見出し画像

小説「おおなみ、こなみ」

あらすじ

わたしはシロアリを招いた。自分が先端に立っていると知っていながら。

来週、家族と共に新居へ引っ越すことを予定している主人公。そんな彼女はある日、ひょんなことからシロアリを自称する昆虫と出会う。彼女の事情と申し出を聞き、主人公はその害虫を家へ招くことを決めるのだが……

かつて無敵だった自分。あらゆるものをつくれた自分。しかし、それはもう、ただのひとつも。
新居とシロアリ(自称)の間で紡がれる、生まれてきたこと、あるいはそこから続いてしまう、重ねていかざるをえないものへの諦観の話。


本編


おおなみ、こなみ 大滝のぐれ


   ●

 かつてわたしは神だった。壊してはつくって、つくっては壊して。触れるものすべてが素材で、わたしのやわらかいてのひらにかかれば、それらはあますことなく意味を持った。子供の唾液が染み付いた積み木、日曜日の新聞に挟まっていた色とりどりのチラシ、いつか行った海に広がっていた膨大な量の砂。それらは握られ折られこねられて、退屈な無機物から鮮やかで活気に満ちた生きものや城などに姿を変えていく。そこに、彼らをつくっている間じゅう想像しつづけていた『空想』を流し込むと、血が通っていくように隅々へそれが行き渡っていくのがわかった。生きものがわたしの手を離れうごめき、町の住民がおのおの生活を始め、城には住まうものが放つぱりっとした厳粛な空気が流れ始める。それが、またわたしの頭の中でインスピレーションを爆発させ、彼らのいきいきとした脈動の燃料となっていく。それをもっと見たくて、わたしのてのひらは素材を求め続ける。その繰り返し。誰のものでもない、自分のためだけにつくられた想像物。もちろん、絵空事だというのは幼心にわかっていた。それでも、当時のわたしにとって、作り出したそれはまぎれもない本物だった。この上ない、現実だった。

 が、それらはもう、なにひとつ手元には残っていない。設計図も理論も法則もなしにつくれる。壊すのも簡単、欲しいときにいくらでも呼び出せる。いらなくなったら、跡形もなく消してしまえる。そんなものに、本当の価値やしっかりとした存在感が生まれるわけがなかった。積み木やチラシはどこまでいってもただの木片と紙くずだし、海の砂だって建材にはなりえない。つくったそれをどんなに頑丈なお城です、と言い張ったところで、それはただの人も住めなければ後世に名を残すこともない、ただの砂の塊でしかない。蹴りの一発や波のひとつでもあれば、いとも簡単に崩れてしまう。

「どうぞ、こちらです」
「失礼します」
 後ろをちらりと見やり、わたしはそこにいる存在へ後に続くよううながす。塗料のものらしきつんとしたにおいが鼻の奥へ流れるのを感じながら、三和土《たたき》で靴を脱いで玄関にあがる。ずっしりとした床板の感触が足に伝わった。体重をかけてもなお、きしみもたわみもしないもの。そこには傷の一つもない。壁際に設けられた小さな出窓から差し込む外の光を受け、濡れたようにてらてらと光っている。

 玄関を抜け、ゆっくりと顔をあげてあたりを見回す。そこにはからっぽのリビングが広がっている。家具も照明も置かれていない、ただの立方体の箱。わたしと『彼女』が足を踏み入れたこの家には、そういった部屋がいくつも点在している。それもそのはずで、ここは二週間前に完成したばかりの二階建ての一軒家だった。引っ越しが始まるのは来週のため、まだここで生活を送っている人間はいない。あたりには顔がひきつるような塗料の香り、木のにおいだけが充満している。

 背後の存在がたてるかさかさとした足音を聞きながら、ここはパッケージなのだ、と思う。血縁ないしは婚姻、あるいはそれ以外の関係性によって結びついた人間が収納される入れもの。そこに一揃いに存在していることが、なにをおいても尊《たっと》ばれるときがあるような、そんなもの。
 固く冷えきった床板にいらだちながら、わたしはむかし友達だった子の家にあったドールハウスのことを思い出す。開くと中が見渡せるつくりの赤い屋根の家と、服を着たうさぎや熊の家族の人形がセットになったそれが、わたしはあまり好きではなかった。高く素っ頓狂な友達の演技が人形の台詞を代弁したり、それを手で動かすことで食事や家事などをしているのを表現したりするさまを見ていると、体の奥からなにかがむずむずと這い上がってくるような、そんな感覚がした。〇〇ちゃんもやろうよ。たのしいよ。そう言って友達は人形を差し出してくる。水玉のワンピースの上に白いエプロンをつけたうさぎ。わたしはそれを受け取らなかった。いや、いいよ。いいの? たのしいのに。うん、みてるだけでいい。そう言って、人形や家を操る彼女から距離を取る。わたしが作るものよりもよほど生きものらしくて実物らしいリアルな質感を持ったそれらは、どれだけ見つめても命やいとなみのようなものがゆらめくさまをわたしの目に映してくれることはなかった。

「どうしましたか。大丈夫ですか」
 いつのまにかうつむいてしまっていたらしい。背後からの声に顔をあげ振り返ると、するどくとがったあごと、ぬめりと光る甲殻や複眼が目に入った。触角が、すこしだけ垂れ下がった状態でふるふると震えている。ああ、すみません。そう言ってわたしは彼女に、シロアリを自称する昆虫に向けて笑顔を作る。触角が、震えるのをやめてすっと上向きに戻った。

「いやあ、外から見てる時もずっと思ってましたが、入ってみて確信しました。本当に、すばらしい家ですね」
「あ、ありがとうございます。あの」
「どうしましたか」
「ええと、いつから」
「え? ああ、いつから目をつけていたのか、ということですか。たしか、うちのコロニーの二代前の血族のころからだから……三十年までは行かないですけど、二十数年もの間は観測をしつづけていたことになりますね。いやあ、それにしてもラッキーです。こんな機会に恵まれるなんて」
「取り壊して新しく建て直した家なのに、それでもいいんですか」
「それがいいんですよ。最高です」
 いやあ、一族の悲願ですよ。そう言って彼女はわたしの横をすり抜け、リビングへと躍り出た。二足で立ち上がったらわたしよりも大きいであろうその昆虫が、丸みを帯びた腹や胸を動かし、脚をきゅっきゅっと床にこすりながら動き回る。その付け根にある筋肉がのびちぢみするのを眺めながら、後ろ手に組んだてのひらをぎゅっと握る。採光も兼ねた大きなガラス窓から差し込む光へつられるように視線が動き、その透明なおおいの外にある空をわたしは見てしまう。とても、いい天気だ。まばゆい日光が逆光となり、電線や他の家の屋根や壁を黒くくり抜き、際立たせているのがわかる。

 この家、建て替えることにしたから。最後の仕事だと思って、思い切ってな。父親がかつて口にした言葉を反芻しながら、目の前にいるこのシロアリと出会ったときのことを思い出す。そのとき、ここからほど近い公園で、彼女は子供たちの遊び場と化していた。まったく動かずじっとしていたために、複雑に張り巡らされた手足やなだらかな曲線を描く腹部などを彼らに面白がられ、ジャングルジムやすべり台のように扱われていたのだ。

 そのさまを、遊んでいる子供たち本人はもちろん、すこし離れたところにいる彼らの親や散歩に立ち寄った女性、ベンチで新聞を読む男性やその足元に寝そべるラブラドールレトリバーまでもが、微笑ましいものを見るような目で眺めていた。母親に頼まれた買い物帰りで急いでいたが、気がつくとわたしは足を止めてしまっていた。いい気分になったわけではない。ほっこりしたわけではない。むしろその逆だった。人や空気や時間帯といった、『公園』という場を構成するあらゆる要素が、そこにシロアリを取り込むことであたりに拡散、押しつけている光景。それが、わたしにはちっとも愉快で健康的なものに思えなかった。
 微動だにしないあの虫がなにを考えているのかはわからない。本当は自ら望んで遊具に徹しているのかもしれない。それでも、わたしはその場で足踏みしたくなるような、舌打ちしたくなるような感情を抱いた。久しく見ていなかった、見ずに済んでいたものを眼前に突き出されたような感覚。自分が渦中にいるわけでもないのに、皮膚をつねられたかのような不快感が胸の奥に灯る。冷凍品こそないものの、手に持ったスーパーの袋に収まったジュースのペットボトルが汗をかきはじめていく。それでも、わたしはその場を離れることができなかった。子供たちに乱暴な手つきで触られたり勢いよくのしかかられてもなお、身じろぎひとつしないその姿は高潔でもあり、助けを求めているようでもあった。

 とはいえ、子供たちの間に割って入るなんてことはできなかった。そのため、わたしはシロアリの周りから人が消えるのを待った。どうせもう日が暮れる。人気がなくなるのに、大した時間はかからないだろうと思った。
 橙色をした空が少しずつ色を失っていき、周りにいた子供たちがぽつぽつと親に手を引かれて公園を後にしていく。散歩をしていた女性がペットボトルの中身を飲みきって歩みを再開し、男の人が新聞を閉じて犬と共に大通りへ消えていく。そうして誰もいなくなった薄暗がりを歩き、なおも彫像のように動かないシロアリのもとへ近づいていく。中学の友達にたまたま会っちゃって、話が弾んでるから遅くなる。家でわたしの帰りを待つ母親にはそう連絡を入れていた。実際そのシチュエーションになったら、わたしは目を伏せて視界に入らないようそそくさと逃げ去るタイプだった。

 そこまで考えて、はたと気づく。わたしはシロアリにどうアプローチするつもりだったのだろう。かつての友人からも、その他のことからも、接近を避けて逃げ続けてきた、このわたしが。でもそのことに思い当たったころには、もうきびすを返して立ち去るわけにもいかない距離に近づいてしまっていた。
「あっ、あの、み、見てました、だい、で、大丈夫ですか」
 震えてもつれる声で、なんとかそれだけを口にする。言い終わってもなお、目の前の昆虫は動かない。が、突如としていかつい甲殻や牙をそなえた顔はこちらを向いた。複眼からすこし離れたところに生えた触角が、動けることを思い出した生きもののようにわさわさと動き始める。
「大丈夫ですよ。慣れっこですから」
「そ、そうですか」
「はい」
「あ、さ、寒いですねえ今日、はは」
「そうですね」
 思ったより温度のない声に面食らい、わたしは口をつぐんでしまう。彼女との間に、大きな沈黙が横たわる。なにか話さなきゃ、という気持ちと、こっちが心配して声かけたのにその反応かよ、という気持ちがせめぎ合う。そうこうしているうちに、どこからか醤油や肉が焼けるようなにおいが漂ってきた。最後の悪あがきをしていた夕陽が引っ込んでいき、街灯や家の窓の光が視界の中で存在感を増し始めていく。日光と似ているが明確に質が異なるそれに照らされても、温度のようなものを感じることはできない。

 そういえば、夕食に使うものが足りないからと言われて買い物に出たのに、これではとんだ役立たずだった。帰らなくては。そう思うが、なんとなくここから離れるタイミングを逸してしまっていた。じゃあ、わたし帰ります。せっかく人がいなくなるまで待ったが意外と本人は大丈夫そうだったし、ただそれだけを言って立ち去れば済む話だった。別に、後腐れもなにもない。が、たったそれだけのことがなぜかできなかった。先ほど見た、子供が履く泥だらけの靴に踏まれていたあの姿が頭をよぎる。あたりに広がる暗がりが濃くなっていく。街灯などの光源から遠く離れた足元が、黒くてもやもやしたものにさらわれ、見えなくなっていく。

「あ、私もう帰りますけど。あなたは」
 隣からやけに澄んだ声が放たれる。そこで、嘘のように体が軽くなった。返事を待たず歩き出していた彼女に、追従するよう歩き出す。その間、ようやく彼女はいくぶんか温度のある声で身の上話をしてくれた。自分がシロアリだということ。この近くに何代にも渡り住んでいること。最近の家は薄味で食い出がなく、食事がつまらないこと。
「あ、ここ。わたしの家なんです。今建て直してて」
 そうやって話しているうちに、わたしたちは建て直し中の家の前を通りがかった。それが、他ならぬわたしたち家族の家だった。祖父母の遺産と両親の貯金を元手に、彼らを始めとした数え切れないほど多くの人が関わり制作しているものだった。軽くそれを紹介し、そのままそこを通り過ぎようとする。が、シロアリは道の真ん中で、ふたたび彫像のように固まってしまっていた。なにか声をかけようとした瞬間、触角が勢いあまって飛んでいきそうなほど激しく動き始めた。

「ここ、なんですか。あなたの家」
「ええ、まだ住んでないですけどね」
 彼女の体自体は、あいかわらず微動だにしていない。街灯に照らされた顔が、つやをまとうようにして白く光る。それによったあらわになった複眼のひとつひとつが、こちらへ視線を向けているのを感じる。
 ややあって、触角の動きが収まる。歩みを再開する前に、彼女はやけにあらたまった様子で口を開いた。

「あの、ひとつ頼みがあるのですが」

   ●

 そのあとは、だいたい先ほどシロアリが語ってくれたとおりだった。何十年も彼女の一族が狙っていた家。その関係者であるわたしと知り合ったことで、他ならぬわたしに出会ってしまったことで、状況が大きく動いたのだ。父親と母親の顔が交互に思い浮かぶ。今ごろ、ここからすこし離れた場所にある仮住まいで、のんきに梅こぶ茶をすすりながらテレビを見ていることだろう。彼らはもちろん、その親世代、そのまた親世代のおかげで、この家はきずかれた。とはいえ、彼らの力だけではそれはなし得ない。解体業者、設計事務所、職人、大工、水道やガスや電気工事の業者など。さまざまな人が関わり、ここに頑丈な、誰の目にも見える建物ができあがっている。

 お前ももう成人したわけだしさ。お金をどかっと使うようなこともあまりないだろうし。だから、今のうちにやっておこうと思って。お前が、楽できるように。いつだったか、そう父親はわたしに語って聞かせた。そうやって、後の世代後の世代に、という想いと共に、つむがれてきた歴史。その先端に、わたしは立っている。

「うーん、このへんはちょっとつるつるしてて足がひっかかりにくいな」
「あ、こっちならまだ足かけやすそうじゃないですかね」
「いいですね、参考にします」

 それなのに、そんなわたしはどこの馬の骨ともわからない昆虫を新居に招き入れている。しかも、彼女が気に入りそうな壁を提案までしてしまっている。髪の毛をかきあげ両親や祖父母の顔を振り払いつつ、手をついたそれをなでさする。真っ白で平らな、それでいて表面へかすかに布地のようなおうとつがつけられたクロスの感触が、てのひらへ広がった。が、そこに触ったそばからぽろぽろと崩れていくような質感はない。

 建て直す前も後も木造住宅なことに変わりはなかったが、前の家は内装の一部が砂壁でできていた。色のついた砂を塗装する面に塗って仕上げられた壁。そこに、わたしはよく爪で落書きをしていた。地上絵だ、ヒエログリフだとあいまいな知識で言い張っていたことをよく覚えている。おおかた当時読んでいた本に、そんなことが書かれていたのだろう。
 聞きかじりの知識を頭の中で反芻しながら、わたしはひたすら砂の集合体をひっかきつづけた。そのたびに、崩れた砂がぱらぱらと落ちては足元にたまっていく。それを眺めるのがとても好きだった。子供の力では動かせも壊せもしないはずの家という存在に、自分の力によって明確な跡が残っていく感覚。とうぜん両親にはしこたま怒られたが、わたしは隙を見ては壁に爪を立て続けた。

 が、今触れている真っ白なそれに、痕跡は残せそうにない。似たような傷は指でつけられそうではあったが、それはあのときわたしが描こうとしたものとは違う。すっかり成長しきってしまったわたしには、あれがヒエログリフでも地上絵でもなんでもなかったことがわかる。

 リビングをかさかさと歩きながら、シロアリが家の状況をたしかめて感想を述べていく。それらはただのひとりごとだったり質問だったりして、わたしはそのつど受け流したり返答を返したりしながら、彼女の後をついてまわった。当たり前だが、建て直す前の家の面影はどこにもない。つい数ヶ月前まで毎日を過ごしていた場所なのに、まるで知らない土地、場所に来てしまったかのような気分になる。

 いいの。家があるんだから、いつでも帰ってきていいの。またいっしょに暮らせるなんてすてきじゃないの。大学を出て意気揚々とひとり暮らしを始め、仕事を辞めて九ヶ月で出戻ったわたしに、母親はそんなことを言った。

「お父さんとふたりじゃ息がつまりそうでね、むしろよかった」
 硬直する娘の横をすり抜け、いつもの生活の延長のように母は台所に消える。大福とお茶をお盆にのせて戻ってくると、ちゃぶ台の下へ足を突っ込みながら、彼女は怪訝そうな顔をした。
「なに、どうしたの。座ったら」
 実家に戻ってきて最初の日だった。つい九ヶ月前まで当たり前のように使っていた座布団に座ることなく、わたしはただその場に立ちつくしていた。足の裏に、畳のおうとつの感触を強く感じる。それが反発のように思えてならなかった。あたりを取り囲む見慣れたリビングに、大きく変わったところは見受けられない。むしろ、この上ない安心感、どこまでも身を預けてしまいたくなるような感覚があった。が、そうすることは許されていない気がした。

「ごめんね、その、わ、わたし」
「なにを謝ることがあるの。人間、いくらでもやり直せるんだから。すこしくらい休んだっていいじゃない」
 わたしの謝罪を、母は毛布のような言葉と立ち振る舞いでふんわりと受け止めた。ほら、大福でも食べて。塩大福。その声にうながされ、ようやくわたしはその場に座り込むことができた。畳の感覚が足裏から消え、その代わりに座布団のやわらかさが尻を出迎える。塩大福を頬張ると、もったりと甘いあんこと塩味のついた餅がなだれ込むようにして舌の上に広がり、涙が出た。

「昔、あんた、甘いのにしょっぱいのが許せないからって塩大福食べなかったのよ」
 母親にそう言われるが、わたしはそのことを思い出す事ができなかった。首をひねっていると、彼女はまた優しくて耳触りのいい言葉をかぶせてきた。それに体を預け、わたしは目元をぬぐって笑う。でも両親だって人間なのだ。わたしは知っている。父親が大病をしたとき。母親がわたしの引っ込み思案な気質を直さないと一生このままよ、と言い放ったとき。わたしが大学の休学や、仕事を辞めたいと思っていることを対面や電話で彼らに言い出したとき。その光景たちがぱっと脳に散る。これを考えているのは現在のわたしだ。いや、この座布団に座っているときのわたしだったかもしれない。どちらにせよ、わたしはそれらの記憶を何度もなぞりながら、目の前に広がる母親の顔を見ている。そこから、その下から、あるいはわたしがいる床の奥から、芋のつるのように別の記憶が引っ張り出されていく。思い出せる、一番古い記憶。両親に手を握られながら、幼稚園の門をくぐったこと。その次に思い出せる記憶。わたしが神様だったころにつくった、あらゆる創造物のこと。砂の城やブロックの町、チラシの体を持った生きもの、その他もろもろ。それなりに新しく、細部を鮮明に思い出せる記憶。つらい思いをしながら勉強や部活といった身のあることをして、自分のしたいことや持ち合わせている能力を探したり考えたりした日々のこと。その中で見た、神様ではなくなったわたしがつくれなくなってしまったもの、反対につくれるようになってしまったもののこと。ぜんぜんうまくできないのに、形だけでもやれますできますといった顔をしなくてはならない、そうしなきと許されなくなってしまったもののこと。記憶が、回想が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。あらゆる思い出や過ぎ去った光景、もうどこにもないものたちが、時系列や順番もでたらめになりながら数珠つなぎになって頭の中で暴れ回る。

「あの、どうかしましたか」
 気がつくとわたしはリビングのど真ん中で立ちつくしていた。あの、二階も見たいのですが。彼女が優しく語りかけてくる。それにうなずきながら、わたしはシロアリが口にした言葉を反芻する。どうか、しましたか。いや、どうもしていないのだ。あのときからずっと、わたしは立ち止まり続けている。仕事も見つかっていないし、かといって社会人より潤沢にあるはずの時間を有効に活用することもしていない。それなのに、こうしてふらふらと外出し、親が建てた、これから自分も住まわせてもらう予定の新居にシロアリを招いている。家を食べるという害虫を、そういうものだと知っていながら。

「いえ、なんでも」
 微笑みながら、先ほど思い出した無数の記憶を振り払うようにリビングを後にする。背後は振り返らない。かさかさと彼女が後をついてくる気配だけを感じていた。
「なんか顔色が悪いですよ」
「大丈夫です。気にしないでください」
「はあ。でも」
「ちょっといろいろ考えごとしてただけです。ほら、実家がこうもなんの面影も残さず新しくなってると、なんかこう、センチメンタルな気分になるというか」
「あ、ああ、わかりますよ。本当にいい家ですもん。ここも、前の家も。本当に、すばらしいところだと思います。唯一無二だ」
「そう、ですか」
「そうですよ。祖父母さまの代から、二代に渡って暮らしている場所なんですよね? なんかうまく言えないけど、それって貴重というか、かけがえのないものですよ。ええ、ぜったいそうです。一朝一夕に築き上げられるものではないです」

 どこまでも沈み込んでいくかのようなやわらかさを持った声色で、彼女はつぶやく。廊下を抜け、わたしたちは階段を登り始める。壁に埋め込まれたはめ殺しの窓からは、隣家の放置された庭が見下ろせた。草だらけの土と、風雨にさらされ朽ちたプランター。昔は季節の花で鮮やかに彩られていたのだが、今となっては見る影もない。ほったらかしにすれば、どんなものだってああなってしまう。朽ちて崩れて枯れはてて、面影すらもなくなってしまう。わざわざ壊そうとしなくても、ああなってしまう。
 階段をのぼりきると、わたしたちは二階へと足を踏み入れた。ここにも、昔の家の雰囲気や空気はまったく残っていない。部屋の構成こそ大きく変わってはいないものの、やはりどこか知らない場所、他人の家に居座っているかのような違和感がつきまとう。

「あの」
「はい?」
「その、シロアリさんは、生まれたときのことって覚えてますか」
「え。いやあ、ぜんぜん。○○さんはどうなんですか」
「あ、まあ、覚えて、ないです」
「ですよね」
 この世に生を受けたとき。血や羊水などにまみれながら、看護師だか母親だかの手の中で泣きわめいたとき。その光景が覚えているわけもないのにとつぜん想像され、気がつくとわたしは彼女に問い掛けていた。ぬるく湿った、暗い場所。そこから引きずり出されて感じた、母親や医師や看護師の体温や視線。まぶしい頭上の照明。薬品と血と体液のこもったにおい。それらにまみれていたときから、わたしは地続きだったのだろうか。だから、ぎゃあぎゃあと泣きわめいたのだろうか。かゆみを覚え、目元を指でこする。そこに水分を感じることはない。

 質問に対しての怪訝そうなそぶりを一瞬見せたあと、シロアリは部屋をつぎつぎと回っていった。両親の寝室。それぞれの仕事部屋。お風呂場。トイレ。新設されたウォークインクローゼット。足の置きやすさやはいのぼりやすさといった観点から、彼女はつぎつぎと壁や床に評定を下していく。それをわたしは黙って聞いている。

「さっきからずっと触ってますけど、それ、なにかあるんですか」
 背後から声をかけられ、わたしは触れていた木材からそっと手を離す。きれいな木目が浮かぶ、立派な柱がそこにはあった。二階に足を踏み入れた段階で、ことあるごとにわたしはそれに手を伸ばし、べたべたと触っていた。

「あ、いや。特になにかあるわけじゃ」
 そう言いながら、なめらかな表面へもう一度指をはわせていく。先ほどの壁と同じく、そこにも、わたしが本当に触れたい質感はない。が、それは先ほどの砂壁のようなものではない。すらっとして固い、まるでナイフでえぐったかのごとくはっきりと線状に刻まれたものだった。シロアリのことをちらちら見ながら、わたしはあるはずのないそれを探し続ける。そのさまを、壁の見分を終えたシロアリがじっと見つめてくる。

 みてみておとうさんおかあさん、わたし、去年よりもこんなに大きくなったよ。あら、ほんとだ。おお、このペースだとお父さんやお母さんよりももっと大きくなるかもしれないなあ。えー、ほんと? そしたらふたりとも肩車してあげるねえ。柱を触り続けるわたしの耳元に、幻聴が流れ着く。かつてあったこの家の大黒柱には、刃物による線の彫り込みと油性ペンによって書かれた日付のふたつによって、わたしの成長の軌跡が残されていた。が、建て替えによって新調された柱に、とうぜんその印は残っていなかった。その記録はもちろん、経年劣化も微細な傷や腐食も、なにもかもが消えてしまった。残ったのはこののっぺりとした、きれいで真新しい木材だけだ。

 来年には。数ヶ月後には。一週間後には。明日には。少しずつ増え、そのたびに刻まれた位置が高くなっていく柱の傷と日付を眺めながら、過去のわたしはいずれやってくる『大きくなった自分』のことを夢想していた。頭の中で思い浮かべるそのわたしはなぜか強い光を背に立っており、顔や体の細部を確認することはできなかった。が、それでもわたしは彼女の姿を垣間見るたび、興奮と期待で胸を躍らせていた。早く、ああなりたい。そう思って毎日足をじたばたさせていた。

 シロアリの視線を受けつつたっぷりと時間をかけ、わたしは柱から手を引きはがした。ぴたりと停止していたシロアリの触角がふたたび動き始め、彼女はくるりとこちらへ背を向ける。その姿を追い越し、二階にある最後の部屋へ彼女を案内しようとする。廊下に差し込む日の光に、朱色が差し始めていることにわたしは気づく。急がなくてはならない。どうして。同時にふたつの考えが頭をよぎる。後者に明確な答えをたたきつけることはできない。それでも、焦りはたしかにわたしの体を焦がしていった。目の前にあらわれたドアノブを握る。深呼吸をし、それを回して後ろに引く。


   ●

 目の前に、リビングよりもやや狭い、四角い空間が現れる。そこはわたしの部屋だった。床も壁も、窓やエアコンまでもが新しく取り替えられていたが、とにかくわたしの部屋だった。両親にも、事前に間取り図を見せられながらそう説明されていた。が、目の前に広がるそれはどうしても無関係な『箱』としか思えなかった。自室にあった家具を頭の中で配置してみたり、建て直す前となんら変わっていない窓の外の景色を眺めてみたりしてもそれは同様だった。サッシに手をつきながら、後ろを振り返る。殺風景な箱の中心で、黒い昆虫がわたしをじっと見ていた。
「こ、ここが、わたしの部屋です」
 彼女はもちろん、自分にも言い聞かせるかのごとく宣言する。目の前の六本脚はそのままの体勢でじっとしている。依然として『箱』という感覚は消えない。が、それが違和感でも嫌悪感でもないことにわたしは思い当たる。これは、徒労感だ。この地上で生きる限りどこまでも追いかけてくる、重力のようなけだるさだ。ここで、わたしは暮らしていかなくてはならないのだ。前の家と、ようやく体が慣れてきた仮住まいと、同じように。

「へえ。前と比べて広さはどうですか」
「ま、まあ、多少は広くなったりしたんじゃないですかね。すみません、ちょっとよくわからないです」
 シロアリが壁際に近づき、触角や足を使って部屋を見定めていく。それを眺めていても、今までのように記憶のふたが開くことはない。自室を与えられ、両親といっしょに寝ることがなくなったのは小学五年生のときのことだったが、その日のことをわたしはまったく覚えていない。そういうことがあった、という事実だけを記憶している。
「あの、ここでどんな日々を過ごしたんですか。あ、もちろん建て直す前の家でのことですよ」
「うーん、そうですね。あ、そういえば……」
 でも、きっとそれは嘘だった。思い込みだった。シロアリの質問に、わたしはこの上なく明瞭な答えを返していく。覚えていないはずなのに、口を開いたそばから思い出が言葉となってほとばしっていく。が、言い終わった直後にそれは幻のように消えてしまう。思い出すこともできない。それなのに、シロアリからの質問があるとわたしはまたすらすらと話し始めてしまう。

 霧のように輪郭が消える昔話をするたび、この真新しい家はわたしの視界の中で昔の家に取ってかわった。その最中は手に取れそうなほど細部がリアルに立ち上がるのに、口を閉じるとそれはあとかたもなく消え失せる。目の前には、たくさんの人が時間とお金と労力をかけてきずきあげた、たしかなものだけが残る。体にのしかかるけだるさが重みを増していく。シロアリも父も母も、平等に感じているはずのもの。その中で、彼らは生きている。仕組みは、同じはずだった。

「すみません、もう一度リビングを見てもいいですか。やっぱり、もう一回見ておきたくって」
 わたしの思い出話の連鎖がおさまったタイミングで、シロアリはそう申し出てきた。べらべらとしゃべり続けた反動か、わたしは口を動かせず押し黙ってしまった。その一瞬の沈黙を了承と受け取ったのか、シロアリは軽やかな足取りで階段を下っていった。ひんやりとした階段と廊下の床板を踏みしめ、一拍遅れてわたしはふたたびリビングへ降りていく。

「○○、誕生日おめでとう!」

 そこには、わたしが慣れ親しんだ、昔の家のリビングが広がっていた。冬にはこたつになるちゃぶ台。端にすこしひびがはいったガラス戸つきの食器棚。かなり前からぶらさげられたままの吊り下げタイプの虫除け。薄型テレビと、それを支えるテレビ台。チョコやせんべいといった菓子がおさめられたガラスびん。年季の入った座布団。それらに囲まれた中心で、小学生にあがりたてくらいの背格好をしたわたしが、机上に置かれたケーキのろうそくを吹き消している。いちごのショートケーキ。白と赤に彩られたわたしの好物の表面を、かすかな風が吹き抜けていく。見えるはずのないものが、鮮明に網膜の上ですべる。きゃいきゃいとはしゃいでいる幼いわたしの横を、シロアリが何事もない様子で通り過ぎた。

「もう●歳か、すぐに大きくなるなあ」
「そうね、すぐに大人になっちゃうね」
「うん! わたし、早く大人になりたい!」
「じゃあどんな大人になりたいの」

 現実のわたしへ背を向けた両親が、幼いわたしに問い掛ける。うーん、えーっとねえ。ケーキに視線を向けていたわたしが、芝居がかった様子で腕を組み、ゆっくりと顔をあげる。わたしは思わず目をそらしてしまう。あわてて視線を元に戻すが、ほんの一瞬のうちにその幸福な一幕は幻のように消えてしまった。あとには、新築ののっぺりとしたリビングだけが残された。

「今のは、ご家族ですか」
 は。呆けた声がのどからこみ上げる。声のほうを向くと、シロアリがリビングの真ん中よりすこし端に寄ったところ、ちょうど食器棚があったあたりに立っていた。
「なんか、声が聞こえた気がしたんですよ。あと姿も見えた気が。皆さんでケーキを囲んでらっしゃいましたよね」
 今さら。そんな言葉が口をつきそうになり、すんでのところで思いとどまる。そんなわたしをよそに、目の前の昆虫はああだこうだと言葉を並べ立て始める。すばらしいとかすてきとか、かけがえがないだとか。はずんだ調子に彩られたその声は、この上なく軽い。まるで羽虫のようだ。腕のあたりが急速にかゆくなってきて、服の上からそこに爪を立てる。が、本当はなによりも重く、身の詰まった言葉のようにも思えていた。

 ありふれた言い回したちが、つぎつぎとわたしの体へ巻きついてくる。が、それを引きちぎることは許されない。もしそうしてしまったら、わたしはこちらを見る誰かの中で、微笑ましい目を向けてもいい存在にされてしまう。それだけならいい。わたしはその裏にあるもののことも知っている。でもそんな目をする誰かはどこにいる。いや、たしかにいる。ここにいる。こちらを見ている。今に始まったことではない。ずっと、彼らはそうしている。

「もう、いいですよね。そろそろお願いします。約束、ですよね」
 そうこうしているうちに、本当に身動きがとれなくなっていく。爪を立てたままの腕をなんとか動かし、なおも続いている昆虫の言葉を手で制す。大丈夫です、ありがとうございます、本当にもう、やめてください。こちらが招いたお客さんなのにとも思うが、どうしてもいらだちが声に載ってしまう。それを知ってか知らずか、興奮しきりだった彼女は触角をしゅっと下げて声のトーンを落とした。

「わかりました、本当にいいんですね」
 間髪入れずにわたしはうなずく。もうなんでもいいから、さっさとこの家を崩してください。食べて食べて食べまくって、穴ぼこだらけのすかすかの木片に戻してください。初めて会ったとき、この家の前でシロアリから受け、快諾した申し出。渡りに船だったと思ったそれ。そのことを心の中で唱えながら、胸の前で手を合わせる。視線の先で、シロアリが体をぶるぶるとふるわせていく。体勢を低くし、牙をかちかちと打ち鳴らし、触角をせわしなく動かし始める。ばらばらだったその動きは、やがてひとつのリズムを刻み出す。リビングの窓から差し込む日の光が、すこしだけ陰ったような気がした。頭の芯を痛めつけるつんとした木材と塗料のにおいを吸い込みながら、そのときを待つ。

 なめらかで、それでいて硬さも感じられる甲殻。するどい牙、はりのある足、すこしの乱れもなく規則的に寄り集まった複眼、産毛に包まれてうごめく腹。そのどれもが、だいぶ橙色が濃くなった日光を反射して、黒々と、光った。

 胸の前で組み合わせていたてのひらをほどく。その瞬間、シロアリの後ろにある玄関の扉がいきおいよく開いた。その向こうには、彼女より一回り小さいアリたちが大勢いた。頭から脚の先までその姿はそっくりで、牙や腹、そこに生えた細かな産毛はもちろん、すべてを飲み込むような漆黒の体色までもが判で押したかのように同じだった。

「なんで気がつかなかったんですか。時間はたくさんありましたよ」

 鏡がないため、自分が今どんな顔をしているのかはわからない。でも、目の前の昆虫の反応を見るに、それはわたしの心情を推し量るには充分だったらしい。牙を打ち鳴らし、彼女は笑い声を漏らす。だましたのか。そう口にする気も起きなかった。あるのはただ、先ほど感じたものとは比べものにならないほど大きくふくれて手足にぶら下がった徒労感だけだった。私はシロアリですよ。彼女はあっけらかんとした様子で口にする。その体はもう震えていない。橙色を限界まで含んだ窓からの光が、明度を落としていく。部屋の温度が、すこしずつ遠ざかっていく。

 そこで、なにかが爆ぜるような、よく乾いた枯れ枝を踏みつけているようなぱちぱちとした音が外から断続的に聞こえてきた。それが外に詰めかけている彼女の仲間たち、他のアリの身じろぎや牙を打ち鳴らす音だということに気づくのに、そう時間はかからなかった。家の窓に黒いものがつぎつぎと張り付いていく。それはわずかな光をばりばりと食い潰し、部屋に少し早い夜を呼び寄せる。
「で、でも、家は。家は、ちゃんと、壊して」
 ガラスにぎゅっと押しつけられたアリたちが、わたしのかぼそい声を嘲笑するかのように震える。かちかち。かちかち。硬質な音と、日光がさえぎられたことにより生じた暗闇の中で膝をつく。シロアリを名乗っていた彼女が、うなだれているわたしへ、すこしずつにじりよってくる。顔の近くに、牙とその間にある、たわしのような形状をした口吻が迫ってくる。べたべたとした甘ったるいにおいがそこから香り、鼻をつく。

「大丈夫ですよ。別に悪いようにはしませんから。さっき言ったじゃないですか。ここはすばらしいところだって。かけがえのないものだって。一朝一夕には、築きあげることのできないものだって。だから、お手伝いさせてくださいよ」
 その瞬間、玄関で待機していたアリが、いっせいに家の中へなだれ込んできた。止める間もなく、彼女たちは壁や階段をのぼったりドアや収納の扉を開けたりして、家の隅々まで広がっていった。あらかたその展開が終わると、彼女たちは腹を下にして天井へぶら下がる者と、その尻へ順繰りにかじりつく者とに大まかに二分された。部屋にただよう甘いにおいが、すこしずつ主張を強めていく。それは、天井にくっついたアリの徐々にふくれていく腹から放たれていた。どうやら、尻にかじりつくアリたちがその中へ蜜を流し込んでいるらしい。窓をふさいでいたアリが減ったことで、部屋に注ぐ日の光が元の勢いを取り戻す。天井にぶらさがる黄金色をしたガラスびんのような腹がゆらゆらと揺れ、光を乱反射してわたしや他のアリを照らしていく。

 が、家の広さにも限界がある。際限なくなだれ込んでくる黒い昆虫は、ついにわたしが座り込んでいる場所にも迫ってきた。足の間、腕、背中、顔。あらゆる部位に黒い昆虫の体が触れ、ついには浮き上がるかのようにわたしの体は持ち上げられてしまった。視界が黒々とした虫の体にさえぎられ、わたしはふたたび光を見失う。哺乳類のようなぬくもりがない、きんと冷え切った甲殻。鋭角になっている脚の関節部分。その先端にある刃物のような形状をした爪。固いブラシや剣山のようなコシのある産毛。蜜や内臓が詰まった、やわらかく弾力のある腹部。それらはアトランダムにわたしの体を包んでは離れていき、かすかな余韻を皮膚の上へ残していく。不安定に揺れながら、わたしは思い出している。かさかさ。かさかさ。黒い壁がうごめく感触と、こもったにおい。ぷちっ。なにかが弾ける音がそれにまざる。ぬるい液体のようなものが手に広がった。濃い輪郭をした甘いにおいが、すぐそばにあるのがわかる。

「もう、いいや。帰ろう、おかあさん」
 寄せては返す海水から手を離し、わたしはかたわらにいた母親にそう宣言する。顔をあげると、風になぶられる髪を押さえながらこちらをのぞき込んでいる彼女と目が合った。夏の砂浜。そこへ容赦なく照りつける日差しのせいで、その姿には濃い影がかかっている。

「え、でもまだ途中じゃない。お城だけじゃなくって、城下町もつくるんだって言ってたじゃない。まだつくってても大丈夫だよ。お母さん、○○がつくったお城と城下町、見たいなあ」
 おとうさーん! まだ、時間あるよねー! 顔をあげ、母親はすこし離れた波打ち際をふらふらと歩いている父親に向かって叫ぶ。それを受けて彼はゆっくりと振り返り、両腕で丸の形のサインを作る。その横を、はしゃいだ様子の男女がかけぬけていく。
「ほら、だから大丈夫よ。気の済むまで作って」
「ううん、いいの。もう、あきちゃったの」
 あんなに楽しそうだったのに、もういいの? 母の声が、砂で建造されたつくりかけの城と町に落ちる。たしかに、つくっているときは楽しくてしょうがなかった。そこへ血液のように通っているであろう人々の生活や往来、生まれる活気、その片隅で発生する物語を想像するのも楽しかった。それを完全な状態で見たいと思い、作業にも熱が入っていた。でも、今やその強烈な衝動は最初からなかったもののように消えてしまっていた。生み出したものへの喜びも、希望も、完成させた先にあったはずのものも、すべてがすべて、想像することができなくなってしまっていた。

 そのかわり、わたしの頭の中はドラゴンの想像でいっぱいになっていた。この砂浜を出てすこし離れたところにある駐車場。そこに停められた車の中へ置いてきた、チラシや牛乳パックをセロテープで細長くまとめたもののことをわたしは考える。それがドラゴンだった。四六時中雷が鳴りやまないエメラルドの谷に住み、たどり着いた勇者や魔法使いに試練を与えて追い返す。が、谷に住まう他の魔物のことを気にかけ、なにかあれば全力で守るような、優しい一面もある。得意技は、体内を駆け巡る雷の力を凝縮させた……。考え出したそばから、想像がとめどなくあふれていく。城のことが、ますますどうでもよくなる。

 もう車に戻ると母に告げ、わたしは立ち上がる。きずいたものを踏みつけて壊すようなことはさすがにせず、そのままそれを放り出してわたしは歩き出そうとする。
「あ、ちょっと待って」
 背後にいた母親が足を止め、肩から提げたバックからカメラを取り出し、城の写真を撮り始める。
「べつに写真なんていいのに」
「ううん。せっかくだから、残しておきたいの。それに、ほっといたら波にさらわれて消えちゃうでしょ。なんか、悲しいじゃない」
「うん。まあ、そうかもだけど」

 父親が、こちらめがけて勢いよく駆け寄ってくる。そのまま、がっしりとしたその腰にわたしは抱きつく。
「おとうさーん、くるまもどりたーい」
「おー、もうお城はいいのか」
「うん。それよりドラゴンがいいの。ドラゴン」
「ドラゴン? ああ、あの車にいるやつか。わかった」
「それにしても、本当に暑いね。ねえ、どっかでアイス食べていかない」
「お、お母さんいいこと言うな。高速乗ったらどっかのサービスエリアで食おう」
「やったあ」
 ふたりと手を繋ぎながら、わたしは駐車場のほうへ歩き出していく。砂浜の出口に近づくにつれ、足元の砂には見る間に大きい石や貝殻の破片や空き缶などが混じり始めた。もっと進むと砂は徐々に消え失せ、舗装された道と、それと同じ材質の階段が現れた。

 そこでわたしは後ろを振り返る。強烈な日差しのせいでどこか白っぽくなった風景の中、やけに真っ青な海の水と、表情や姿形がはっきりと照らされた人々が見える。その中心に、わたしが建造しようとした城がある。とがった屋根、立派な庭園、きらびやかな装飾。それはすべて想像の中だけのもので、現実の城はただの灰色の砂粒の塊だった。しかもつくり途中のため、この上なくぶかっこうな形をしている。が、改めてそれを見つめても、わたしの心にはさざ波すら立たない。

 それが今にも、現実に押し寄せてくる波に削り取られようとしている。わたしは、当時のわたしは、ただそれをじっと眺めていた。ドラゴンとアイスのことで頭をいっぱいにしながら。
「どうしたの、早く行こうよ」
 両親がわたしを急かす。それにうなずきを返し、石造りの段に足をかける。そういえば、このとき以外に砂の城をつくろうとしたことはあったっけ。完成させたことはあったっけ。『今のわたし』はそう思った。が、思い出すことはできない。神だったわたしの頭の中はドラゴンでいっぱいになっている。もう一度、後ろを振り返ってみようとする。できない。そのすべはもう失われている。わたしはもう、そこにはいない。


   ●

 そこでわたしは目を開く。頬に床板の冷たさを感じる。どうやら、リビングの床に横になって倒れているらしい。こちらを取り囲んでいたアリの大群は、脚の一本すらも見当たらない。あのうごめく暗闇は、もうどこにもない。どうやら気を失っている間に日が落ちてしまったらしい。濃い黒色をした夜の気配が、窓の外からリビングの中へこぼれて広がっている。背中に床の硬さを感じながら、ゆっくりと体を起こす。甘ったるい蜜のにおいや、手にかかったはずの液体の感触も消えている。あるのは、あの頭をしめつけてくる新築のにおいだけだ。

 家はここにある。かじられたり崩されたりもしていない。約束を反故にされた。そのことが頭の中でくるくると点滅するが、わたしの心はおだやかだった。が、それは死体と同じような静けさだった。どうでもいい、と思うことも面倒くさい。
 手近な壁に手をつき、わたしは指先に力を込める。クロスに爪が食い込み、ぐにゃんとそれがたわんでいく。でも、それは砂のような手触りとはほど遠い。崩れることも、はがれたそれが山となって積もっていくことも、もちろんない。わたしは笑いを漏らす。
 もう、ここにいてもしょうがない。帰らなくては。わたしはそう思う。が、足取りは自分でも驚くほど重い。体の節々になにかがぶら下がっているかのようだ。それに加え、窓から寄せては引いてくる黒々とした夜の闇も厄介だった。質量のない、ただのもやでしかないはずのそれに足元が覆い隠され、歩みがさらにゆっくりとしたものにさせられていく。すこし前、夕暮れから夜に変わっていく公園で立ちつくしていたときのことが頭をよぎる。わたしは自分のことのようにおそろしくて、立ちつくして、近づいて、いろいろな話を聞かされた。日をまたぎ、招き入れ、家じゅうを見回った。話し合った。一緒に、そうしていたはずだった。

 わたしはまた思い出し始める。思考が、記憶が、今ここにないものを鮮明に立ち上げていく。わたしはかつて神だった。その名残をひとりきり、真っ暗な四角い部屋で披露する。今はまだ、今はもう、パッケージでしかないもの。来週には、ここで新しい生活が始まる。そして積み上がってしまう。わたしの前で、その上で、ただひたすらに。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?