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こんなぼくが歴史コースの大学生になるまで

クイズ研究会はなかった

こうしてぼくは、クイズで高校を選んだ。
第10回高校生クイズ3位の長崎県の高校だ。
きっとクイズ研究会があり、必死にクイズに勤しんでいるに違いない…
と僕は思っていた。

しかし、クイズ研究会は、なかった。
先輩に聞いた話だと、あの「三人の先輩」は退学覚悟で大会に出場し
3位になったとのことだった。
ものすごい努力の上に、あの3位という結果があったのだろう。

ただ、ぼくは絶望しなかった。
「クイズができないわけじゃない、クイズは今まででもひとりでやってきたんだ」
問題集を買い漁り、自分でボタンのまねごとのような機械を作り、
アタック25を見漁りと、ぼくのクイズ熱は止まりはしなかった。

高校と卓球と生徒会と。

ぼくは中学のとき卓球をしていて、10年ぶりにライバル中を破り、
県大会に進むなど、そこそこの成績を残していた。
なぜかキャプテンもさせられた。生徒会の副会長もしていた。
目立ちたがりでは決してなかったが、落ちこぼれでもなかった。
このときの生徒会の会長と、県大会で戦った中学のメンバーが
同じ高校にいるとは思いもしなかった。
(とくに会長)

ぼくは会長の女の子を常に「会長」と呼んでいた。
ぼくの目には、その子はとても普通の子で、目立つわけでもなく、
すごく美人でもなく(すごく容姿が悪いわけでもない)、
とりたててリーダーシップがあるわけでもないし、
なぜ会長に立候補したのかもわからなかった。
2年生徒会をやったが、それでもわからなかった。
(2年目は選挙で落ちたが、生徒会役員として先生推薦で残った)

とても「普通」のその子が、ぼくの本当の初恋だったのかもしれないと、
20年以上経った今になると思うのだ。
電車で一時間半の高校で、彼女も同じ方向だったので、よく一緒に帰った。
ただ、ぼくは彼女を「会長」とずっと呼んでいた。
それ以上の関係には、なれなかった。

優秀な成績で入学、しかし…

ぼくは「お勉強」は得意だった。田舎の学校ではあるものの、
中間・期末テストで450点を切ったことはないし、
実力テストでも400点を切ったことはなかった。

高校の宿題をもらってから最初のテストがすごく大事と聞いていたので、
必死に勉強し、数学で満点を取った。クラスでも掲示された。
市内から通っていないぼくは一躍注目されることになった。
田舎のよくわからないオタクのような高校生が400人の学年で
満点をいきなり取ったのだからちょっとは注目もされるだろう。

ただ、それがプレッシャーになった。
ぼくは部活で卓球部もやっていたし、クイズも勉強していた。
学校の勉強も頑張ったが、やはり辛かった、のだ。

ちょっと前でいう「ガリ勉」「陰キャ」だったぼくは、
暗記が得意だったので社会が好きだった。

ある日、父が「竜馬がゆく」を全巻買ってきた(9巻あった)。
父は竜馬が大好きで、幕末が大好きな営業マンであった。

「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」

我が家には、今もある一部屋に、有名な書家の先生が父に頼まれて書いた
和歌がある。

『わが胸の 燃える思ひに 比ぶれば 煙は薄し 桜島山』

https://bakumatsu.org/wremarks/view/341  より

「竜馬がゆく」にも登場する勤王の志士で、
山伏の格好をして全国をまわり勤王思想を広めた、平野国臣の和歌である。
ぼくはこの和歌のことを父からずっと聞かされて育った。

ぼくは高校で少し成績を落とし、このあたりは完全に黒歴史なので
省略するが、第一志望の大学には失敗した。
福岡の予備校・河合塾で浪人生活を送ることになった。

一年後。
ぼくは
「一年浪人したからにはちょっとは上のところを目指さないと・・・」
という暴挙をかまし、筑波大学の第一学群を受験、前期落ちした。
河合塾のテストではA判定以外取ったことがないのに。

ここでもプレッシャーか。

後期は某赤い球団がある大学だった。
そして、ぼくが一年前に受けた大学でもあった。
学部は教育学部から文学部になっていた。
そう、「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」のためである。
(燃えよ剣については後で文章を改めようと思うくらい影響を受けた)

教科は小論文と面接。小論文は与謝野晶子の歌論に関するもの。得意だったのでかなり自信をもった解答ができた。問題は面接だ。

まるで企業の面接会場のような場所。先生は9人。
ぼくの目の前には、ひげをたくわえ、「書家」のような先生がいた。
あとでわかったが、この先生はのちに学長になる頼棋一先生であった。

ふたつの奇跡

緊張でガチガチになっているぼく。
日本文学科の先生が今回の問題についての質問をしていく。
日本史専攻希望なので、そのあたりは緊張しながらも
答えていくことができた。

すると、男性の先生からひとつの質問が飛んできた。

「与謝野晶子の和歌を題材にした文章でしたが、
あなたが知っている和歌をひとつ教えてください」

(和歌・・・)
(・・・ありがとう、お父さん)

「『わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙は薄し 桜島山』です」
「それは誰が詠んだものですか?」
「幕末の勤王家の平野国臣です。勤王思想を薩摩藩に広めようとして断られ絶望した時に詠んだ和歌と聞いています」
「なぜそれを選んだのですか?」
「ぼくの父が好きで、書家の先生に色紙に書いてもらい、
家に飾り、よく話をしてくれたからです」
「頼先生、これは・・・」

ここで目の前にいる人が頼山陽の血族である頼棋一先生であると知ったのだ。しかも専門は頼山陽・頼三樹三郎が生きた江戸時代だ。

「はい、事実です。なかなかいい和歌を選びますね」

よかった・・・

「では頼先生、最後の質問を」

・・・!!

眼の前にいる「教授の権威」そのものが、ゆっくりと口を開く。
ぼくは「オーラ」というものを初めて見た、と思う。

そして頼先生はにこっと笑って

「好きな球団はどこかね?」

ぼくは満面の笑みで、
1984年、1986年にセ・リーグを制し、
機動力野球で当時最強の西武ライオンズに対抗した、
その大ファンの球団の名を答えたのだ。

当時大好きだった北別府学投手・津田恒美投手の名前を添えて。

ぼくは後期日程でその大学に入学し、
レジェンド・大野豊選手の引退試合まで、
数十回市民球場に通うことになる。

次回
「こんなぼくが塾講師になるまで」

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