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(勝手に)私の履歴書(4) 創業者体制の終焉〜結果の出ない新体制、そして変革期へ

偉人でもなければ他人から尊敬される人間でもない私ですが、この年齢(53)になっても好奇心が衰えず、新しいことに興味が湧く性格が災いし、スリリングな人生を歩む羽目になってしまった自分の半生を振り返ると共に、私がどう言う人間かという履歴を残したく、(勝手に)私の履歴書なるものを書いてみることにしました。本家、日本経済新聞の「私の履歴書」は成功者の歩みを綴るというオーセンティックなものですが、自分自身にそんな資格があるわけもなく、ただ、自己満足のために綴っていくことをお許しください。不定期に更新していきます。それでは第4話です。

創業者時代の終わり

右も左もわからないところからEC業務が始まり日々忙しくしていました。当時のECの大義はネット時代の幕開けへの対応はもちろんのこと、カタログ会員がECへスイッチしていただけることで会社にとっては受注コストを大幅に削減できる目的が重要でした。前回にも触れましたが、いろんなことをやらせてもらいました。もちろん一筋縄ではいかないことやチーム全体で本当に苦労したことも多々ありました。NTTドコモの iモード公式メニューなんて、電話帳みたいな資料作らされて全国会議とやらに提出して承認下りずにやり直し。。。ぶっちゃけ疲弊しました。心を痛めて離脱した後輩もいました。今思えば二度と携わりたくない物件です。その後、自社ECのみならず新規開拓と顧客接点作りということでモールに出店もしました。この頃私は30代前半。毎日を慌ただしく忙しく過ごしていましたが、社会人になって初めて仕事がおもしろいと思っていた時期でした。自分の仕事は忙しく楽しい、そんな中、会社は大きく変わり始めていました。業績は1997年の2082億をピークに下降線を辿り、通販界の礎を築いた超ワンマン創業社長は業績不振と経営陣の若返りとして退任することを決断されました。そのバトンを受けた第二代社長は、青い銀行グループから招聘された人物でした。2003年の出来事です。そしてこの交代劇から会社の業績はさらに悪化し始めます。

新体制は苦難の船出

新体制となって大幅な改革がありました。某大手広告代理店と包括的戦略パートナー提携というなんだかよくわからないお見合いが成立します。そして、大きな転換のひとつとして、創業者がずっと守ってきた魂(ソウル)とも言えるカタログのクリエイティブ変更がなされます。従来守られてきた"見やすく注文しやすい"カタログ作りは、見方によってはダサく映っていました。が、社内の声としても雑誌風に洗練された情報誌を欲する声は多く、伝統を一度壊し、編集されたファッション雑誌のようなテイストにすべて刷新していったのです。結果はどうなったか、その刷新されたカタログに既存顧客は戸惑い、アレルギーを示し、稼働顧客が大幅減少。非常事態宣言でした。カタログの刷新は上述した通り、それまでに何度か行ったグループインタビューや顧客アンケートでもお洒落な雑誌風にして欲しいという意見は多かったのです。社はファッション誌の元編集長を起用するも、彼らには見やすいわかりやすいカタログ作りのノウハウがなかった(結果的に)。それを見過ごしてしまった私たち側にも非はあります。いくら誌面がお洒落でもスペックが見やすく、注文コード等が読みやすい、また後ろ姿や細かい箇所まで拡大写真が載っているなど、お洒落だけでお客様の食指は動かないし、動いたとしても写真と違うということでの返品リスクにつながるのです。出来上がりに関しては確かにお洒落でカッコよくなった。しかしながらお客様の反応がすべてでした。大きな勉強代を払ったような気がしました。「売る面は適度に汚せ」これは私が尊敬する某氏の言葉、キレイなだけでは人の心は動かない。しっかりとわかりやすく作ること。これは今のウェブの作り方、ECの商品ページ作りにも生きていると思っています。
通販会社で稼働顧客が減るということは業績に大きく跳ね返ります。そして、2004年に会社は初の早期希望退職に踏み切ります。何百人辞めたでしょうか。募集期間に辞める決断をした同僚数名から「大西さんは何でこんな美味しいチャンス(退職金割増が相当優遇&再就職フォロー1年間)に辞めないの?」と言われました。多くの優秀な方が辞めました。それでも私は留まりました。なぜか。その当時は私もまだ青かった。会社は苦しかったけど、ECは紛れもなく社の成長のドライバーでしたし、この状態から現場力で会社をどれだけ戻せるかやってみたかったからです。それに上が抜けることは自分にとってもプロモートのチャンスがあるかもしれない、と。売上2000億を超えた92年から10年強で2003年に958億と半分以下まで落ち込んでいったのです。

餃子に関するちょっとした事件に遭遇

リストラ後(前だったかちょっと記憶が曖昧)、社内には構造改革の名の下に経営刷新プロジェクトが立ち上がりました。多くのタスクフォースが立ち上がり、さまざまな業務改革や新規事業を議論する場ができていきました。私も物流改革のタスクフォースに参加し、社内のさまざまなメンバーとサプライチェーンの見直しを考え「明日来る?今日来る?きっと来る?」なんてことを言ってた記憶があります。記憶は少し曖昧になりましたが、ちょっとした事件の対応もすることになりました。
あまり詳しくは書けませんが、ある時期に販売していた餃子があったのですが、この餃子、とある地方の有名餃子店の監修による冷凍餃子という触れ込みでした。ところが、その餃子店から「あの時、御社が販売しているのはうちの店のものと似ても似つかない偽物だ」という通報があり、事件に発展してしまったのです。朝、出勤すると本社屋の前に何台ものパトカーが止まっていました。その地方の県警の車輛です。業務開始後、県警の方々が入ってきて「はい、手を止めてください」と、まるで強制捜査みたいな感じ。EC部門では販売データと受注データを提出、ECのマネージャーだった私と上司はデータを準備したりで大慌て。販売実績とか納品書写しなどは時間が経過していたため、経理の倉庫に伝票を探しに行きました。該当伝票が入っている段ボール箱を見つけ、担当刑事に伝えると、他の警官が「はい、その段ボール箱を指差してください」と言い、私が指差した瞬間に、写真を撮られました。。。結果、餃子企画を持ち込んだ企画会社がダメだったわけで会社には責任がなかった(まあ100%ないことはないと思います)わけですが、あんまり良い気がしなかったのとあらためてお客様に対し責任を持って臨まないといけないと思った事件でしたね。ちなみにこの話は週刊誌にも載ったお話ですので書いてみましたが、何か圧力があれば消すかもしれません(笑)

閑話休題(誇れる仕事とユニークな出来事)

ちょっと時代が前後しますが、私が15年近く在籍したこの会社でEC以外で主担当として推進したことがいくつかあります。今では当たり前になっていることや当時世界初と言われたことです。
1つ目:コンビニ収納(いわゆるコンビニ後払い)
1995年か96年ローンチだったと思いますが、その当時、通販代金は銀行振込か郵便振替しかありませんでした。当時、コンビニで支払えたのは電話、電気、ガスといった公共料金のみ。95年当時の郵便局は24,500、対してコンビニは29,000店、郵便局での振込は15時で終了。コンビニは24時間支払える。郵政省専用のフォーマットをコンビニ併用のフォーマットに変更するレイアウトをコンビニさん、社内システム部、OCR入力担当などとコンマ数ミリという調整をして実現しました。この頃はメジャー、ローカルのコンビニさんにカウンターサービスの導入折衝ばかりで出張してましたね。これ、わずか数日だったと思いますが、業界では一番最初にローンチしました。
2つ目:トラベラーズチェックのオンライン販売
もうサービス自体存在せず死語ですが、アメックスさんと「トラベラーズチェック」をオンライン販売しました。これ、世界初です。2001年スタート、2013年終了。この頃は結構アナログで、毎朝9時になったら某銀行のサイトで当日のレートを確認し、自社サイトのバックエンドからレートを入力して販売開始。毎日手入力(笑)旅行で必要としていた方よりも投機目的で買っていただいてる方が多かったという印象です。この頃、荻窪のアメックスによくお邪魔してましたが、担当の女性マネジャーがとにかく美しくてタイプで、荻窪に行くのが何の目的なのか忘れてしまうことすらありました。
ユニークだったこと
同社は出社するとスリッパに履き替えます。スリッパは支給されてます。洋服を扱っていて、外からの塵などを中に持ち込まないとされてました。打ち合わせ等の来客も同様に受付済ませたらスリッパに履き替えます。私はもともと繊維関連企業勤めもあり、関西の中小アパレルさんがスリッパに履き替えるところが多かったため、気にならなかったのですが、初めての方は驚いてましたね。創業社長から代変わりしたころかに廃止となりました。何より創業社長時代に「スリッパの法則:履き替える会社は成長しない」といったタイトルの書籍が出ていたのを社員みんなで苦笑しながら読んだのを覚えています。あと、タバコ、私、2003年に禁煙したのですが、社長がタバコ嫌いで、喫煙者が弾圧されているかのごとく、喫煙スペースがなくなっていきました。6階建自社ビルの各フロアに喫煙スペースがありましたが、3フロアに1箇所、最後は1階駐車場横のみ。しかも喫煙者はエレベータでの乗り降り禁止という。残り香がお嫌いだったのでしょう。それまで喫煙者だった私は6階勤務で1階までの上り下りが嫌で吸わなくなりました。

おまけ

今回は横道な話が多かったのですが、代変わりした新体制でのイノベーション策はなかなか効果が出ず、社はなんとなく迷走していくことになります。そしてその後、私が在籍した中で一番大きな波が起きることになります。その話は次回。

そして、前回お伝えできなかった妻との話を少し。付き合い方2.0(単なる遠距離恋愛)となり、月に1度(私が関西に行ったり、妻が高松に来たりという)の交際に変わりました。忙しかったのもありますが、週末とかは本当ヒマだったので毎週のようにJRA場外に行き、会うための資金作りに勤しみます。月に1度ではありましたが、毎日のように電話し、くだらない話をしました。妻の親御さんは心配していたと思います。若く金がないため、関西に行っても妻の実家に泊めてもらってましたから。「この男はいつになったらもらってくれんねん!」と思っていたことでしょう。そういうお付き合いを経て、97年11月に結婚することになりました。遠距離4年。よくお互い切れなかったですね、ほんと長かった。2ヶ月に一度は泊まりに行ってたのに、同年の春に正式にご挨拶に伺ったときの緊張感は今でも忘れません。もう二度と経験したくないですね(笑)
では今日はここまで。次回は同社最後の章。最後の大変革のお話です。

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