同じ穴のムジナ
本を閉じたのと、目を閉じたのはほぼ同時だった。
というより一気に眠気に襲われたのでいまいち覚えていない。
どちらが先だったかさほど重要ではない。『現実の世界』から『頭の中の世界』に吸い込まれて行くこの感覚は、心地が良くてたまらない。
翌朝出勤すると、2年後輩の花園が課長から何やら絞られていた。
どうせ花園のことだ。アクビでもしながら課長に挨拶したのだろう。
課長は体育会出身だから生理現象であろうが容赦はない。
それは酒の席でも同じで飲みに行っても心地が悪い。
挙句、割り勘とくるので割りに合わない。
朝一から課長に捕まってしまうと、その日一日狙われる。俯きながら自席に戻る花園を目で追い哀れんだ。
(昼ぐらいは誘ってやるか)なんて思っていたが、いざ外回りに出るとそんなわけにもいかない。
会社を一歩出ると、空はびっしり雲に覆われ非常に蒸し蒸ししていた。夏の一歩手前だ。
結局昼は一人で軽く済ませ、そのまま取引先の『チチブ工業』へ向かうことになった。
担当の釜石さんは本当に穏やかな人だ。会社は違えど本当に尊敬出来る。時々悩みも聞いてもらったりして世話になっている。
「ところで森さん、本読み終わりましたか?」
最近、寝る前に読んでる本は釜石さんから薦められた本なのだが、いかんせん内容が難しくなかなか読み進められていない。少し答えに迷っていると
「あの本は難しいですからね。しかし、本というのは素晴らしいです。知識を増やせるし、擬似体験まで出来てしまう」
本当に素敵な人だ。家に帰ったら今日こそ読み進めてやろう。そう心に決め、商談もまとまり『チチブ工業』を後にした。
自分のデスクに戻る前に一服しようと喫煙ルームに行くと、花園が勢いよくタバコを吸い込んでいた。
課長からの解放はまだのようだ。
「あー森さん。今日飲みに行きましょうよ。もう限界ですわ」
本を読みたいなんて口に出来るわけもなく、花園と飲む約束をしてしまった。(よし、早めに切り上げて本を読もう)今度こそ心に決め、喫煙ルームを後にした。
「『ビールは麒麟だ』ってどこまでラガーマンでいたいねん!あのおっさん。スペルちゃうやろ!!ねぇ森さん」
スペルが違うのは知らなかったが、花園の賢さを垣間見た気がした。
「それはそうと森さんって最近変わりましたよね?なんかあったんですか?」
突然そんな事を言われ驚いた。この男の観察力がすごいのか釜石さんを意識した行動が実を結び出したのか。
「そうかな?何が変わった?」
「なんていうか、朝から元気ですよね。爽やかというか、なんか充実してる感じがします。あっもしかして彼女とか出来たんですか?」
「彼女は出来てないよ」
「なんやろ、すごい楽しそうなんですよね。なんか趣味とか始めたんですか?」
「趣味?いや、ないなぁ。本を読んでるくらいかな」
釜石さんから紹介された本の話、本を読む事の意味を釜石さんの言葉を完全に拝借して花園に伝えた。
「ええなぁ。僕もその本読みたくなりました。その本貸してくださいよ」
「あぁいいよ。あと少しで読み終わるから週明けに貸してやるよ」
とんでもない嘘をついてしまった。実の所全く読み進んでいない。土日のダラダラする時間を削って読み切るしかない。あれだけ心に決めたはずなのに、本を読むのが億劫になってきた。
結局、読み切ったのは日曜から月曜に変わり出社4時間前の深夜遅くだった。
「おはよう」
課長が出社してきた。
「おはようございます」と同時にアクビが出てしまった。
「森!!なんだその挨拶は!こっちに来い」
やってしまった。今日の餌食になってしまった。
周りの同情の目を感じながら自分の席に戻ると花園が待っていた。
「先輩珍しいですね。完全に寝不足の顔してますよ。はい、コーヒーです」
(お前のためだよ)なんて言えるわけもなく、
「本持ってきてやったぞ」
と昨夜の自分を苦しめた『本』を花園に渡してやった。
その日は本を読み続けた疲労も相まって、家路に着くと『現実の世界』から『頭の中の世界』へ一瞬で吸い込まれて行った。これはこれで心地が良かった。
次の日の昼、喫煙ルームで花園が声をかけてきた。
「森さん、あの本ありがとうございます」
「ちょっと難しいだろ?ゆっくり読めばいいからな」
「おれ難しい本読むの趣味にしますわ。自分に合ってます」
「お前、すごいね。おれなんて本読むの慣れてないから何回も挫折しかけて大変だったのに」
花園の顔は明らかに自信に満ち溢れていた。何というか疲れと無縁の顔になっている。本というのはここまで人を変えることが出来るのか。
花園はいつもよりハリのある声で
「本を読みだすと一瞬で眠れることがわかったんです」
そう言って爽やかに喫煙ルームを後にした。
おにぎりばかりだと喉が乾くのでお茶に使わせていただきます。