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世界料理学会inHAKODATE

 

 僕は谷昇シェフが大好きなのだが、
 それが故にたまにネットの海で谷さんを探している(意味不明)。久しぶりに新動画を発見して、なおかつ最近思うところがある題材についてお話していたので、この記事を書いてみた。


”弟子を取るなんて面倒臭いんだよね、全部自分でやることにしたよ”
”もう弟子を取ることは諦めたんだ”


 この言葉たちは谷さんの言葉ではないのだが、ある料理ジャンルで1,2の技術や美味しさを表現できる力を持つ人たちが発した言葉だ。
 この言葉を聞いたときひどく哀しく、何とも言えない気持ちになったものだ。とても...どんな文章を以てしてもこれは伝わらないだろう。
 文字どおり「言葉」なのだから。


 この対談動画の中で二人が仰られている、


”もう伝わるとか理解してもらうとかどうでもよくなったんだよね”


 そうして僕は思う。
 そんなこと言わすなよ。言わすくらいなら弟子になるな。
 こんにちの料理人はひどく狡猾だ(料理人に限った話ではないが)、弟子入りした振りをして上澄みを根こそぎ飲み干し、そうして理解したつもりになって見限る(独立する)。お前らこそ見限られたことを知らずに。
 浅薄な時代になったのだろう。浅く広くは素晴らしい、しかし浅いだけなのは違う。象徴的なのは直観的に触れられるスマホであろうか、便利なのは確かだ。しかしそうして育ってしまった我々は、もうひどく簡単な面倒も引き受けることなどできはしない。
 人参の皮剥きを一日中やっていても、人参の皮剥きが上手な機械(人間)が生まれるだけだ。そんな努力をする必要はない。しかし、それを無駄だと言うにはそれを言うための精神(頭)が備わっていなければならない。それがないのならば、やはり人参の皮剥きをしなければならない。決して逆にはなりえないのだが、それすらも理解からはほど遠い。
 これは食べ手側にも同じことが言える。間違いなく、我々は双方向的に「ダメ」になっているのだろう。


 そして、この時代にそんな考え方など前時代的で時代錯誤だと言う「馬鹿」ばかり。


 100均の包丁とレゴで作られた家、何が入っているか分からない牛丼。
 そうして我々はついに、和包丁もなく、木の家もなく、餌しかない、そんな幸せの世界へ到達するのだ。


 谷さんワンオペになっちゃったのか...
 お店に行くか。


 レシピに囚われた人々

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