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(勝手に)私の履歴書(6) 新体制での約2年を経て本厄で下した大きな決断、後押ししてくれたみなさまへの感謝

偉人でもなければ他人から尊敬される人間でもない私ですが、この年齢(53)になっても好奇心が衰えず、新しいことに興味が湧く性格が災いし、スリリングな人生を歩む羽目になってしまった自分の半生を振り返ると共に、私がどう言う人間かという履歴を残したく、(勝手に)私の履歴書なるものを書いてみることにしました。本家、日本経済新聞の「私の履歴書」は成功者の歩みを綴るというオーセンティックなものですが、自分自身にそんな資格があるわけもなく、ただ、自己満足のために不定期に綴っていくことをお許しください。それでは第一章最終話(第6話)のはじまりです。

新体制下でのEC業務

置き引き騒動があり、更新するのが遅れていた本noteですが、今話が第一章最終話となります。お話した通り2006年から通販の雄だったセ◯ールはライ◯ドア体制になりました(後半はもはや伏字にもしていない)。新体制直後、鶴の一声でマーケ部門からEC部門に戻された私は新体制下であらたなチャレンジを重ねます。前話で「兄ちゃん」と表したWebディレクター出身の新本部長のもと、全社もECファーストでおもしろいことをどんどんやって行こうという気運となり、少し停滞気味だったEC部門は息を吹き返すことになります。
チームスタッフも他部署からの異動者が増え、私自身も仕事の幅が広がりました。チームの業務としては、ECマーケティングがメイン。サイトの企画、コンテンツ制作、キャンペーン、そして携帯サイトの運営(着メロではMTIさんにお世話になりました)、当時としては早かったレコメンド(ブレインパッドさんのRtoaster)の導入でシナリオ作りに四苦八苦。
また、ホロっと泣けるような漫画コンテンツでアパレルを売ることにチャレンジしてみたり。アフィリエイトも当時まだ三井物産系だったリンクシェアとは本当にいろんなチャレンジをさせていただきました(Yさんありがとう!)。
一方でしっかりとECの考え方をカタログビジネスに根付かせるために、商品部にはEC時代に合わせた商品マスタ設計をお願いに行ったり、カタログに閉じた商品開発や誌面作りからの脱却を啓蒙していくなど、今でいうところのDXに似たこともこの頃やっていた記憶があります。

思い出深いキャペーン

この頃がんばっていたPRイベントやマストバイのプレキャン仕掛けは今でも非常に思い出深いです。中でも私の記憶に残っているのが、以下のようなもの。残念ながらクリエイティブが残ってないので伝わりにくいのですが、
1. リムジン乗って韓国宮廷料理コースを食べにいく
当時流行っていた韓流ブームに乗っかり、キャンペーン当選者にはヨン様が日本に来たら必ず乗っていたリムジンでお迎えに行って、最高級の韓国宮廷料理レストランでコース料理を食べる
2. あの有名人と過ごす権利が当たる
と題して、当選者数名は料理上手なキム兄の手料理が食べられる。これはキャスティングがなかなか決まらず、キャンペーンがスタートしたのにクリエイティブ上、有名人はシャドーで誤魔化し、決定したらオープンにするというものでこちらはヒヤヒヤものでしたが、誰と過ごせるのかわからないことが返ってお客さまの興味を掻き立て、ネット上には「誰なんだ、あのキャンペーンの有名人って」というのが騒がれました。Twitterとかない時代だったのが悔しいですw
3. 宝くじ100万円分が当たる!
まあ当たるか外れるかはわかりませんが、マストバイで1名様に100万円分のジャンボ宝くじが当たるってのをやりましたね。実際に西銀座チャンスセンターや大阪、高松で宝くじを計3,334枚、分散購入し、スタッフがその購入に行く様を撮影してコンテンツ化、キャンペーン自体を盛りあげました。もちろん当選された方に差し上げるのですが、一体いくらになったのかというのを検証するため、購入した宝くじは番号をすべて控えましたね。今だから言えますがあのときの宝くじは結局大当たりなどせず、20数万円だったと記憶してます。

多くの打席に立てたこの頃

また、部門の別チームといっしょにやったことでは、専門店ECの開発。ライ◯ドアデパート(懐かしい!)に出店し、世界中のミネラルウォーターを販売するサイト(毎月ホリ◯モンからのオーダーが入っていた)や、ドールハウスを販売するサイトを作ったりしましたね。そういえば、EC専売のサプリも作りました。OEMメーカーにお願いして男性向けのサプリでゴルフスイングしている人がドーンとラベルに描かれているサプリ。名前を「飛ぶサプリ」って付けたかったけど、確か絶対ダメと言われた記憶があります。まあいろんな意味でダメでしょうけどね。
同社を辞める少し前にはアダルトグッズのECをやる企画にも参画しました。いろんな意味で思い出深いです。
そうそう、創業オーナーがコレクションしていた絵画やこけし、陶器や磁器たちを古物商に売り渡すようなミッションもありましたね…
今思えば、人一倍多くの打席に立たせてもらえたと思っていて、当時の本部長や部長には感謝しかありません。チームのみんなも本当によくがんばってくれたと思います。
そんなこんなでEC部門は新経営体制のECファーストな考え方もあり、人員も増え、私が在籍した約15年の中で(自分の仕事としては)もっとも楽しく忙しい時期を迎えました。特に、新本部長の存在は大きかく、当時の私たちチームにWEBの楽しさを共有しつつも、事業は利益、儲けることのむずかしさやコスト意識の大切さをよく語ってくれました。気づけば、部門は攻めも守りもバランスよくできる集団になっていった気がします。

2006年末の"感謝の手紙"

2006年、難しい船出だった新体制は、どん底だった前年80億の赤字から黒字転換する実績を出しました。この年の年末、部門の忘年会幹事を仰せ使った私は新社長に「EC部門の忘年会に出て欲しい」とお願いしたのですが、多くのお付き合いが重なり多忙だった社長は「わかった。30分しかないけど顔を出す」と言ってくれました。忘年会が始まり、30分近く過ぎたところで社長が駆けつけてくれ、挨拶してくれました。「みんなよく頑張った!」と。少しの間、皆と談笑し、会を中座される際に私に封書を渡して来られたのです。「照れ臭いからお前がみんなに読んでくれ」と手紙が入ってました。忘年会の最後に司会の私は社長からのお手紙を代読したのです。

この一年間、EC部門のみなさまにおかれましては、本当にお疲れさまでした。そして素晴らしい業績への貢献、本当に感謝してもしきれません。ありがとうございます。社長に就任し、期待と不安が交錯する中、みなさんの存在、熱意や頑張りは会社全体を常に明るく照らしてくれるものだったと思っています。本当にありがとう。年末年始、ゆっくり休んでまた共に戦いましょう。

代読しながら、自分自身の一年がフラッシュバックし、何かホッとした感情から涙が湧き出てきそうでした。堪えるのに必死でした。2006年は本当にみんながんばった一年だったと思います。

心の変化

2007年、前年に引き続き、忙しい毎日が進む中、私の心に少し変化が芽生え始めます。社長、本部長、部長、チーム、それはもう厳しくもあり楽しい毎日なのですが、仕事にハマればハマるほどもっと成長したい、もっと別のチャレンジがしてみたいと欲が出るようになってきました。最初はただ漠然としたものでしたが、時間が経過するにつれて、ふたつの感情が芽生えま始めます。
自分がやってきたことを別の会社か事業で試したい
今より上のレイヤーで物事をジャッジしてみたい
特に後者においては、自分がリスペクトする兄ちゃん本部長がいる以上、私はEC部門のトップに立つことはないし、別の部門でプロモートしたいわけでもない。一緒に仕事をする中で多くのことを教わった結果、その学んだことを上のレイヤーで活かすにはここを出るしかないという考えにたどり着いたわけです。その年、私は41歳、男として本厄の年であり、バカボンのパパと同じ年齢でした。そしてこの頃、月に何度も東京に出張に行くようになったせいで外部とのコミュニケーションがそれまでの何倍も広がり、いわゆる転職に関するオファーが舞い込むようになり、私は仕事の合間に自分の価値の再定義に勤しんだのです。

魂の決断

心の変化というのはいったん訪れると悩みの中で埋もれてしまう瞬間もありつつ、実は止まることを知らず、着実に進行していくものなのですね。
私は悩んだ末に15年近くお世話になった会社を辞め、ご縁いただいた会社に転職する決断をしました。
真っ先に本部長に打ち明け、その夜二人で飲みました。もちろん驚かれましたが話すうちに理解していただきました。たくさん人生の話をしましたね。
翌朝、本部長から「早めに社長に伝えてほしい」と言われ、社長室へ。
辞意と伝えると「なんやて?」が第一声でした。二言目には「今時間ないから夜聞く。空けとけ、店は俺が決める」でした(笑)
その夜、社長、本部長と私の3人で社長行きつけのステーキハウスに行き、飲む前にまずは事情をきちんと説明しました。

そこまで言うからには、心はちゃんと固まってるようやな。それなら俺は何も言わん。前に進むなら進むがいい、その代わり、決めたことを後悔するような人生は送ったらあかん。それだけ約束してくれ。

これが社長の言葉でした。そして「そうと決まったら今日はお祝いや!オーナー、ええワイン抜いてくれ!」で、ベロベロになるまで飲みました。

卒業

2007年8月、15年近く勤めたセシールを卒業することになりました。41歳の初夏に下した大きな決断です。
最後、あらゆる部署のいろんな人に挨拶に行きました。「辞めます挨拶」だけでいろんなビルに行かねばならず3日間くらい費やしました(汗
最終出社日には私がいた本社ビルの人全員がフロアに集まり、みんなの前で最後の挨拶をしたことを覚えています。そんな機会を与えてくださったみなさまには本当感謝してもしきれません。あの時お話しした「いつかみなさんに恩返ししたい」という気持ちは今なお忘れていませんが、残念ながら直接の恩返しはできていません。
辞めて12年経ち、ディノスセシールとなった今でもなお、セシールのことはいつも気にかけています。そして、烏滸がましいことを言うと、あの最後の挨拶の瞬間だけに限って言えば、私は「セシールを愛し、セシールに愛された男」だったと言えます(笑)みなさん、本当にありがとうございました。

新たな旅立ち

今でこそ何度か転職してますが、新卒の会社を辞め、Uターンで高松に戻りセシールに拾われた人生で自分なりにやってみて、ECやデジマという居場所を見つけました。ただそこは安住の地ではなく、また別の成長を求め転職することになりました。しかも本厄での決断。そして、もっとも大きかったのは東京に出ていくということでした。大学から東京に出てきている、あるいは大学を出て東京で就職するというプロセスとは異なり、東京での社会人経験がないオッサンが41になって東京に出てくる。今思えばまあまあチャレンジしてますよね。
家族には本当心配をかけました。東京に出て行って尻尾巻いて帰ってくるかもしれないと思い、最初は家族を帯同せず、一人で行ってくると決めました。新富町でマンスリーマンションを契約しました。
俺は東京でもなんとかやれそうだ。そう思えたら家族を呼ぶ、そう決めて2007年9月から東京での新たな生活を決めました。
8月28日、旅立ちの日。月に何度も東京出張で向かった高松空港までの道のりがいつもの感覚とは異なってました。運転してくれる妻の口数も少なかったと記憶してます。3歳の倅は無邪気に笑ってます。父は一人で東京さ行ぐだぁとなってますがそんなことは露知らず。空港ではまともに家族の顔を見られなかったですね。「とにかく行ってくるわ」「元気で」そんな会話だったと思います。新富町のマンスリーマンションに着いて荷物を広げたら、私のカード類が入っているケースからこんなものが出てきました。妻と倅からの私へのエールでした。"パパよ、東京で人生のホームランを打ってこい‼︎"
涙が止まりませんでした。

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さて、好き勝手に綴ってきた「(勝手に)私の履歴書」、ここまでを勝手に第一章と位置付け、終了としたいと思います。次回、来年となりますが、第二章、東京での新たな人生を綴っていきたいと思います。ホームランはおろか、ヒットもままならぬ毎日や多くの新たな出会い、挫折、そんなお話を綴っていければと思っています。
第一章、ご愛読いただき本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします!(第一章 完)

Cover Photo by Simon Maage on Unsplash