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レシピに囚われた人々

 世界を埋め尽くすレシピの山々。
 ネット上のものも含めると、チャーハンやペペロンチーノなんかは50億とおりほどあるのではないかと錯覚するほど溢れかえっている。
 SNSを見ているだけで地獄なのに、てきとうに検索するだけでうんざりするほど見せるつけられるレシピの山は、目にカスるだけで料理嫌いになれそうだ。

 レシピはレシピを呼び、独自のアレンジを加えたレシピがまた放流され、さらに安易なアレンジが加えられる。原型が分からなくなるほどに壊されつくしたものを「レシピ」と呼ぶのはあまりにお粗末に過ぎる。

 料理を始めた頃なんか、如何に美味しいレシピを見つけるかに邁進したものだが、今にして思うとそれほど無駄な時間はなかったと思う。
 正確にそのとおりに作ったとしても、胃に入れれるものは作れど美味しいものは作れない。当たり前だ、前回の記事にも書いたとおり、レシピと呼ばれるものには重要な位置を占める情報が欠落しまくっているからだ。
 そもそも書かれている情報ですら相当に怪しい。塩が〇gと書かれていても、その情報自体は「そのレシピ提供者が美味しいと思って入れた塩の量を計ったもの。」もしくは「どこぞのレシピに書かれたものの複製。」程度に過ぎないからだ。
 一見、この大本がプロや料理研究家なら問題がないようにも見えるのだが、それこそが盲目的で恐ろしい。辛いお塩を入れれば辛くなるし、甘いお醤油を入れれば甘くなる。それが3つも重なれば、大抵は闇鍋の完成だ。
 レシピの意義など、必要な情報の大部分を共有している同じ店のシェフ達が、お店として同じクオリティのものを提供するためのもの程度でしかない。
 そもそも最高級のレストランほど日々お店のレシピを壊し続けているのに、正確なレシピなどあろうはずもない。


 上記に加えて、さらに悪い風潮がある。

”美味しいご飯を作りたければレシピに忠実に計量しろ。”

 このワードが人に与える影響は甚大だ。
 大抵の場合、この言葉は他者から投げつけられる。この言葉に囚われ、必要もない計量を繰り返し心を摩耗させる。辛いものを計量して入れても辛くなるだけだ。ここに調理技術がどうだのと付け加えられると吐き気さえ催す。そうして料理嫌いの迷宮へと迷い込む。
 レシピを忠実に作らない故に美味しいものが作れないと決めつける行為ほど人を傷つけるものはない。

”入れるものの量なんか、それを食べられるか、食べたいかで決めればよい”

 自身のおうちにあるものの味など当人以外知りようもない。だから他人のレシピなど一切気にするのを辞め、せいぜい「食べられる量のお塩を入れる。」程度を心がければ十分だ。その食べられる量は、各々のおうちのお塩の特徴や、好み、食事全体のバランスで決めればよい。間違っても手の平いっぱいのお塩など一食中に食べたい人などいないだろう(注:世の中にそういう人がいるのも知っている。)。分からなければ、一つまみのお塩を舐めてみればよい。これ以上舐められない量こそ一皿の限界量だ。


大好きな言葉がある。

「お肉は美味しそうに焼く、美味しく見えればそれは美味しい。」

 昨今、やれ料理は科学だNaClだと騒ぎ立てる風潮が強い。
 しかし、どれだけ理論構築しようが、結局試作⇔改善しなければ上手く作れない現実を思い知らされる。表面にメイラード反応を起こそうが、どこかで見た低温調理を施そうが、イノシン酸とグアニル酸を相乗効果させようが、美味しくないものは美味しくないのである。
 ましてやレシピは完全な化学式ですらない。どこかの誰かがてきとうに作ったボロ屋の残骸だ。
 未だ料理は数多の試作の上に作られたものを、科学で後追いしているに過ぎない。


”レシピを見る弊害”

 これまではレシピの内容について書いてきたが、”レシピを見る”こと自体がかなり根深く深刻な問題と化している。
 皆さんは横に引くドアを押し引きした経験はないだろうか、私はある!
 誰もがあるていど共感できる料理の話しに落とし込むならば、カレーに入れる肉の種類の話しだろう。豚肉・牛肉・鶏肉論争、この家庭料理にまつわる論争はとにかく不毛だ。各々の家庭の事情や地域柄、もしかしたら宗教的な側面も含めて、理解し合えないことが多い。そのレシピが頭と身体に染みついていると、他の食材を入れることすら度し難いものとなる。

 もう少し掘り下げよう。お鮨のネタに小肌というものがある。
小肌というお魚は塩で臭みを抜き、酢で締めて食すというものだ。これが基本だとされる。どんなお鮨屋さんで修行しようが、間違いなくこれを最初に叩き込まれるだろう。
 こうして彼らはそのレシピを頭と身体に染みつけて独立する。独立すると彼らは、お店の繁栄、もしくはより美味しいものを作るためレシピの改善に取りかかるのだが...
 使っている塩や酢の量・種類を変えることはあっても、塩をして酢で締めるという大原則自体からは逃れることができない。いや、もはや思いつくことさえ困難な自体に陥ってしまっている。
 教えられたことをいくら実践できようとも100%理解することなどない、そして慣れたら気づかないほど緩やかに劣化するのだ。理解していないものが劣化する、それがアレンジにアレンジを重ねたレシピと何が違おう。
 レシピは知らず知らずに深刻な先入観を植え付ける。
 プロの料理人でさえ(料理人ほどとも言えるが、)、レシピに蝕まれているのだ。

「余談」

 お塩やお酢の微調整の結果、究極の一に辿り着く場合もある。しかし、99.9を100にする努力は途方もないもので、ネテロが一日1万回感謝の正拳突きで音を置き去りにした行為に等しい(言い過ぎ。)。
 お鮨屋さんや日本料理屋さんが(古典フランス料理とかもあるよとか言わないでね。)、包丁の入れ方や同じ料理をひたすらに研ぎ澄ます傾向にあることは重々承知している。しかし今日流行ったものが翌日廃れる昨今、世界は料理人が円熟する時間を待ちはしない。
 もちろんそれをやらない理由にはならない。全てを同時にやらなければならない。現代の料理人は兎角に大変な存在となってしまった。

「余談終」


 我々は生まれて母乳や離乳食を食し始めてから今日に至るまで、ありとあらゆるレシピに蝕まれ続けている。そしてその毒は現在進行形でいよいよもって逃れえないほど強力になっていっている。
 我々は今一度レシピの在り方を考え直さなけばならない、いや目を背けるべきだろう。
 もはやレシピで料理を美味しく作れる時代は終わったのだ。




1+1=6
6×6=100
よって(1+1)×(1+1)=100
100は√7に置き換えることが出来るから
(1+1)×(1+1)=√7

あぁこれはボロ屋の残骸以下だ...

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