一家の顛末 2

うららかな春。
街には桜があふれ風は心地よく、長い冬を我慢してきた皆がピクニックシートを持ち寄って色とりどりのランチボックスをつついているのを尻目に私たちは夫の実家へ向かった。


結局、実家に残った大量の義父のモノを処分することに決めたのだ。
遠方に住む夫の兄弟も処分には同意してくれたのでインターネットで見つけた遺品整理業者2社の見積もりに立ち会うために実家を訪れた。

見積もり自体はスムーズに終わり、金額も想定内だったので説明が明確で印象が良いほうの業者に依頼をした。

夫は仏壇をどうするか最後まで悩んだが、昔から実家に鎮座している重たくて大きな仏壇を果たして転勤族が大事にできるのか疑問だったし毎度搬出入をする引っ越し業者のスタッフさんに迷惑だろうということで遺品整理業者に任せて処分することにした。

何より、夫は家のことを何もしないし転勤に伴う引っ越しも全て私が手配・作業しているので仏壇なんか持っていたら私が苦労するのが目に見えている。



翌週には遺品整理に着手、5人のスタッフでまるまる3日と半日を作業してもらい売却予定のピアノと義父コレクションのCD以外はきれいさっぱりなくなった。・・・と書けば1行でまとまるが、これは最大限ミニマルな表現であり実際は色々あった。

モノの量は前述したとおりだが、そのモノがまるでテトリスのように一分の隙もなくきれいに収納に詰められていたので出しても出してもまだ出てくるという地獄、そして色々な隙間から出てくるアダルトな本やDVD、買い置きしていたもののそのまま変質してしまった洗剤類や調味料、果ては聞いたこともない苗字・名前の人に贈られた戦争時の従軍関連の賞状まで出てきた。

遺品整理業者が見積もりで想定したぶんより多くのものが出てきて予定の作業時間では終わらず半日も時間オーバーしてしまった。
そういえば義父は県内一の学校を卒業したと聞いたことがある。その優秀さを収納テトリスに発揮してしまったのだ。そして沢山の現場を見てきたプロであろう担当者に「こんなにモノが出てくるとは・・・舐めてました・・・」と言わしめてしまったのである。

捨てた荷物量は2トントラック10台分になった。
立派な家具に立派な装丁の本が多く、さぞ重かったであろう。
よく家が潰れなかったなと思う。

遺品整理業者に探してほしいとお願いしていた義父の詩を書き集めたノートは結局出てこなかった。
きっと義父がどこかへ持っていってしまったのだろう。



遺品整理業者が引き上げた後、モノがなくなって日あたりが良くなり広くなった実家はまるで知らない家のように印象が変わり、内装の良さも相まって素晴らしい豪邸に見える。
広いキッチン、豪華な水回り、ホールは吹き抜けになっておりシャンデリアが掛かっている。

お金持ちとはこういう家に住んでいるのだろう。モノが溢れている頃には考えもしなかった。
家はあくまで額縁。どのぐらいモノを置きどう飾るかで良くも悪くも家は変わってしまうのだ。



何もない広い家は床や壁の汚れが目立つので後は私が一人で掃除をした。
長年モノがひしめき合っていた頃の実家は掃除すらままなかったのか、使い捨てのフローリングシートを滑らすとひと拭きで真っ黒に変色する。
壁も所々にシミがあり、黄色くなっていたので拭き取る。

床の足跡や、柱の手垢、そういったものも、まるで完全犯罪をでっち上げようとする犯人のように、義父が住んでいた痕跡をひとつひとつ消していく。
黙々と拭きながら、ふりかえる。
遺品整理ではたくさんの本と縁起物が出てきた。中には詐欺商材のような開運グッズも多くあった。

義父は必死だったのだ。成績が良かったにも関わらず持病で進学を諦め、それでも地元で色々な大会に出たり新聞に投書を寄せていたりした。
結婚もしたが妻は幼い子供を残して先立ち、高齢の母と協力して必死に子供を育てあげ、その高齢の母を介護して数年前に見送ったばかりだった。

残されていた本からは、もっと自分に自信を持ちたかった。劣等感を周囲に悟らせたくなかった。もっと広い世界へ羽ばたいていきたかった。そういった義父の切実な葛藤が見て取れた。

高額な開運グッズからも、義父の置かれた状況や気持ちが痛いほどに伝わってきた。
こんなはずじゃなかった。ひとつひとつがそう叫んでいるようにも見えた。

私も泣きはしなかったが、もう少し義父の話を注意深く聞いていればよかったのかもしれないと後悔した。
しかし何もかもがもう遅い。
時間は決して戻らない。



5月の連休、私たちは夫一家の墓へ向かった。
霊園事務所には墓に遺骨を納めることを連絡してある。
レンタカーで初夏の爽快な山道を走り霊園の手前で花を買い、一家の墓まで歩いた。

現地ではスタッフが暑い中待ってくれていて、納骨作業をしてくれた。
義父よりもずいぶん年上に見えるスタッフに墓に掘りつける義父の名前と享年を聞かれたので伝えると「ちょっと早かったんだね」と悲しそうに笑って言ってくれた。



その後は、実家からほど近い山あいの家を訪ねた。
大きな市街地同士を結ぶ市道に接しており、バス停が目印だ。
市道からは車1台分の幅があるかどうかの狭くて急な坂を上って一つ目の家がお目当ての家だった。

広い敷地は草が生え放題で荒れており奥のほうは薮になっている。
家は建っているが、無人のようだ。古く安っぽい平屋の住宅で、生活している様子は見られず鍵もかかっていたので中の様子はわからない。古い倉庫と新しめの倉庫もあるが、こちらも鍵が閉まっている。古くから人が住んでいた土地らしく井戸があるものの長年にわたり放置され水位が上がりきって遠目からでも水面がキラキラ光っていた。

この辺りは山を利用した小規模な開発住宅地らしく、周囲に住宅はあるが人の気配はない。
敷地の端は切り立った崖になっており、崖下の市道では土曜の午前授業を終えた子供たちが賑やかな様子で帰路についていた。



全く正体不明のこの土地と建物は、義父の遺した相続財産の一つだ。
この土地は、義父のエンディングノートと遺品整理で見つけた登記権利証をもとに住所を特定して訪れた。
この土地のほかに近所の山林も所有しているようだ。


荒れた土地と廃墟の周りを歩きながら私の直感が「ヤバいぞ」と最大限の警鐘を鳴らしていた。
快晴の夏日だというのに背中に冷たいものが走り冷汗が流れた。
結婚前は不動産業界で働いていたのでわかる。


これは・・・とんでもない負動産だ・・・

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