支援者を考える~ASD当事者の立場から

 最近、Twitterで「他児を威嚇し、食卓をひっくり返し、職員を殴って開き直る子ども」がいる現状を分かってほしいという支援側のツィートを読みました。確かに読む限りは大変な事態だと思いましたが、同時に喉に小骨が突っかかるような感覚を覚えました。今回はその違和感について書いてみたいと思います。
 「支援者も子どもと同じ人間だし、子どもと言えども暴力は許されない。この事態を収めて職員と子どもによりよい環境を整える必要がある」ー普通ならばそう考えるのも不思議ではないですし、否定もできません。それでも違和感は残ります。
 まず、支援者と子どもは同じ人間でしょうか。答えは否です。支援者と子どもは非対称的(対等ではない)な関係なのです。だから支援者は子どもを対等にする必要があります。支援者と子どもは10対1ほどの差がある関係と考えると、支援者はそれだけの権限や権利を有しているということになりますが、子どもには付与されていません。なので支援側に相当な制限と縛りを掛けて対等にする必要があります。そう考えると、この子どもは対等にしてもらっていないと言えるかもしれません。だから、支援側に対し理不尽さを感じて暴力という形で表出したのではないでしょうか。暴力は確かに許されるものではありません。しかし「暴力を振るう子ども」としていることから、その子どもに責任を転嫁して支援者が責任回避する姿勢も透けて見えます。
 確かに何らかの解決策により、この子どもの言動を抑えることはできるでしょう。支援者には絶大な権限がありますから。しかし、非対称的(対等ではない)な関係に無自覚であろうことを考慮すると、子どもに責任転嫁してしまう可能性はあります。これは支援側による「暴力」になります。子どもが暴力を振るうと言いながら、支援側が暴力で応戦してしまう。これが同じ人間だからという考えの下、行われている可能性があるのです。これは究極の暴力と言われる戦争のような状態です。
 私は子どもの暴力を受容しろと言いたいのではありません。支援者であれば、自分たちと子どもの圧倒的な力関係を考えた上でそれに対応する必要がある旨を書いているだけです。また、支援者は自身が考えている以上に権限や権利を付与されていることも念頭においてもらいたいと思います。もちろん、支援者という立場に男性/女性だからは使えないと考えなくてはいけません。
 ここまで最近のTwitterから感じた違和感を整理してみました。そのTwitterを出した方は後に書いた内容を反省するようなツィートを出していたようです。それが支援につながることを願っています。
 私はASD当事者の1人として支援者に日頃から接しています。支援者の諸事情に関して分からない側面はたくさんあります。ただ支援者には疑ってかかる姿勢を持ち続けたいと考えています。国民が政府をチェックするように、利用者として支援者を評価する必要があるからです。また支援者を評価することは社会を見つめることにも直結するからです。支援者の考え方は社会の常識や価値観等が反映されています。そこでは支援者が社会に盲従しているかどうかも理解できます。なので、非対称的(対等ではない)な関係を前提とした「利用者ー支援者ー社会」という関係の理解は重要になると考えています。
 長くなりましたが、ここまで読んでいただいた方に深く感謝申し上げます。
 
 

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