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日記:とても若くて

 まずは想像が大事だ。想像してみよう。僕たちが過ごしているこの夜が一層深くなる様を。夜の肌が黒々とぬれて、ぬらりと艶っぽく光を返している。低く響く声で歌をうたっている。僕たちは深夜には逃げるように歩いた。アスファルトから街路樹に至るまで、そこにある全てが僕たちを襲うかのように感じられていたからだ。
 明日起きられないと、深夜一時すぎに悟ったとき、僕は夜に出て燃えるゴミを片手に走った。アパートを出て、小さな路地を抜けた先にゴミ捨て場はある。それは地図上で見ればほんの鼻の先のような近さなのだけど、それでも僕はびくびくする。外に出てすぐに、尋常ではない気がする。知らない、古い土地に迷いこんだような閉塞感に襲われる。僕はひどく不器用な小走りでゴミ捨て場に急ぐ。ぱたぱたと、軽いまりみたいな足音を立てて――ぱたぱた、ぱたぱた――住宅街のそのゴミ捨て場につく。当然ネットは畳まれたままでいて、やはり静まりかえっている。僕は音を殺して近づき、青い色をした袋をそっと添えるようにそこに置く。それから振り返り、いま走ってきたその路地を戻っていく。不器用に急ぐ。ぱたぱた、ぱたぱたと、まるで心の弱い泥棒みたいに。

 僕はしばしば思う。これは日記なのだから、もっと素直に書けばいいのに、と。僕は満足できないでいる。自分が素直に、あるいは上手く書けないことについていら立っている。


 眠い。僕はいま、すごく眠い。比喩にもならないほど眠たい。千年の時にわたって不眠不休で山を掘っていた孫悟空、その彼よりもずっと眠たい。これは比喩にもならない。
 僕は早起きする。山陽垂水で待ち合わせがあって、それに間に合うように電車に乗る。当然山陽電車だ。
 僕は電車の中で本を読む。アリス・マンローの『ジュリエット』。そのうちの「トリック」だ。その内容は僕を強く惹きつける。言葉の流れや、完璧としか言えない裏切りに、僕は憧れる。こんな文章を、僕もいつか書くんだ! そう思って、わくわくする。
 それから少し経つと、気持ちは切り替わる。空模様のように、考えはさあっと冷めてくる。実際のところ、僕にはこのような文章は書けないだろう。そう思う。もっと言えば、彼女のように書く必要はないだろう。僕は彼女より感覚的で――その人間のつくりのところで不器用だからだ。
 ただ、彼女の名声を否定したわけではない。むしろ、僕は彼女の名声について不服を感じていた。”あり得ない”。そう感じる。僕は思うのだ。”シェイクスピア、ヘミングウェイ、そしてアリス・マンローだろう”。
 そして電車が山陽須磨について、僕はあわてて本を閉じる。ホームに出て、西口を探す。どこだろう? 迷いながら駅員さんにここは西口かどうか訊ねる。”ここに出口は一つしかないよ”。冬なのに駅員さんは着崩している。海の人独特の、おおらかでいい加減な声でそう話す。
 僕はゆったり須磨を歩きながら(待ち合わせは山陽の西口ということだったけど、おおかたJRと間違えたのだろう、そうのんびり考えている)向こうの駅へ歩いていく。二月の、家の近くでは小雪の降りしきる厳寒の日であっても、須磨は嘘のように晴れている。暖かくさえある。僕は良いなあと思う。このような海の土地に住んでみたい。光が分厚い生地のようになって、須磨を明るく見せていた。JRの高い駅から海を見ると、まったく僕は晴れがましい気分になった。大人しく、様々な言い訳を諦めて、さっさとここに住むべきではないのか。僕はそう思いながら約束の彼を探していた。そして、そうやってぼんやり須磨を愛しているとき、ほんと不意に、待ち合わせ場所が山陽”垂水”であることを思い出したのだった。


 僕は書きたいと思うことがある。音楽を聴いていて、「ああ。僕もこのように書きたい」だとか、「この音楽なら、こういうお話があるだろう」みたいに思うことがある。そしてこのことを考えるとき、僕は理科の実験を思い出す。日当たりのいい、白い棚のうえに飾られた植木鉢。そして、棚の内側の暗闇に閉ざされた植木鉢。一週間のあとに暗闇から先生が取り出したインゲンマメは僕に強い印象を与えた。どうして暗闇のなかで、あれほど白くなるのだろう? どうして暗闇のなかのインゲンマメは醜くて、不気味なのだろう?

 僕は座っているのが苦手だ。布団や、ソファといった、やわらかく暖かいもののうえで横たわっていたい。あるいは、全てを忘れてそこに立っていたい。
 もちろん全てを忘れることはできない。当然だけれど、僕にとっては重要なことだ。全てとは言わなくても、僕には忘れたいと思うことがたくさんある。でも忘れられないから、ただ立っていることはできず、無目的に歩き回っている。歩き、振り向き、かがんで、見つめている。手に取り、意見をもつ。ちょうどあなたと同じように。
 実際のところわれわれはずっと横たわっているわけにはいかないし、ずっと歩き回っているわけにもいかない。多くの人は――オフィスで――座りっぱなしということだ。
 つまり何が言いたいのかと言うと、私たちが求めているのは常にシンプルな答えであるのに、実際のところはその中間を強いられるということだ。0か1。本当はそのどちらかでありたい(いっぺんの曇りなしに善人でありたいし、そうでなければ極悪人でありたい)のに、バランスを求められる。ハイ、ハイ、ハイ、ハイ。手拍子のリズムに合わせて、右脚を上げて。ハイ、ハイ、ハイ、ハイ。それを伸ばして。そう、バランスを取って。
 ときどき、どこかに放り出された気分になる。実際にはそれは気分ではない。夢を見ているのだ。全てを失い、拠り所なく放り出された夢。ただし現実の問題はそのままで、靴のように僕と一体で付きまとっている。
 その夢のとき、僕はきまって駅にいる。それは僕の知っているあの駅に似ている。だけど、少し歩いてそこを曲がると、違う駅だとわかる。知らない駅だ。
 そこで僕はひたすらに孤独で――辺りにいるのは知らない人ばかりだ。知らない人が僕のわきをすり抜けていく。僕は困っていて、どうしようもなく、泣きそうだ。
 そんなふうでも僕は泣いてはいけないのだ。完璧に元気か、心の底から号泣していたいのに。ハイ、ハイ、ハイ、ハイ。手でうつ、乾いたリズムが聞こえてくる。ハイ、ハイ、ハイ、ハイ。
「バランスを取って」
 僕はその駅で困っていて、泣きたくなっている。けど、声は”バランス”と言う。
「右脚をあげて、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」
「それで次に伸ばしていって、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」
「さあ、バランスを取って。1,2,3,4……」
 手拍子がうたれる。
 ハイ、ハイ、ハイ、ハイ。
 
 そういう夢。

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