月の第一週だった。あのとき、サニーに教えてもらったのだ。サニーと僕はその日ずっと図書館で勉強していた。生物学の講義で来週末に中間テストを控えていたからだ。サニーも僕もその講義を取っていたのだが、サニーは不勉強のために、僕は要領が悪いために、授業の内容はさっぱりだった。テスト範囲は広く、古生物たちの大絶滅から、森林の形成、水生生物の進化まであった。僕たちはその週のほとんどをそのテスト勉強に費やしていた。図書館にひきこもり、かび臭い本たちをあらためていた。ランチのとき、サニーは「うんざりする」と言った。
「本当にうんざりするわ」サニーはそう言った。指でスプーンをいじっていた。
 僕はうなずいた。
「昨日なんてね、バージェス動物群が私の足の上でうじゃうじゃしてる夢をみたのよ。雨から帰ってきて長靴を脱ぐとね、何百匹ともしれない古生物が私の足の表面をびっしり覆っているの。初め、足は灰褐色に見えるだけなの。でも目が慣れてくるとね、そこでとても小さな虫たちがうごめいているのがわかるのよ。私は長靴のふちで肌をこするようにして虫をそぎ落とすの。それでね、長靴のなかからは乾いた音が聞こえてくるのよ。覗くと、虫たちが標本そっくりの姿でこっちを覗き返してくるの」
「アノマロカリスや、ハルキゲニアがいたんだね」
「オパビニアもいたわ」
 僕はまたうなずく。彼女はスプーンを宙に泳がせている。
 僕は彼女の足元を見る。すらりと伸びた黒く弾力ある筋肉が、鮮やかな黄色のナイキに収まっている。
「そうよ。長靴は捨てたわ」
 僕は驚いて言う。「捨てた? 夢の話なんでしょ?」
「悪夢は十分な理由よ」舐めて綺麗にしたスプーンを両目で見つめながら、彼女はそう話す。彼女の艶々しい黒の頬、美しいコントラストの真っ白な歯がスプーンに輝く。僕は「その長靴をもらっていいかい?」と尋ねる。彼女は「いいわよ」と言う。
「まだゴミ捨て場にあるんじゃない? 廃品回収は水曜日でしょ」

 僕とサニーは寮に戻った。途中長靴を回収した。僕は雨の中でそれをひっくり返してみた。溜まった雨水が流れ出て、おしまいだった。

 僕らは濡れた服を着替えた。そのあと一時間ほど愛し合った。情事のあと、僕は裸のままでベッドに横たわり、話をしていた。サニーは窓から外を覗いていた。そして、「あそこで踊っている彼女」と言った。
「いつも楽しそうね。あの子、とても素敵だわ」
 僕も彼女の頬にぴたりと顔をくっつけて外を覗いた。その姿は、踊っているようには見えなかった。
「彼女、雨になるとああやって踊り出すのよ。知ってる?」
「知らない」
「とても素敵よね」
 僕には女の子がくるくる、くるくる、空を見上げて回っているようにしか見えなかった。
「あれは踊っているの?」
「ええ」

 それから一人でいるときも、雨が降ると窓から覗くようになった。たしかに女の子は外で回っていた。一階の外廊下と、内玄関の間に設けられた、レンガ造りの中庭で踊っていた。ひどくゆったりとしたリズムで回るので、それは儀式めいて見えていた。
 女の子はだいたい薄緑で日に焼けたワンピースで踊った。ときどきはべつのかっこうで踊った。時間のあるとき、僕はもらった長靴を履いて外廊下に出た。たしかに彼女はそこで踊っていた。背は高く、鼻は低く、目はうっとりしたように垂れていた。外見について言えば僕の好みから外れていたが、僕は彼女と寝たいと思った。中庭には、僕と同じように彼女を見る人々が出てきていた。

 僕はその女の子と寝ることはなかった。彼女は二つ上だったらしく、僕がぎりぎりの点数で一年目を合格したあとにいなくなってしまった。サニーもいつのまにか消えていた。
 せっかくなら彼女をカフェに誘っておくべきだったと後悔している。僕は彼女の踊りを何度も見に行っていたのだから、そのチャンスはあったのだ。
 彼女に関する最後の思い出は春分のときのことだ。僕はいつものように階段を出てすぐの壁にもたれて、彼女を眺めていた。うっとりと、雨を浴びて回転する彼女はひどく幸福めいた表情をしていた。彼女の踊る姿は東洋の島々に咲く赤い花のようだった。
 僕も彼女を見つめてうっとりとしていた。夢のようにすべてを忘れていた。一人の男が僕に話しかけてきた。彼は門番だった。
 門番は彼女について噂話をした。
「彼女はね、先月家族を亡くしたらしいよ」
 僕は訊ねた。
「どうしてそんなことを知っているんですか?」
「彼女がバーで泣きはらしていたんだ。彼女の友達が聞いてやっていたんだが、どうやらその訃報のためらしい」
「彼女に友達が?」驚いた僕が聞き返すと、門番も驚いたふうにこっちをまじまじと見つめた。「そりゃ友達はいるさ。彼女は大学のなかで人気なんだろ?」
 僕はそんなことは知らなかった。てっきり、彼女は誰とも繋がりをもたないものだと思いこんでいた。
 しかし、考えてみればそんなことはおかしい。これだけの人がこうして彼女に夢中になっているわけだから、彼女は人気があって当然なのだ。
 それでも僕は門番の話を受け入れ難かった。何も言えず、ただ愕然としていた。僕はそのとき、ひどく突き放された気分になっていた。太陽を想って伸びてきた蔦が、地下室の天井を初めて知ったような感覚だった。僕は彼女が孤独な女の子であると信じていた。孤独なために、雨で踊るような子であると思っていた。そんな孤独な彼女が僕の胸の中で息づくような妄想が嬉しかったのだ。
 よろよろし、狼狽する僕を見て、門番は不審がっていた。僕はそれでも彼女を見やっていた。
 彼女は雨に踊って、いまではびっしょりとなっていた。それでも笑いを絶やさず、いま空から信じられないような恵みが降りそそいでいるかのようにゆったりと回っていた。そこには死も生も愛もない、まるっきりの天国がやってきているように恍惚としていた。



*2021,05,09に微調整

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